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仕事は続くよどこまでも

 旧桜田地区(現在の西新橋)と日比谷にその建物はあった。


 まるで刑務所のような壁に覆われた建物こそが保安局の本庁舎である。


 関東大震災により焦土と化した桜田地区一帯は千野財閥により買い上げられた。


 元々は千野財閥の社屋を建てるために用意されたが、千野成章によって保安局発足と共に庁舎の建築が開始された。


 壁の中には庁舎の他にも保安隊の宿舎などが併設され、要塞の様相を呈している。


 明らかに過剰だという声もあるが、元々保安局は革命やクーデターに備えるために設立された機関である。


 革命やクーデターの手から政府の中枢を守るため、この様な形態をとらざるを得なかった。


 地上にある壁が印象に残りがちだが、本体は地上にはない。


 庁舎の地下には通路や部屋が深く広がっており、道路を隔て旧桜田地区側の本庁舎と日比谷側の第二庁舎を繋いでいる。


 統合本部や重要な部署は地下にあり、まさに地下が本体というべきだろう。


 地下空間内には600mmのレールが引かれ、鉄道によって移動することができる。


 壁の上にもレールが通っており直ぐに部隊が展開できるようになっている。


 そんな建設途中の保安局本庁舎を歩く人影があった。


 もちろんご存知千野修大朗……ではない。


 彼は保安局次長の今井臣信である。


 今井は元農商務省の奏任官で勅任官に昇進する所だった。


 しかし千野成章に目をつけられたせいで、無理矢理保安局にねじ込まれたという可哀想な人物である。


 一応次長ということで勅任官(高等官二等)になれたのだが。


 修大朗が三ヶ月の間も海外に行けた訳は彼にあったのだった。


 さて彼は局長が居ない間大変な目にあっていた。


 1925年4月に治安維持法が公布され、保安局が設立された。


 修大朗は5月にはヨーロッパへ向かい、最終的に帰るのは8月になった。


 そんな局長不在の中5月30日上海で五・三〇事件が発生した。


 政府は保安局を派遣できないか考えたが、今井臣信は編成途中であり装備も足りないと拒否した。


 結局軍部の反対にもあい政府は保安局の派遣を諦め、海軍陸戦隊が上海に上陸することになった。


 編成などの膨大な仕事があるのにやめてくれと彼は政府に対して思っただろう。


 局長が帰ってきても9月18日には帝国議会議事堂が全焼し、社会主義者による放火が疑われ、出動命令が出されそうになった。(実際は改修作業中の作業員の火の不始末が原因だった。)


 装備がまだ満足に配備されていない保安局を出動させるのは無理と、出動命令が取り下げられるまで政府と交渉したのも今井臣信だった。


 ちなみに局長は念のため交渉を今井に任せて出動準備をしていた。

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