ベランダ
……山下省吾は、ベランダに立った。
今日は、休みだ。
いや、今日だけではない。
ずっと前から、休みだ。
そう、半年ぐらい前から……仕事は行っていない。
ベランダからは、二階建てのアパートと、平屋建ての住宅が一軒見える。
そして、街灯が見える。
……この部屋に来て、三年が経つ。二階のベランダからの風景を、何度見た事だろうか。
だが、それも今日で最後になるだろう。
なぜなら、もう死ぬのだから。
生きていても、意味などない。
……既に、貯金は底をついた。そもそも仕事に行こうとする気力すら、湧いてこなかった。
最愛の妻を昨年交通事故で亡くし、そして、そのすぐ後に、娘も自殺した。まだ高校三年生だった。原因は、同級生からのいじめだった。娘の机の上にあったノートには、同級生五名の名前と、いじめの様子が書かれていた。
学校にも抗議したが、教師たちは一様に否定し、五名の同級生たちも教師たちから隠蔽工作のために入れ知恵されたのか、みな一様に口裏を合わせて、いじめを否定した。
亡くなる前日に、娘が、明日は学校に行きたくないと言った。
その理由を聞いたところ、同級生に無視されて困っている、と言った。それに対し省吾は、学校では、いろいろな事が、あるだろうが、頑張るんだと娘を励ました。
しかし、今となると、なぜ、その時、もう少し娘に寄り添って話を聞いてやれなかったのだろうと思うと、悔やんでも悔やみきれない気持ちになる……。
その翌日、娘は、急行列車に身を投げ、短い青春の命を散らした。
後に残ったのは、深い悲しみと妻と娘の笑顔の遺影だけだった。
省吾は、血の涙を流しながら、二人の冥福を祈った。
その後すぐに、一方的に会社をリストラされた。
もう、俺には何もないのだ……省吾は、四十六歳の己の掌を見つめた。
その掌には、社会の荒波に揉まれて傷ついてきた心の傷が、深く刻まれているかのように見えた。
そう、もう俺には何もないのだ……。
――どうなろうと、もう構わない――
省吾は、押し入れの扉を開けてみた。
金属製のロッカーがそこにあった。
高さは、約一五〇センチ。横幅は、三〇センチぐらいだろうか。
薄緑色で、鋼鉄で出来ていた。
ロッカーに、鍵を入れて回してみた。
ガチャンと音が経ち、ロックが外れた。
扉の所にある、鉄の小さなバーを押し上げながら、扉を開いてみた。
扉の中には、チェーンで固定された猟銃が5丁あった。
……引き金に通してあるチェーンを、外した。
一番手前の銃を、取り出した。
レミントンM一一〇〇 米国製自動装填式散弾銃である。
口径十二番。本来なら四発の実弾を装填できるのだが、国内の法律に従って、弾倉には二発しか装填できなかった。
実は、昨日、ちょっとした改造を施して、弾倉に四発込められるように細工してあった。
銃刀法違反?そんな事は、知った事ではない。
今から、もっと凄い事をやるのだから。
省吾は、銃を壁に立てかけると、今度は銃の弾が入った箱を持ってきた。
英語ばかり書かれた紙の箱を開けてみると、綺麗に並べられた緑のレミントンの弾が二五発入っている。実弾の入った箱が、部屋の片隅に山ほど積んであった。
いつも吸っているラークを取り出すと、口にくわえてジッポで火をつけた。
かすかにオイルの味がして、煙草に火が付いた。
紫煙を肺いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
……この煙草も、吸いおさめかな。
……思えば、人生いろいろあった。
妻との運命的な恋愛と結婚、長女の出産。そして若い頃の職場での日々。営業成績は、常にトップ、同期の中で一番の出世頭で、あっという間に主任、そしてあっという間に係長になり、三十歳になる頃には、課長、そして四十代に入る事には、部長になった。
そして、いよいよ役員への道が開けるか…と思っていた矢先、突然の降格人事であっという間に閑職の部署の名ばかりの係長にさせられて、一年もしないうちに、退職勧告を受けた。
自主退職しなければ、解雇すると脅されて、結局は自分から辞める事になった。
……すべては、妻の交通事故が始まりだった……。
