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全ての始まり

 1920年(大正9年)日本政府は1900年(明治33年)に制定された治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。1917年(大正6年)には10月革命(ロシア革命)が起こり、共産主義思想が日本国内で拡大するのを防ぐ為には従来の方法では足りないと考えられた。


 しかし本格的に治安立法が動きだすには1923年(大正12年)の関東大震災まで待たなければならなかった。


 日本政府は関東大震災を受けて治安立法と治安維持部隊の必要性を感じた。


 考えてみれば1905年(明治38年)の日比谷焼き討ち事件や1918年(大正7年)の米騒動、そして関東大震災でも主義思想によらない暴動が起こった。そのたび警察では対応できず勅令や戒厳令で軍隊が出動した。しかし一般市民に対して軍隊では対応が過剰な場合があった。


 翌年の1924年(大正13年)には治安維持法制定委員会が発足したのだが、治安維持部隊の設立に関しては宙ぶらりんだった。


 ここで出てくるのが千野伯爵という男である。千野伯爵本名を千野成章というが、甲州の豪農と豪商の家の間に生まれた。


 日本でも有数の地主また事業家で日本各地に土地をもっており、戊辰戦争の折には自身の物流経路を使い新政府軍に物資を援助した他、持っていた土地を宿営地として貸し出した。

西南戦争の際にも同様に政府軍に対し援助したため、その後伯爵の爵位を賜ったのである。


 また千野成章は実業家であるが他の財閥と違い流通・物流や販売を行うだけで、設計などはするが生産は他の所に任せていたため一部を除く財閥とは仲が良かった。


 そんな人物であったから千野成章は政界・財界共に妙に顔が広い。


 しかしこの男一つだけ欠点があった。それは極度の親バカであったことだ。


 千野成章には一人息子がいたのだが、息子のために松代大学という大学を作り入学させる程の親バカであった。


 そんな一人息子がもうそろそろ大学を卒業するのだが、千野成章は息子に事業を引き継いでもらうより、政府の偉い役職に就いてもらいたいと考えていたのだった。


 そう考えていた最中に治安維持部隊を設立すると聞いた千野成章はどんな行動にでるか。


 「そうだ!設立の責任者になって息子を一番上の役職につけよう。」と考えて自身の人脈をフルに使い治安維持部隊設立委員会を立ち上げ自ら委員長に就任した。


 そんなこんなで治安維持部隊が設立されることになったのだがこれが結構揉めることになる。


 どこが所管するかで揉めたのだ。最初に名乗りを上げたのは内務省・陸軍省・海軍省・司法省だ。しかし内務省は警察を所管しているし、陸軍にも海軍にも憲兵隊がある。かといって司法省に任せるのも無理がある。


 司法省は早々に棄権し内務省は陸軍省と海軍省の圧を受けてリタイア、最後には陸軍省と海軍省の殴り合いになった。文字通り陸軍と海軍の武官同士が会議室で殴り合いをした。


 結局それを見かねた政府が御前会議を開き、治安維持部隊は内閣直属の独立した組織として設立されることになった。


 治安維持法の制定から始まった治安維持部隊の設立は当初の目論見から大きくはずれ、治安維持法までも大幅に変わってしまうことになる。


 治安維持部隊は新たな準軍事組織となり、治安維持法はその組織の為の法になってしまったのだった。

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