中間管理職はつらいよ
1927年3月7日北丹後地震が発生した。
関東大震災から間もなく起こった地震であるため注目されることがあまり無いが、死者・行方不明者が多い明治以降の地震の一つに数えられている。
東京市内に展開中であった保安隊のうち臨時に編成された一個連隊と、一個騎馬旅団が救援のため派遣された。
同時に横浜からは救助物資を積んだ駆逐艦と水雷艇が、舞鶴・神戸・大阪港に向けて出港した。
騎馬旅団と艦隊は辛うじて地震発生の翌日の夜に到着したが、連隊は3日後に到着した。
最初に到着した騎馬旅団は被災者の救助や行方不明者の捜索を行った。
他にも治安維持や炊き出しが行われ、警察が機能しない中活躍した。
連隊が到着すると瓦礫の撤去と仮住居の建築が始まった。
被災地は3月とはいえ未だ寒く、炊き出しや仮住居の建設は餓死や凍死から被災者を救った。
実は1925年の5月23日には北但馬地震が発生しており、その際にもかなりの被害が出た。
その時に比べ今回は発生後の対応により、被害者の増加が抑えられた。
保安局の救援によって復興が早まったのは明らかであったが、保安局は大分無理をして派遣をしていたのだ。
今後、さらに災害が発生した場合に遠方だから派遣は無理ですとは言えない。
流石に拠点が東京だけではきついということで、大阪に新しく拠点を作った方が良いだろうという指針が政府から出された。
そうして大阪に分局が設置され、他には札幌・仙台・名古屋・福岡などに支局が設置されることななった。
分局と支局を管理するため新たに保安総監部と保安監督部が設置された。
保安総監部が設置され、保安総監部は大阪分局の運営と各支局の統轄を任された。
保安総監部の下には保安監督部が設置され、各支局の運営を任された。
分局は東京の保安局と同等の規模であり、西日本での保安局の拠点となる。
支局は規模別に中央支局・基幹支局・地方支局の三つの区部に分けられる。
中央支局には名古屋支局のみが該当し、名古屋は五大都市の一つのため分局相当の待遇である。
基幹支局には札幌支局や福岡支局などの広域を管轄する支局が該当する。
地方支局には甲府支局や岡山支局などの小規模で他の支局の補完をする支局が該当する。
さて新しく設置された二つの部署、当初は保安本部の下に設置されるはずだった。
実は設立時には分局と支局の特性上、指揮系統問題がついてまわった。
分局と支局を管理する部署が保安本部の下に設置されると、保安隊との指揮系統に関して様々な問題が発生する。
そこで以下のような形に落ち着いた。
保安総監部・保安監督部は共に分局・支局に於いて指揮権は持たない。
だが保安本部・保安隊本部に代わり人事権などの事務に関する権限を持つ。
東京の本庁に於いてはそれらの権限は保安本部と保安隊本部が持つ。
これらの事から保安総監部は保安本部からも、保安隊からも独立した部署とする。
そして、保安本部長・保安総監・保安隊本部長、この三つの役職は保安局三長官と呼ばれることになった。