昨年、妻の運転する車が走行車線を飛び出して、トラックと正面衝突して亡くなってから、すべての歯車が狂いだしたのだ。
妻の死の後、すべてがうまくいかなくなり、最愛の一人娘も自殺、会社もリストラになった。
――もう、全てが面倒くさくなった――
このまま生きていても、同じような人生ならばこの人生に何の意味があるのだろうか。
もう、妻はいない。最愛の娘もいない。たった一人で、俺は老いて死んでいくだけだ。
省吾は、今までの人生を振り返った。そして、煙草を、もみ消した。
そして、また新しい一本を取り出して、火をつけた。
……壁に立てかけられた銃をみた。
レミントンM一一〇〇。製造番号L四三九四四二C。
新宿の銃砲店で、十五万円で買った中古の銃だが、こいつとよく猟に行ったものだ。
山梨の猟場で、猪を倒したり、伊勢原射撃場でクレー射撃に興じたり、たまに単発弾を思う存分ぶっ放して肩に青い痕を作ったりした。
……それも、過去の思い出、だ。
それも、今日、終わる。
それにしても、人生は短い。あっという間に、この歳になっていた。
もう、死ぬのに、後悔はない。
景気よく、行こう。
ズボンのポケットに入れられるだけの銃弾を入れ。
銃のスライドを下げて、弾を込めた。
そして、レバーを押した。
ガシャン!と言う心地よい金属音が室内に響き渡り、銃弾が装填された。
そして弾倉に四発の散弾を装填した。
窓を開けた。ベランダに立った。
窓の外から見える道は、時折通行人が歩いていく。
車が時折通る。老人が、ゆっくりと散歩し、子供が楽しそうに、自転車で走っていく。
住宅街のこの街は、平日の午後の幸せを享受していた。
それもまた、もうすぐ終わろうとしているのだ……。
皆殺しの歌を、歌ってやろう。
みんな、地獄へと連れて行ってやる。
ふっと笑うと、省吾は、道を歩いていくよぼよぼの老人に、銃口を向けた。
引き金を引けば、あっという間に老人は死ぬだろう。
躊躇なく、引き金を引いた。
ところが、引き金が落ちない。
……安全装置を、外すのを忘れていた。
ため息をついた。
慌てていたのか、安全装置を外すのを忘れていたのだ。
いつの間にか、老人は視界から消え去っていた。
どこかの角でも、曲がったらしい。
街灯でも撃ってやれ。
安全装置を外した。
カチ……と小さな音がして安全装置が解除された。
――いいのか、本当に?
クレー射撃でもないし、猟で猪や鹿を撃つのとはわけが違うんだぞ?
そんな声が、脳裏から聞こえてきた。
一瞬、指が固まって動かない。
カラスが何事もないかのように飛んでいくのが見えた。
ベランダの下を白い車が通り過ぎていくのが見えた。
この一発を撃ってしまったら、後戻りはできないんだぞ?
……。
躊躇した。
しかし、省吾は、銃床をしっかりと頬にあて、ストックを肩にしっかりと当てて、狙いを街灯に定めて、右手の人差し指を、ゆっくりと引き絞った。
バン!
まるでたくさんの爆竹を一度に破裂させたような銃声が響き渡った。
肩を蹴飛ばされるような鋭い衝撃が来た。
薬莢が、ベランダに落ちた。
うっすらと硝煙の匂いがした。
銃口から、ほんの少し、白い煙が上がっていた。
街灯は、消えていた。
街灯のガラス部分が、見事になくなっていたのだ。
街は、平然としているようにも見えるし、突然の銃声に戸惑っているかのようにも見えた。
――すぐに警察のサイレンの音がするのだろう――
そんな考えが脳裏によぎる。
「ちょっと……」
そんな声が、道から聞こえてきた。
「なんか割れているよね。それに、さっきすごい音がした」
「え? 街灯が、爆発したの?」
と、通行人が話している。
――うるさい――
もう一発お見舞いしてやる。
通行人が話している方向に、続けざまに三発連射した。
バン!バン!バン!
物凄い轟音で、キーンと言う音で、耳がぼんやりとなる感じがした。
しばらくして、キャーと言う意味不明の悲鳴があちこちからしてきた。
「け、警察だ!」
「逃げろ! 誰かが銃を撃っているぞ!」
そう人々が叫んでいるのが聞こえる。
人々が蜘蛛の巣を散らすように逃げる足音が聞こえてきた。
面白くなってきた!
