僕たちの間は恋ではなかった。
以前書いた同名の作品( https://ncode.syosetu.com/n3525fx/ )を、Skeb のアドバイスリクエスト機能を使って 実業之日本社 文芸出版部 様に添削していただき、その言葉に従って改稿したものです。
https://skeb.jp/@JITSU_NICHI/works/6
落としたてのコーヒーが好きだった君に合わせて、僕はサイフォンを買った。
一度振る舞ってくれたあのコーヒーが美味しかったのと、アルコールランプで沸騰してゆく水の動きが面白かったから。
君が使っていたあの年代物のサイフォンとは格が違うけど、これでも僕にしては大きい買い物だったんだ。
見様見真似で使ってみるけれど不格好で上手く行かない。
あの時の手慣れた君の様子が説明書で、その通りにすればきっとできると思ったのだけれど、ちょっとショックなくらい僕の中の君があやふやだ。
上書きされていく記憶に君が消されていくのが嫌で、深呼吸しながら心のなかでその動きをなぞった。
あのサイフォンは、君の叔母さんが持っていったんだってね。
聞いたよ。
どうにか形にして、ミネラルウォーターを入れる。
コーヒーはすり切り二杯。
網膜に焼き付けた姿に倣ってアルコールランプに火を点けた。
あのサイフォンではないけれど、好きだと言っていた銘柄のコーヒーは、君が淹れてくれた香りがした。
グラスに氷をたくさん。
落ちたコーヒーを注ぐ。
あの時みたいに氷も同じミネラルウォーターで作ったんだよ、偉いだろう。
家でできる最高の贅沢だって、笑っていたことを思い出す。
ストローを挿したら、完成。
僕が淹れた、君のアイスコーヒー。
ふたりの思い出は、僕の中にこれきり。
君は笑った。
僕も笑った。
あれが最後になるなんて、僕は考えてもみなかったんだ。
連絡が来たのは一週間も経ってから。
共通の友人を通してだったよ。
仕方がないよ、僕たちの間は恋ではなかったから。
とても親しいわけでもなかった。
ただ夏の暑い日に、示してくれた親切を僕が受けただけ。
そしてこれが僕の弔い。
グラスを手に取りストローを噛んだ。
君が淹れてくれた味がした。
これが始まりになるだろうかと、淡い期待を抱いた味。
君が僕を憶えてくれていたこと。
笑ってくれたこと。
嬉しくて僕はきっとぎくしゃくしていたね。
とてもとても大切だよ。
ふたりで結べた初めての思い出。
それが最後になるなんて、僕は考えてもみなかった。
ずっと君のことを考えている。
これまでもそうだったけれど、今も。
僕たちは始まることすらなかったんだね。
それなのに終わってしまったんだね。
僕は心のなかに君の場所を作ってしまった。
そこはとても広々としていて、ふたりがたくさん詰まるはずだったんだ。
僕たちの間は恋ではなかった。
とても親しいわけでもなかった。
少しだけ泣いてもいい気がした。
あのとき初めて交換したアドレス、消さないでいてもいいかな。
好きだと言っていた銘柄のコーヒーは、君が淹れてくれた味がした。
寂しいよ。
とても。
悲しいよ。
とても。