僕という、うつわ
第一回三服文学賞に応募して箸にも棒にもかからなかったやつです
https://wataya.co.jp/sanpuku_bungakusyo/
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000043.000086101.html
お題:❶温泉 ❷お茶 ❸うつわ ❹日本酒 ❺旅 ❻読むこと ❼書くこと
「この仕事はあなたに任せられない。あなたはそんなうつわではないでしょう」
そんな言葉ひとつで僕は解任され、異動を命じられた。元はと言えば僕が立ち上げたプロジェクトなのに。うつわ、うつわってなんだよ。マイセンガラスみたいに繊細な僕の心を、メラミン食器みたいに扱いやがって。
初めて有給を取った。持っていた十六日全てをあてつけで申請したら、おまえなんか要らないと言うかのようにあっさりと通った。これまでどうしたってくれなかったのに。公休と併せて丸二十日間、僕は自由になる。いや、もしかしなくてもそれ以降も、僕は自由になってしまうのかもしれない。戻ったところで僕の居場所はないだろうから。
退職願を書いてみた。このたった数行で将来が左右されてしまうのか。
マンションの部屋を見回したら、生活の残骸みたいな僕の痕跡があった。
なにもやることが思いつかなかった。これまで四年勤めてきて、僕には仕事をすることしかなかったんだろう。部屋をいくらか片付けた。なにか楽しいことを考えようと思ったけれど、僕にはそんなふうに感じるような出来事はずっとなかったんだ。楽しむ感性すら失われていないか少し心配になって、先ほど本棚に片付けた本を手にとってみた。
『悩むだけ損!』というタイトル。二人の著者が、読者からの質問へ真剣に、またときにユーモラスに答える本だ。僕はこれをまさに悩み多き十代半ばで手にとって、二項目の『おとなになったら、いいことありますか?』を何度も読んだ。心が軽くなったように思ったけれど、十年ほど経った今僕の心は沈んでいる。ぱらぱらとめくってはみたものの、あのころの自分に申し訳なくて二項目は飛ばしてしまった。上の空の僕の目を引いたのは、赤く記された著者二人の名前だった。その内ひとりの名を見て思う。こんなに楽しそうな姓なのに、こんなに深いことを考えているんだな、と。
スマホで検索してみたのはただの思いつき。嬉野。サジェストされたのは『温泉』という言葉で、僕はすぐにジャケットにボディバッグといういでたちで、十四時四十一分、のぞみ三十一号に乗った。書いたばかりの退職願を持って。多少やけくそになっていたことは否めない。まったく考えなしの行動で、こんなことは初めてだけれど、悩むだけ損だと書いてあった。
車内販売で酒を買う。車窓の外を流れる景色、山口県産の日本酒。これが地産地消てやつだろう。佐賀県の嬉野にはどんな酒があるだろうか。高校での修学旅行以来の旅行だ。こんな破れかぶれで無計画な衝動を、旅行と呼んでもよければだけれど。温泉宿の当日予約をした。素泊まりで。全国旅行支援も使ってみた。
十七時九分、博多駅。構内で『角打ちやっとります』という文言を目にして吸い込まれる。地産地消で東一という日本酒をぐいっと飲んだ。美味かった。酔って意味がよくわからなかったが、花札をもらって返した。十八時まで堪能し、運行デビューしたばかりの特急リレーかもめに乗る。黒張りの立派な座席だった。約一時間揺られ西九州新幹線へ。こちらも新人でやる気に満ち、なんと五分少々で僕を嬉野へ運んでくれた。
十九時を前にして陰った日は、僕をおいて去ったあとだった。少しだけ気弱になるけれど、スマホのGPSが導いてくれる。礼儀正しく宿の中へ入ったつもりでも、酔っ払いだとバレたかもしれない。
あてがわれた和室へたどり着いたとき、僕は疲れ切っていた。それは長距離を移動したからでも初めての土地におびえたからでもなく、僕の根っこの部分が悲しんでいるからだと思う。嬉野。どうかその名前通りの気分をくれないか。温泉に入るのは酒が抜けてからと思って布団に身を投げ出し、僕は一眠りした。
目が覚めたのは日付が変わる前。浴室清掃時間が迫っていたので、急いで大浴場へ。美人になれるというお湯は、疲れを癒やす効果は十分だ。露天風呂で真っ暗な空を見上げた。僕が住む新大阪の安マンションの窓からでは、見ることができない星の瞬きがある。美しかった。少しだけ泣いた。外は寒くて、湯は温かくて、僕は孤独だ、と自覚する。それもきっと、悩むだけ損なんだろうと思う。僕が居たっていなくたって、世の中は巡っていく。空はきれいだ。
部屋へ戻り、サービスのミネラルウォーターを飲み干す。バッグから退職願を取り出し卓に広げ、ぼんやりながめる。角打ちで酒を買ってくればよかったと思った。
ティーバッグの嬉野茶をいれるため、電気ケトルで湯を沸かした。酒の代わりだ。備品の湯呑みを見ながら、きっとこいつは僕なんかよりずっと優秀なうつわで、これまでいろいろな茶を任されてきたんだろうと思った。熱々の湯を注いでも顔色ひとつ変えない。持ち上げて底を見ると、点と算用数字の九に似た線文字の銘がある。茶をこぼして、あちっと僕はつぶやいた。
退職願に茶が降りかかる。文字がいくらかにじんだ。僕は少しだけそれを見て、破いて捨てた。




