ラスト・デイ
1926年、大正最後の年は最初から最後まで激動の一年だった。
1月28日に加藤高明総理大臣が死去し、1月30日には若槻禮次郎氏が総理大臣に任命された。
もちろん総理大臣が変わったからには、保安局局長は再度任命をしてもらわなければいけない。
しかし若槻禮次郎氏は加藤高明内閣では内務大臣であり、総理大臣になっても内務大臣を兼任していた。
これでは千野修大朗の局長再任は難しいのではないかと思われた。
だが他に任命できる人が居ないので意外にもすんなり再任されたし、6月3日には濱口雄幸氏へと内務大臣が変わった。
7月1日には帝国議会で治安警察法の弱体化や警察法の制定が行われた。それに伴い警察が戦力の拡大を行った。
この年は保安局で無線の利用が始まった年でもあった。
日本国内では4月1日に東京無線局検見川送信所として開局。6月12日には日本アマチュア無線連盟が結成。8月6日には日本放送協会が設立された。
無線技術が実用化され、それを利用する団体が一気にできた年だった。
2月には千野財閥が東北帝国大学の八木秀次と宇田新太郎を、巨額の研究費を以って自らの研究所に引き入れた。
同時にラジオ技術者なども引き入れ、音声無線通信の研究開発がはじまった。
12月16日に天皇危篤との報が東京に届くと、修大朗は出動準備を今井に指示し、父と共に葉山に向かった。
また修太郎は葉山に向かった閣僚の警護のため、保安局の職員を多数引き連れて行った。
そして12月25日に大正天皇が崩御され、総理大臣から初めて保安局へ出動命令が出された。
東京市全域に保安隊が展開し、皇太子が即位し葬儀が終わるまで続いた。
保安局の職員は初の出動なので全員下ろし立ての正装で勤務した。
国民の保安局に対する良好な感情も、この出来事が始まりになった。
大正天皇の崩御に際して、最上位の正装であろう服を下ろし立てで着用したことは、良い印象を国民に対して与えた。
2月8日に葬儀が終わった後も新宿御苑の葬場殿と多摩陵は一般公開された。そのため保安局は公開終了の4月4日まで出動することになった。
葬儀や参拝で東京に大勢の人々が集まり、保安局は大衆の目にさらされた。
見慣れない制服を着ていたり、見慣れない銃を持っていたりしたが規律のある行動をとっていた。
このことは子供にはかっこいいという印象を与えたし、大人には凛々しく立派な印象を与えた。
大正が終わり、昭和の始まりと共に保安局はデビューしたと言っても過言では無い。