省吾は、銃に四発装弾した。
カーァ!
カーァ!
カーァ!
屋根の上に、一羽の真っ黒のカラスがこちらを向いて、叫ぶように鳴いている。
その鳴き声は、まるで威嚇しているかのように見えた。
省吾は、カラスに銃口を向けた。
パッ!
その瞬間、音を立てて飛び去ったカラスを銃口で追い、銃口で追い越しざまに引き金を絞った。
バン!
バタバタバタ!
と、カラスはもがきながら堕ちていった。
「ざまあみろ」
省吾はそう悪態をついた。
車が走っていくのが見えた。
黒い車だ。
省吾は、その車の屋根に向けてまた一発ぶっ放した。
バン!
また車がどこかへ走り去った。
当たったかどうか、解らない。
もう、こうなったら、ありったけの弾を乱射してやる。
バン!バン!バン!
空に向けて、撃ってみた。
よく見たら、隣の一軒家で飼われている黒い犬が、狂ったように吠えていた。
犬に銃口を向け引き金を絞る。
バン!
犬は、紅い血に染まって静かになった。
警察がなかなか来ない。
ようやくサイレンの音が聞こえてきたのは、十分後だった。
それも、一台や二台ではない。
凄い数の警察のパトカーがやって来た。そのほか、装甲車が何台も来た。
一軒家の二階の小窓に、狙いを定めて、撃つ事にした。
省吾は、見事な射撃フォームを決めて、窓に狙いを定めた。
バン!
鋭い音と共に、小窓は粉々に消え去った。
もう、誰もいない感じだ。
みんな逃げたのだろう。
銃を、壁に立てかけてみた。
銃は、火傷しそうなほどに熱くなり、陽炎がそこから立ち上っていた。
テレビをつけてみた。
ドラマがやっていた。
画面の上部に、テロップが流れている。
「……神奈川県川崎市麻生区で、乱射事件発生。犯人はアパートに立てこもり銃を乱射している模様」
と、テロップが流れている。
――ふふふ。ここの事じゃないか――
バリバリバリバリ…ヘリコプターの音がしてきた。
テレビ局のヘリコプターらしい。
ガー。
ガー。
ラウドスピーカーの音がする。
「あ~」
「あ~」
間抜けな中年男の声がしてきた。
「こちらは、神奈川県警です。銃を撃つのはやめなさい。繰り返します。こちらは、神奈川県警です。危険ですから、すぐに銃を置いて、部屋から出てきてください」
……こっちは危険を承知でやっているんだよ……
すぐに、部屋のスマホが狂ったように鳴った。
知らない番号からだ。
省吾は、スマホに出た。
「もしもし」
「あ、山下さん?」
今度は、若い男だ。
「はい」
「あの、こちらは神奈川県警麻生署生活安全課の澤田と申します。あの、危ないから銃を撃つのはやめてくれませんか。」
「何で、ですか?」
省吾は、まじめくさった調子で答えた。
「何でって……駄目に決まっているでしょう? こんな住宅地で撃ってはいけないって当たり前じゃないですか。狩猟法や銃刀法に違反しますよ。経験者講習で習いませんでしたか?」
若い警官は、怒りを押し殺し冷静に話そうとしている感じだった。
「はあ、そうでしたか?」
そう答えながら、省吾は笑いを押し殺していた。
「はあ? はあそうでしたかでは、ないだろう! いい加減にするんだ! すぐに銃を置いて部屋から出てこい!」
若い警官は、怒りが爆発した。
「やれるもんなら、やってみな」
そう言って、省吾はスマホの電話を切った。
そして、哄笑した。
辺り一帯に響き渡るような、狂った笑いが、アパートの外まで聞こえてきた。
まるで、省吾は狂人のように笑い続けた。
笑いがようやく収まると、省吾は、もうそれまでの省吾ではなかった。
既に、狂ったような情念に支配されていた。
破壊。破壊。破壊。
それしか頭になかった。
省吾は、頭が狂った破壊マシーンと化していた。
「うぉー!」
訳の分からない大声を上げた。
また、レミントンに四発弾を込めると、今度はヘリに狙いをつけた。
バン!
ライフルでもないし、散弾であの高さのヘリに、当たるわけがない。
そんな事は、知っているが、狙いをまたつけた。
今度は連射だ。
バン!
バン!
バン!
