名も知らぬ彼を置き去りに
メモリアさんのよっぱらい企画作品です
「いいから行け!」
手渡された書簡筒がぬるりとした。
血まみれの彼は僕の返事を待たずにその場に倒れ込んだ。
この中身が何なのかを知っている。
僕は走らなければならない。
名も知らぬ彼をここに置き去りにして。
境界越えは命懸けの仕事。
そんなことはわかっていた。
これまでも危ないことは幾度もあった。
ただこれまで生き延びられただけで。
彼はこの3年ほど国境付近を担当していたらしい。
最終走者の僕につなぐ重要な役割り。
僕は俊足を買われて1年ほど前に任務についた。
田舎の両親には、夢だった図書館司書の補佐についたと言っている。
田舎の山を走破するのと変わらない。
けれど今は追手を抱えている。
互いに名乗らぬのが礼儀だが、倒れた彼の名を知らないことに気が塞いだ。
いつか墓標に花を手向けにいくこともできないと。
きっとこれまで以上の速さで、僕は走った。
関所が見えた。
僕はなにか考えがあるわけでもなくただ動物的な反射で右に逸れた。
そのまま後を振り返らずにひた走る。
転がり落ちるように関所の壁に手をついた。
見張り台の兵士らが一斉に僕に向けて矢をつがえた。
「伝令、伝令! 隣国より陛下へ! 至急開門願う!」
僕は首から下げた印章を掲げて身分を示した。
号令が入り多くの兵士はその矢を山へと向け、僕は迎えの兵士に保護される。
どうやら脚は限界のようだった。
国内に入り僕は膝をついた。
「起て、馬は乗れるか」
幾度か顔を見たことがある偉い兵士に問われる。
僕は首を振った。
「いえ、僕は走れるだけです」
「書簡は」
「こちらに」
「ではそれを持て。
私の馬に乗れ、共に行く」
驚いて目を見張る。
「僕はここまででは?」
「伝令はお前だ、お前が御前で報告せねばならない」
僕は馬に乗せられ、お偉いさんの体に体を結び付けられた。
問答無用で馬は走り出す。
「僕だけが伝令ではない、国境際で倒れた彼も、隣国内で走った人も、みんな伝令なんだ。
僕だけじゃない、僕だけじゃない」
赤く染まった書簡筒が胸元で熱くて、僕は泣いた。
お偉いさんはなにも言わなかった。
後年、僕は表彰された。
命を懸けて自国を守った英雄として。
でも未だにふと考える。
彼はなんという名だったのかと。