争いにより全ては進む
1927年は日本に数多くの自動車メーカーが流入した年だった。
最初に安田・住友とゼネラル・モーターズによって、半々の出資で日本ゼネラル・モーターズが設立された。
安田と住友は千野財閥と敵対しており、ゼネラル・モーターズはフォードと敵対していた。
千野財閥とフォードがフォード・ジャパンを設立した為、対抗する利害が一致した両者が協力したのだった。
他にも三菱とロールス・ロイスがロールス・ロイス・ジャパンを設立。
三井とフィアットが日本フィアットを設立するなど、海外資本と日本資本が1:1の会社が乱立することになる。
千野財閥はダイムラー・ベンツとダイムラー・ベンツ・ジャパンを設立。
結局、この時点では安住派は自動車産業では千野派に負けてしまった。
そのため安住派は今後、国内の自動車産業育成に力を注いでいくことになる。
たとえばダットサンやトヨタなど新興企業に無利息、返済無用の投資を行った。
しかし経緯はどうあれ日本国内の自動車産業は活性化していく。
自動車を販売する会社がいくつもあることで、低所得者向けと高所得者向けの車が流通する。
そして日本国民のほとんどは、それなりの所得が有れば車が買えるようになった。
自動車産業が活性化すると石油需要が高まって来た。
それにより国内石油会社は拡大し、供給量が増えていくものの需要を満たせる程のものではなかった。
千野財閥は石油に関しては海外資本を入れたくは無かった。
実は日本国内の石油需要のほとんどは千野財閥の物流が占めていた。
民間の石油需要は国内石油会社のみで満たせていたのだった。
そこで千野財閥は元鈴木商店だった部門に石油部を新設し、石油の輸入を任せた。
千野財閥は石油会社を設立せず、商社内の一部門として石油業界に参入した。
しかも自社内の需要を満たす為だけにである。
規模は一部門だけとはいえ、他の国内の石油会社の規模を軽々と超える。
輸入された石油は社内だけではなく、保安局にも供給された。
そして、自動車が普及していくと運輸事業監督権を巡って内務省と逓信省・鉄道省が争い始めた。
逓信省と鉄道省は千野派の息がかかっており、内務省からみれば敵であった。
内務省との争いが激化するにつれ、逓信省は鉄道省と協力しだした。
内務省側の主張は
「道路交通を取り締まるのは警察なんだから監督権を寄越せ。」
というものであった。
一方で逓信省と鉄道省の主張は
「内務省は経済的なことは門外漢。逓信省と鉄道省は交通の運営をしているんだから、こちらの物でしょうが。」
というものであった。
終いには内務省が逓信省や鉄道省の職員を付け回したり、スキャンダルを流したりするようになった。
騒ぎが大きくなると、大臣同士でいがみ合うのも大概にしろということで、総理大臣が出てきて調停しようとした。
だがしかし、決着はつかず運輸事業監督権は内閣官房へ丸投げされ新しく陸運局が作られた。
千野財閥からすれば陸運局は千野派の範囲内なので、別にどうでも良かった。
内務省はまたもや面子を潰されて不機嫌であった。
逓信省と鉄道省に至っては政府内で運輸省に一本化しようという話が出てきた。
ようは誰も特段良いことは起こらなかったのである。
結局、世界恐慌が起きると陸運局・逓信省・鉄道省は統合され運輸省が誕生した。
それにより、この争いに意味は無かったことになった。




