親バカも度が過ぎればただの馬鹿
1925年(大正14年)治安維持部隊は保安局として正式に設立された。内閣直属のため内閣保安局と呼ばれることになる。
治安維持法も同年に制定されたが中身は保安局の権限に関するものがほとんどになった。
内閣保安局の役割と権限は多岐に渡った。東京市及び周辺の治安維持、デモや暴動の鎮圧、カウンターテロ部隊、要人警護、港湾及び湾岸・沿岸警備……etc
いくらなんでも役割が多すぎであるし、権限を与えすぎな気が否めない。しかしこれには理由がある。
千野伯爵は流れ的に治安維持法制定にも関与することになったのだが、彼は主義や派閥関係なく人を集めた。(日本史上最大の超党派と言われる)
そのため本来の役割と権限に加えて、要人警護をさせたい人たちや港湾や湾岸などの警備をさせたい人たちが、それらの役割と権限をついでの感覚で付け足したのだった。
普通はそんな法案通らないのだが千野伯爵が人脈をフルに使った結果、若手の議員から重鎮まで大勢の人が集まって賛同したので通ってしまった。
さてそんな保安局の局長になりたがる人は居なかった。なれる人も少なかった。
中立性を保つために内務省や陸軍省・海軍省の人物を使うわけにもいかず、大臣級の役職を経験した人も明らかに厄介だと気づいてやりたがらない。
そこで動いたのがやっぱり千野伯爵だった。委員長という役職に就いていることをいいことに、自分の息子を局長に推薦した。(当初の目的を遂行しただけだが)
通常ならそんな案は通らないのだ、通らないはずなのだが、何かの間違いか通ってしまったのだ。
はっきり言って政府は自分たちが始めた事だけど、話が大きくなりすぎて自分たちの手を離れてしまい、正直めんどくさくなってきていた。
政府にとって局長決めでさらに揉めるのは嫌だった。そこに推薦された千野伯爵の息子。
大学卒で伯爵家の一人息子、経歴は真っさらでどこの派閥にも属していない。採用しない選択肢は無かった。
そうしてめでたく千野伯爵の息子、千野修大朗は内閣保安局の局長に就任する。当然本人の了承もとらずに。
さらに千野伯爵は局長以下保安局の首脳部の人選を終えて、保安局の中核ができると組織の編成を局長に任せると言って委員長を辞任。
そのまま治安維持法制定委員会は解体されるが、治安維持部隊設立委員会は保安局に半ば吸収される形で消滅した。
しかしこの期に及んで当の千野修大朗は何も知らないままであった。彼が事の真相を知るのは4月に大学の卒業式が終わり、父親に呼び出されてからだった。(3月までには全て完了していた)
内閣保安局の物語はそんな真実を告げられた千野修大朗の叫び声からはじまる。
「内閣保安局の局長になるなんて聞いていない!」