海援隊は有名だけど陸援隊はあまり知られていない
1928年6月4日、張作霖爆殺事件が起こった。
この出来事に対してカンカンに怒ったのは千野財閥であった。
何故千野財閥が怒ったのか、それを知るには千野警備について説明しなければいけない。
千野警備とは千野財閥内の民間軍事会社のことである。
千野成章が幕末に荷物を護衛する部隊を設立したのが始まりである。
最初は浪人などを中心に募集し、近代式の軍隊へと訓練した。
その後、戊辰戦争に参加し鳥羽伏見・甲州勝沼・会津・函館を転戦する。
戦争が終わると旧幕府軍の人員を取り込み拡大、千野警備として独立した。
西南戦争にも参加し、抜刀隊と共に投入される。
元々千野警備は浪人などの武士によって編成されており、旧幕府軍特に会津の武士たちも参加した。
西南戦争が終わると士族を取り込み、再び拡大を図る。
彼らは傭兵として日清・日露戦争にも参加し、少数精鋭の特殊部隊として活躍した。
煙幕に紛れ後方の司令部に肉薄したり、闇夜に紛れ弾薬庫に忍び込み爆破したりした。
さらには敵の港に水中から接近し、敵艦の艦底に爆弾を設置するなど敵の裏をかいた攻撃を行った。
第一次世界大戦にも協商国側で参戦し、ヨーロッパ戦線で戦った。
名前には警備とついているが、歴戦の傭兵たちが所属する民間軍事会社である。
さて張作霖は千野警備と契約し、自らの護衛を頼んでいた。
というのも張作霖は関東軍から命を狙われていると感じており、国民革命軍を通じて千野財閥へ接触を果たしていた。
しかしこの事件により、千野警備の社員が多数死亡し、顧客であった張作霖は死亡した。
いくら強かろうと爆弾には勝てないのである。
関東軍が犯人と分かると千野財閥は政府に対して損害賠償を請求した。
だが政府は請求を棄却、それどころか陸軍から圧力がかけられた。
千野財閥の社員が憲兵につけ回されるなど、陸軍から嫌がらせを受けた。
立憲民政党は政友会と事件の責任追及を争っていた。
もちろん千野派も直接的な被害を受けたのもあって、政友会と対決することになった。
陸軍も軍法会議を開こうとしないので、保安局と司法省が軍法会議を開くべきと抗議した。
結局、田中内閣が総辞職し損害賠償は有耶無耶になってしまった。
これによって千野成章はますます不信感を深め、対政友会・関東軍へ方針を切り替えた。
千野財閥は事件後直ぐに張作霖の息子の張学良と接触していた。
千野警備の傭兵たちが身を挺して張作霖を爆発から守り、憲兵が来るまでボロボロの体で警護をしていたこともあり、張学良は千野財閥に友好的であった。
それにより張学良の反抗先は日本全体ではなく関東軍や陸軍のみに向かった。
契約は更新され千野警備は張学良の警護と、満州地域の防衛を任された。
早々に千野警備の傭兵部隊が展開し、関東軍が進出してこないように睨みを利かせた。
その隙に張学良は蒋介石に接近、関東軍を大陸から叩き出すために和解したのだった。
千野財閥は満州地域に進出し、インフラの整備などを始めた。
大陸の利権を巡り千野派と陸軍は敵対することになる。




