ドイツの技術力は何とかやら
大日本兵器の工場では早速兵器が製造されていた。
まずベルサイユ条約の制限をくらって満足に生産できなかったkar98a・kar98bや、モーゼル・スタンダードモデル1924の生産が始まった。
同時にkar98改良型の研究も行われた。
大日本兵器で生産された小銃は儀仗用や予備用に保安局で配備された。
また民生用ライフルとしてこれらの小銃は猟銃として日本国内で販売された。
重機関銃の生産も開始されMG08重機関銃が保安局に配備され始めた。
生産されたのは空冷式に改良された物であり、08式重機関銃に名前を変えて生産された。
秘密裏に大砲の製造も行われており、新兵器の研究・開発も進んでいた。
これらの兵器は奉天派への支援用として中国大陸に運び込まれた。
中国大陸に運び込まれた兵器の一部分はドイツへと密輸された。
流石に大砲などをドイツまで隠れて運び込めたなかったので、ほとんどは倉庫に保管された。
大日本兵器が出来たことにより中独合作は行われる事は無かった。
しかし中国大陸には大日本兵器で生産された銃が大量に流入することになる。
大日本兵器が本格的に稼働し始めると第二陣として、ユンカース社やメッサーシュミット社などの航空機メーカーがやって来た。
第三陣にはMANやダイムラー・ベンツなどの自動車メーカーがやって来た。
同時に実験部隊としてヴァイマール共和国軍がやって来た。彼らはいわゆる元帝国軍人であり、帝政支持派であった。
魂胆としては国外で軍備を増強してしまおうというものだった。
兵器の生産や研究・配備だけではなく人員の育成・教育まで日本で行うつもりなのだ。
対外的には彼らは大日本兵器の社員であって軍人では無いし、大日本兵器に所属する実験部隊という扱いなのである。
まるでドイツの参謀本部や陸軍大学校、陸軍士官学校が丸ごとやって来たかのようであった。
でも彼らはようやくヴェルサイユ条約の軍備制限より逃れることが出来た。
小銃を大量に配備し重火器も自由に使えて、航空機を飛ばすことが出来た。
だから赤軍とも協力しなくて良くなったので、逆に日本との結びつきを深めたのである。
だが忘れて欲しくないのが大日本兵器は千野財閥内の企業である。
大企業の集まった大日本兵器の運営は大変であり、三菱や三井はもとよりドイツ側もやろうとするどころか出来なかった。
結局膨大な資本力と物流網によって大日本兵器を運営するには、千野財閥しか出来るところが無かったのだ。




