世界第6位の海軍を持つ会社
1922年イギリス海軍から千野財閥にセールスがやってきた。イギリスは「戦艦要りませんか」と言ってきたのだった。
弩級戦艦8隻と超弩級戦艦2隻を買わないかと持ちかけられた。
さすがに千野財閥側からちょっと待ったが入った。海軍軍縮条約に違反するのではないかとイギリス側に言った。
イギリス側からの返答はスクラップとして売るから問題ないとのことだった。
兵装類を全て下ろした状態でスクラップとして売るから大丈夫という理論だ。
そうしてスクラップにしては少し高い値段でこれらの戦艦は千野財閥に購入された。
イギリス海軍は試しに金持ちで有名な日本の財閥に高い値段でふっかけたみたのだが、絶対無理と思っていた値段そのままで千野財閥が購入したのだった。
購入されたこれらの戦艦は解体されることなく、しばらくの間東京湾の片隅に放置されることになる。
1927年またイギリス海軍がセールスにやって来た。
今度は弩級戦艦1隻と超弩級戦艦5隻を買わないかということだった。
イギリス海軍はそこら辺の解体業者よりも、かなり高い値段で買ってくれる千野財閥に売り、新造艦の建造費を賄おうとしていたのだった。
今回もこれらの戦艦はスクラップにしてはかなり高い値段で購入された。
さて放置されている戦艦群を見て修太郎は保安局の船にしようと考えた。
保安局が所有している艦艇は数はあるものの、オンボロばかりであった。
あるのは45口径の8.8cm単装砲とポンポン砲を積んだ水雷艇と、45口径の105mm単装砲とポンポン砲を積んだ駆逐艦だけだった。
保安局は錆まみれで赤い艦体でも、浮き砲台でいいから使える船が欲しかったのである。
しかしスクラップとして売られた船なので改装をしなければならなかった。
そこに手を挙げたのは三菱と大日本兵器だった。まず三菱の手によって主缶の換装と装甲の配置、艦橋の新規設計が行われた。
兵装類は大日本兵器が担当しドイツ製の砲が乗せられた。
弩級戦艦の主砲には50口径の30.5cm SK L/50連装砲が搭載された。そしてほとんどの弩級戦艦は魔改造され主砲が載せられた。
一隻を除き弩級戦艦は舷側に主砲を搭載しており、主砲を背負式配置にしたり、艦橋を後ろに下げたりして第二砲塔を中央に搭載した。
超弩級戦艦の場合は魔改造されることなくSK L/45 38cm(45口径)連装砲そのまま載せるだけでよかった。
こうしてイギリス製の艦体に日本式の配置、ドイツの兵装という奇妙な戦艦が誕生した。
アメリカが戦艦に州名を命名するのに倣い、保安局は戦艦に県名を命名することにした。
後々この戦艦が国際社会を巻き込む大騒動を起こすのだが、それはまた別のお話。