ベランダは、薬莢が大量に転がって、歩くとうっかり躓きそうになるぐらいになっていた。
「やめなさい! 山下! 止めるんだ!」
突如、中年男のラウドスピーカーの声が、絶叫した。
それから、ほかのスピーカーも絶叫していた。声の主は、女だ。
「……犯人がアパートに立てこもって、銃を乱射しています。危険ですので、絶対に近づかないようにしてください。付近の住民の皆さんは、すぐに避難してください。くりかえします。こちらは神奈川県警です。犯人がアパートから銃を乱射しています。非常に危険ですので、絶対に近づかないで下さい。付近の住民の皆さんは、すぐに避難してください」
……あまりにも銃を乱射したためか、耳が少しキーンとして聞こえが悪くなった。律儀にイヤーマフをつけておけばよかったのだが、どうせ死ぬつもりなので構わないだろう。
省吾は、部屋に引き上げラークを一本、取り出して火をつけた。
煙草が、やけにうまかった。
テレビの画面は、既にニュース速報に切り替わり、省吾のアパートが上空から映っている。
画面上部に、
「緊急中継! 恐怖! 住宅街に響く銃声! 住人の男が猟銃乱射!」
と、出ていた。
面白くなってきたぞ!
いきなり、ドアが激しくたたかれる音がした。
「山下さん!」
チャイムも鳴った。
「開けてください。神奈川県警です。銃を捨てて、開けて出てきなさい」
……ドアの外には、特殊部隊のSATでも待ち構えているんだろうか?
省吾は、レミントンを横に置き、ガンロッカーからミロクSS二〇を取り出した。
ボルトアクション式の二十番散弾銃だ。ハーフライフルが銃身に切ってある。
自慢のスコープもついている。射程は、サボット弾で一五〇メートルはあるだろう。
一発お見舞いしてやろう。
ガチャ!と音を立ててボルトを引き、サボット弾を入れて、ボルトを戻す。
スコープを除いて狙いを定めるほどの距離でもない。
ドアの真ん中に撃つと、誰かに当たる気がしたので、ドアの上の隅の部分に狙いをつけて、引き金を引いてみた。
ドーン!
太い音がして、ドアの隅に穴が開いた。
慌てて逃げ去る足音が高く響き渡った。
「ざまあみろ」
ボルトを引くと、うっすらと白い煙の糸を引きながら、床に薬莢が落ちた。
硝煙の匂いが、鼻を刺激した。
……人の気配が、消えたような気がした。
しかし、同時に、誰かが省吾を見ているような気がしてならなかった。
だが、窓の外を見ても、そんな人影は、全く見えない…。
もちろん、窓の外に停まった無数のパトカーや警察車両の付近には、警官たちが忙しそうに動き回っているし、非常線を張って、市民が近づかないように警備しているし、相変わらずラウドスピーカーからは、市民へ近づかないように呼びかけが続いている。
……だが、そんな警官たちとは別の誰かが、省吾をじっと見ている気配がするのだ。
その誰かは、警察の特殊部隊であるSATなのだろうか?
得体が知れないだけ、何とも言えぬ一種の恐怖感を覚えた。
だが、ベランダからSAT隊員が突入してきたら、最初の一人は死体にしてやる。
もちろん、SAT隊員から蜂の巣にされて即死するのは覚悟の上だ。
今さら、怖気づいていても仕方がない。少なくとも、絞首刑にされて吊るされて死ぬよりは、命の限り戦って警察と刺し違えて死んでやるつもりである。
……来るなら来てみろ、SATだろうが、俺の家に突入してきたら、撃ち殺してやる。
「山下さん!!! 聞いていますか! 銃を撃つのは、やめなさい! もう、完全にアパートは包囲されています! おとなしく、銃を捨てて、出てきなさい」
先ほどの中年男のラウドスピーカーの口調は、少し柔らかになり、投降を促し続けていた。
そして、もう一つの女のラウドスピーカーも住民の避難を促していた。
その間も、先ほどからひっきりなしに省吾のスマホが鳴った。いちいち出るのも面倒なので放置していたが、そろそろ出てやろうかと思った。
スマホの画面を見てみた。
どうせ警察だろうかと思ったが、意外にも違ったようだ。
前の会社の同僚の横山真由美だった。
同僚……でもあり、実は省吾のひそかな不倫相手でも、あった。
真由美は、夫がいる身でありながら、密かに省吾と密会しては、夜を共にしていた。
省吾が妻を亡くす半年前ぐらいから、省吾と真由美はひそかに付き合っていたのだ。
妻が亡くなると、真由美は夫と縁を切り、省吾の妻になろうと画策していたが、妻を亡くした事に続き、愛しい一人娘を自殺で亡くした省吾にとっては、それどころではなかった。
妻を亡くしたばかりで、真由美を新妻に迎えれば世間体を考えるととんでもない事であるばかりか、なんとなくだが、妻があの世から恨んでくるような気がして、どうしてもできなかった。そのうち、だんだん気持ちも覚めてきたのである。やがて、二人は自然消滅したのだった。
それはともかく、電話にでてみるか。
スマホに出てみた。
「あの~山下さん?」
「そうだよ。真由美?」
「うん。省吾も元気?って、こんな時に聞くのは変かも知れないけれど……」
「ああ、変だね」
そう言って、省吾は笑った。
「あきれた。よく笑えるね。こんな時に。馬鹿な事やってないで、すぐに投降しなさいよ。警察が省吾を撃ち殺すかもしれないと思うと……ちょっと嫌だから」
真由美は、努めて明るい調子でそう話していたが、声が少し涙声になった。
「投降は、できないな」
省吾はそう言った。
「何で」
真由美は、涙声になった。
「どうせ死刑だろう」
「そんなことないわよ。まだ、誰も死んでいないよ」
「でも、刑務所に行かなきゃならなくなる。刑務所に行くぐらいなら、死んだ方がましだ」
「……そんな事言って……。お願い。早く出てきて。これ以上、苦しめないで。誰も傷つけないで」
そう言うと真由美は泣き出した。
「……ごめんな。切るよ」
真由美からの返事も待たずに、省吾は電話を切ってしまった。
……再び、狂ったようにスマホが鳴り始めた。
省吾は、ちらりとスマホを見ては無視した。
煙草でも吸うか。
ラークの赤箱から一本取りだして、口にくわえて火をつける。
思い切り吸い込んでは、紫煙を吐き出した。
ちょっと休憩だ。
さっきから、ずっと上空を舞っているヘリの爆音が耳障りになってきていた。
テレビをつけてみた。
二十代の男性のアナウンサーが、マイクを持って公園に立っていた。
「……はい、今、現場近くの公園から中継です。事件現場のアパートの近くには、このように警察の非常線が張られ、中には報道関係者も含め、立ち入る事が出来ません。また、アパートから半径三〇〇メートルの住人は、すべて警察が避難命令を出して、立ち退きを要請しており、今は警察関係者以外、誰もいません。容疑者は、猟銃を乱射しているため、銃弾が届く範囲を、危険範囲として、立ち入りを規制しています。
……警察によると、容疑者は事件現場のアパートに住む四十代男性という事です。最近、会社を退職して、現在は無職だという情報も入ってきています。いったい何があったのか、全く動機は不明ですが、警察の呼びかけにも銃弾で応じ、非常に危険な状態となっております
……」
画面が切り替わり、上空から省吾の住むアパート、近くには凄い数の警察のパトカー、装甲車があたりを囲んでおり、どうあがいてもここから脱出するのは不可能に思えた。
「……このように、警察車両で、事件現場のアパートは囲まれています。また、先ほど警察の発表によると、事件現場の街灯が銃で撃たれた跡があり、街灯が粉々に破損しているとの事です。また、付近では、銃で撃たれた後のあるカラスの死骸が見つかったとの情報もあります。また、付近を通行中の車にも容疑者は発砲し、車のガラスが破損していたとの情報も錯綜しています」
――カラスが死んだだけか。いや、犬も撃ったはずだがあれはいったいどうなったのだろうか。
よし、ちょっとクレー射撃の代わりに、射撃をしてやろうじゃないか。
省吾は、ポケットから銃弾を数発取り出して、今度はレミントンM一一〇〇を持ち出して、チェンバーに一発、また弾倉に四発の銃弾を込めた。そして、左手に白い小さな皿を一枚、持った。
ベランダからななめ左にある電柱の上部の電線にある碍子が目に入った。
「ハーイ」
クレー射撃の時に、プーラーにクレーを放出するように合図する時のように声を出して、左手で皿を空中に投げ、その皿が放物線を描いて落ちてくるのを狙って流し打ちした。
見事に皿は粉々に砕け散り、そして電線の一部が散弾を浴びて青白い火花を放って切れた。
停電するかと思ったが、省吾のリビングのテレビは、中継を相変わらず続けていた。
「あ!たった今、銃声が聞こえました。容疑者が、また銃を発砲した模様です!」
血相を変えたアナウンサーが必死で話している。
「よし、もっと喋らせてやるぞ。」
省吾はそう言うと、空に向けて散弾を四連射した。
バン!バン!バン!バン!
轟音と、心地よい反動と、エジェクションポートから吐き出された緑の薬莢が、ベランダに落ちて転がる音がした。
「やめなさい! 危険ですからすぐに発砲をやめなさい!」
向かい側にあるラウドスピーカーの主が、大声で絶叫した。
「危険だからやっているんだよ!」
省吾は、そんな無茶苦茶な事を部屋の窓から絶叫してから、今度はミロクSS二〇を持ち出した。
SS二〇に、二発、弾を込めた。
スコープ越しにあたりを見てみる。
……この前、伊勢原射撃場の五〇メートル射場でゼロインしてきたので、スコープの具合は大丈夫だろう。
サボット弾だから、一五〇メートルは行けるか…。
遠くに見える、街灯がスコープの視界に入った。
他には、向かい側に三階建のビルがある。そこのベランダに、置いてある観葉植物の鉢が見えた。
……街灯を撃っても、ベランダの鉢を撃っても仕方がないか。
そうは思ったのだが、一発撃ってみたくなった。
スコープを覗く。
十字線が、丸い視界の中で動いていく。
ちょうどそこに、警察車両のパトカーが止まっていた。
そのパトカーの屋根の上に、赤い緊急走行用のランプがついている。
パトカーの中に、人がいるのが見える。
人に当てる危険性はあるが、ランプを狙ってやる事にした。
……初めは、やけになって老人を撃とうとしたが、今となるとやはりできるだけ人は撃ちたくない。人間を意味なく殺す、と言うのは、ちょっと違う気がしたからだ。
ただ、心の中のモヤモヤのようなものや、妻の事故死、娘の自殺と学校の隠蔽工作と思える醜さや、世の中の理不尽さへの怒り、人生の不条理に対しての怒りを、何かに向けてぶちまけてみたくなった。
その何かと言うのは、何だろう。
たぶん、世間なのだ。
そして、省吾のアパートを包囲する警察車両、上空から監視して報道するヘリコプター、そして、それをテレビで報道するアナウンサー……そしてそれを見ている無数の視聴者、そして、警察に避難させられて非常線の向こうで怒りに満ちてこちらを見ている住民たち……それら世間の全てが、今では省吾の「敵」であった。
もう一度、呼吸を整えて、しばらく深呼吸してから、スコープで慎重にパトカーの上のランプに十字線を重ねる。
距離は、約一〇〇メートル。スコープは五〇メートルで調整しているので、弾丸が落下する位置も計算しなければならない。その計算を省吾は、瞬時に行い、十字線の少し下をランプに合わせて、慎重に引き金を絞る。
呼吸を止めて、ゆっくりと引き金を絞るのだ。
心臓の鼓動がするたびに、視界が上下して狙いが狂う。
まるで、心臓の鼓動が邪魔をする感じになるのだ。
それも計算して、ゆっくりと引き金を絞った。
ドーン!
太い銃声が住宅地に轟いた。
目標のパトカーの上のランプは見事に飛散し、消え去っていた。
そして、慌ててパトカーの中から警察官が飛び出して屋根を確認しているのが見えたが、その警官を、別の警官が無理やり伏せさせているのが見えた。
……絶叫していたラウドスピーカーが静かになった。
中年男の声も、女の声も、消えた。
辺りは、一瞬不気味に動きを止めたのだ。
……あたりは、静寂に包まれた。
不気味な静寂。犬ですら啼こうとしない。カラスですら、その不気味な声や羽ばたきを止めてしまったかのようだ。まるで、地球がその自転を停めてしまったかのような感じがした。
……しばらくすると、ヘリの爆音が少しずつ聞こえてきた。
それに伴い、世界の物音も少しずつ聞こえ始めた。
ふとテレビに視線を向ける。
また、公園前でアナウンサーがマイクを持ってしゃべり続けていた。
「たった今、銃声が響きました。アパートから約一〇〇メートルの距離で警備中の警察車両が撃たれたとの情報です。あ、たった今、新しい情報がありました。警察車両の緊急灯に銃弾が命中、これが破損したとの事です。けが人は、いない模様です。」
――また世間にただ使われているだけの人間ロボットが意味も解らずに喋っているぞ――
そう思うと、省吾は、おかしくて笑えてきた。
しばらく居間で笑いをこらえていると、スマホが、ひっきりなしに鳴っている。
ちょっと出てやることにした。
「はい」
「えっとぉ、あ、山下さん?本当に、もう危ないから銃を撃つのはやめてください」
ちょっと間抜けな感じの中年男の声だ。たぶん、先ほどからラウドスピーカーで絶叫していた男に間違いない。
「え? だれ?」
「……神奈川県警の川本です。刑事課の。本当に、もうやめましょう」
「やめないと、どうなるの?」
「こちらも実力行使をしなければなりません。社会の秩序と安全を守るために、実力で制圧する事になります」
「できるのか?」
「できますとも」
川本は、間抜けなトーンが消えて、冷静に答えた。
「じゃあ、やってみなよ」
ブツ……とスマホの電話を、省吾は切ってしまった。
切った途端に、またスマホはやかましく鳴り始めた。
うるさくなってきたので、電源を切ってしまった。
「ああ! お前ら、うるさいんだよ!」
思わず部屋で絶叫した。
ベランダに出る。
SATのスナイパーが今頃、俺の姿をスコープの十字線で捉えて、その後を追い続けているのだろうか。
二人一組の狙撃部隊。一人は正確に距離と風速を測り、もう一人の狙撃手に伝える。
もう一人の狙撃手が、省吾にじっくりと狙いを定める。
責任者が、射殺命令を出しさえすれば、狙撃手はためらいなく、俺を撃ち殺すに違いない。
「おい!バカ野郎!」
省吾は絶叫した。
「お前ら、社会の秩序を守る、安全を守る、偉そうに何言っているんだ! てめえらの御託は、もう聞き飽きたんだよ!」
返事はない。
「いいか! 聞け! バカども。マスコミの馬鹿ども! 警察の馬鹿ども!」
省吾は絶叫した。
「俺の娘は、学校のいじめで自殺したんだ! それなのになんだ! バカ校長も、バカ教師も、何の謝罪もなかったぞ! おい、校長の山崎! 貴様の薄笑いを浮かべて俺の話をまともに聞こうとしなかったな! おい! 担任の正田! 貴様も俺の娘のいじめは、証拠が見つかりませんでした、お父さんの思い過ごしではないですか? うちのクラスはみんな仲良くやっていますよ、御嬢さんの自殺は残念でしたが、御嬢さんにも、またはご家庭にも何か問題があったのではないですか? なんて馬鹿にしやがって。貴様らみんな殺してやろうか?」
叫んでいるうちに、省吾は頭に来た。
レミントンを四連射して空に銃声を轟かせた。その後、今度は、素早くまた弾を込めると、上空をホバーリングしているヘリに、乱射した。
この距離では届くとは思えないが、そんな事は問題ではなかった。
「おい、バカ警察。貴様らはなんだ! 娘を虐め殺した同級生の北村修二、澤本淑子、山田五郎と吉本信吾、藤田義男の五人を、逮捕もしなければ取り調べすらしないじゃないか! それでも貴様ら正義を語る警察か! お前らに正義を語る資格はないぞ! 殺人犯を野放しにしやがって! 貴様らみんな死んじまえ!」
省吾は再び絶叫した。
ちきしょう。
誰も聞いていないだろうな。
どうせ、報道陣は規制線の外だし、上空ではうるさくヘリが飛び交っている。
「……山下さん!」
いきなり、ラウドスピーカーの音がした。
今度は、先ほどの中年男の声とは違った。
「……こちらは、神奈川県警の沢口と言います」
若い女の声だ。
「……さっき、あなたが言っていた声が、私には聞こえましたよ。娘さんを虐め殺した同級生が五人いるというのは本当ですか?」
女の声は、感情が籠った人間らしい声に聞こえた。
省吾は、声を和らげた。
「そうだ。娘のノートにそう書いてあった。そいつらの名前が書かれたノートがあったんだよ。証拠もあるぞ」
「……我々警察は、決して社会の悪を放置しているわけではないんです。娘さんの件は、警察に相談しましたか?」
沢口の声は、静かであったが、どこか力強さと柔らかで優しい感情と省吾への寄り添う気持ちをさらに一層感じさせるトーンで語りかけてきた。
「ああ、したよ。警察に。でもね、結局はあいつら、のらりくらりと逃げを打つだけで、まともに取り合ってくれなかった。学校ともよく話し合ってください、何て体のいいことばかり言いやがって」
省吾は、大声で、絶叫したが、沢口に聞こえたろうか。
それは、解らない。
「……山下さん!」
……沢口は、ラウドスピーカーで叫んだ。
「……携帯電話の電源を入れてください。落ち着いて、話をしましょう」
……どうやら、沢口は、電話で話をしたがっているようだ。
省吾は、部屋の片隅に電源を切って置いてあったスマホの電源を入れてみた。
……スマホが立ち上がるのに少し時間がかかった。
立ち上がった途端に、スマホが鳴った。
「はい。山下です」
省吾は電話を取った。
「山下さん、沢口です。さっき山下さんが、娘さんの自殺についてと学校の対応や警察の対応について話されていた事は、事実ですか?」
沢口は、息せき切った感情を抑えながら、努めて静かに話そうとしている様子で話した。
「ああ、事実だよ。さっき言ったようにね」
「その事なのですが、その証拠は、ありますか? たとえば、ボイスレコーダーで虐めていた子たちの言動を録音していたとか、お嬢さんの遺された日記とか。そういうものがあれば、刑事事件として立件できるかも知れません」
沢口は、そう電話で話すと、省吾の返事を待った。
「……そんなものがあれは、苦労はしないんだけどね。娘は、日記を残さなかった。日記をそもそも書いていた形跡が見当たらない。書いていたかもしれないけれど、処分してしまったのかも知れない。親として、恥ずかしい事かもしれないが、俺には解らないんだ。
……ボイスレコーダーも、もちろんない。だから、証拠としては、唯一、遺書となった、自殺寸前のノートの走り書きしかないんだ……さっき言った連中の名前は、そこに書いてあったんだよ」
沈んだ声で、省吾は話すと、ふと、ベランダに出たくなった。
スマホを片手に持って、耳に当てたままで、ベランダに出てみた。
どういうわけか、既にヘリは遠くに行ったのか、爆音は消えていた。
遠くに、警察車両が見える。
装甲車や、パトカー、救急車まであるのが見えた。
そして、蠢く人影。だが、彼らは一様にジュラルミンの盾を持って、こちらに対峙しているのが見える。
省吾は、ベランダの窓に立てかけたままのレミントンM一一〇〇が、太陽の光を浴びて光を反射しているのに気が付いた。
ベランダの床には、無数の薬莢が転がっていた。
「……そうなんですか。そのノートの走り書きは、いま、どこにあるのですか?」
沢口はそう言った。
「それはたぶん、私のベッドの下に置いてある箱の……」
省吾は、そこまで言いかけた時、突如、左胸に衝撃を感じた。
焼けつく火箸を胸に差し込まれたような灼熱感と、突き飛ばされるような衝撃が同時に来た。
その感覚も、ほんの一瞬だった。
そのあとは、不思議と、痛いという感じは感じられなかった。
身体がよろめいた。
ふと、見ると、衝撃でスマホを落としていた。
左手に、血がべったりとついていた。
何が起こったのだろうか。
次の瞬間、口から大量の血を吐いた。
生暖かい血が、口から噴き出して滴っていく。
すると、いきなりベランダの床がどんどん近づいてきたかと思うと、にぶい音を立てて、省吾に当たった。不思議と、全く痛くなかった。
辺りは、物音すらしない。完全な沈黙だ。
真昼の午後だというのに、だんだん薄暗くなってきた。
……俺は、死ぬのかな……。
……もうすぐ、妻や娘と会える……か。
そう思った省吾は、微笑を浮かべて、ベランダを見た。
目の前に、無数の薬莢が転がっていた。
……。
省吾は、微笑したまま動かなくなった。
その瞳は、開いていたが、その瞳の光は、もうなかった。
ただ、太陽だけは、何事もなかったように午後の光を燦々と降り注いでいた。
近くで、小鳥のさえずりが聞こえていた。