第2章『温泉へ行こう』2話「温泉郷ゴクラクエン」
『ケインさんがそれをキィロさんに渡したなら、きっと何か意味があるんですよ』
1
温泉郷ゴクラクエン。
その名が大陸中に知れ渡ったのは大災厄以降である。
それまでここは、名もない何もない小さな集落に過ぎなかった。
大災厄の副産物である地殻変動。大陸に多大なる損害をもたらしたこの災いで、ひび割れた大地から噴き出した温泉は、妖魔との攻防に疲れ果てていた人々にとって小さな安らぎになった。
その噂は自然と広まり、かくして温泉郷ゴクラクエンは生まれた。
最初は一つしかなかった宿も今では十数件に増え、温泉自体の造りも多種多様。各地から訪れる客で賑わい、時には各国の要人たちもお忍びで骨休めに来るという。
今では古くから名高いヴェルナ連邦のホップリング温泉に負けず劣らずの、立派な観光地となっていた。
多くの客を迎え入れるため、と同時に客に快適にサービスを提供するため、ほとんどの温泉宿は予約制を取っていた。
そうでない宿は飛び込みの客でいっぱい。
日の落ちる頃、ようやく迷いの森を抜けこの地に辿りついた一行は、門を入ってすぐの広場で立ち往生していた。
「一つも空いてないってどーいうこと!?」
憤懣やるかたなく、キィロが金切り声をあげる。
「空いてないんですか、一つも?」
立ち並ぶ宿を見渡し首を傾げるタリアを前に、共に宿を探して走り回っていたユーゼが決まり悪そうに頭を掻いた。
「いや。宿だけならあるんやけどな」
「だったら何も問題ねーじゃねーか」
気楽な返答に、キィロはきっとリョウを睨みつけた。
「空いてる宿には温泉がないんだよ!」
さも一大事であるかのように叫ぶ。
「それが・・何かマズイのか?」
「だって! 温泉郷に来て温泉に入らないなんて酒場に行って酒飲まないようなモンだよ! 邪道だよそんなの!」
リョウは食事目当てに酒場に行くことの方が多いので、その例えにはピンとこなかったが、そういうものかと納得してしまうほど、キィロの主張は鬼気迫っていた。
見兼ねたタリアが口を挟んだ。
「あの・・もらい湯、でしたっけ? そういうのはできないんですか?」
「何だよそれ」
「温泉だけ入らせてもらうんだよ。宿は別にとってさ」
面白そうに様子を眺めていたナットが説明すると、キィロがあからさまに肩を落し、ユーゼは苦笑した。
「それが、空いとる宿はそういう、もらい湯のシステムとっとらんとこだけでな。要するに、来たはええけど泊まる宿がないいう、順番待ちの客用やねん」
まさしく、今の彼らのためにある宿だ。
「だけどさぁ・・」
ちらりとケインを見遣るキィロ。舌打ちと共に顔を背け、ケインは素っ気無く言い捨てた。
「そんな悠長なことをしている時間はない。言っておくが、ここじゃ俺様の名前は通用しないぞ」
「だよねぇ」
あっさり同意されぴくりと頬が引き攣ったが、口に出すのは止める。実際、アルディア家の名前は他国でも認知されているだろうし、貴族御用達の宿もどこかにはあるだろうが、これ以上頼るつもりはない。そんなことしたら、どの道帰って父親に嫌味を言われるに決まってるのだ。
第一、彼らの目的は首都ダイワにある悪魔教総本山であって、何も温泉に入りに来たわけではない。
タリアも残念そうにしていたが、急ぐ理由は自分にあるのだ。反論しようがない。
「仕方ないかぁ・・」
この広場も、客が訪れる時間帯には案内人と客引き、それに行き交う馬車で賑やかになるのだろう。だが今は閑散とし、いっそうら寂しく感じられた。
「温泉郷ゴクラクエンへようこそ!」と白地に赤で記されたノボリが虚しくはためく。
その下をくぐって彼らが歩き出したとき、声が聞こえた。
「ちょっと・・」
その声はとても小さく、そして低い位置から発せられていたので、最初誰も気付かなかった。
「あんたたち・・!」
今度は強く呼び止められ、はっと振り返る。
ナットとケインは、全く気配を感じなかったことに愕然とした。
「あんたら・・宿がないのかい?」
タリアは足元を見下ろした。地面に擦れるほど長い白髪を辿って行きついた先に、今にもぽっくり逝きそうな老婆がいた。腰が直角に曲がっていて、杖で体を支えている。無数の皺が刻まれた顔は、髪に埋もれてわずかに覗いているだけだ。
醸し出す雰囲気は怪しく、タリアは一瞬返事に窮してしまった。
代わりにキィロが肩を竦めてみせる。
「温泉のない宿なら空いてるんだけどねー」
「そうかい。くくく・・」
髪を揺らして笑う老婆。笑い声はくぐもっていて、良く言えば不気味、正直に言えば背筋がぞっとするような悪寒が走った。
「じゃあ、うちにおいで・・。あったかい温泉に入ってゆぅっくり、・・休めるよ」
むしろ生贄として釜茹でされそうな誘いに、一通り宿を訪ね歩いたユーゼとキィロは怪訝な顔を見合わせた。
確認し損ねた宿があったんだろうか。
返事を待つ老婆に、ケインが答えた。
「だったらさっさと案内しろ」
もうこの際どこだって同じだと思う。疲れもあり苛立っているケインに反論する者はいなかった。
老婆は楽しそうに笑い、タリアは今にも転びそうな後ろ姿を心配そうについて行く。
最後まで首を傾げて何かを考えていたナットもユーゼに呼ばれて歩き出した。
2
その宿は、一言で表すならば、ボロかった。立て付けの悪い引き戸。壁からは隙間風が、ヒューヒューと気味の悪い音を漏らしている。生気なく萎れた草木の蔓延る前庭が、不気味さをいっそう際立てていた。
タリアは例の廃屋を思い出し複雑な気分に陥る。
こうも怪しい印象はなかったが。
それ以上に怪しさに溢れる老婆は、一行をしんと静まり返った茶の間に案内し、部屋の準備が終わるまで待つように言い置いて、不気味な笑い声と共に姿を消した。
昔読んだ御伽噺に、そう言って包丁を研ぎに行く恐ろしい鬼婆の話があったことを不意に思い出し、タリアはぶるりと身を震わせた。
キィロは逆に全く怖気づくことなく、むしろ面白そうに、珍しい造りの部屋を観察していた。
畳敷きの部屋の中央に置かれた囲炉裏と、天井から吊り下げられた薬缶。その周りにぐるりと座布団が敷かれていて、以前は色鮮やかな絵が描かれていただろう、うっすら黄ばんだ襖と、ところどころ破れた障子で囲まれている。
これがユリスギの文化かと、タリアは感慨深く思った。キャレットに閉じこもっていたんじゃ、見られない光景だ。
それだけでも来た甲斐があると必死で自分に言い聞かせる。
ちょっぴり怖いところだなとも感じながら。
「ここからダイワまではどれくらいかかるんだ?」
座布団の上でも偉そうにふんぞり返ってケインが問うと、ナットは急須のお茶を茶碗に注ぎながら答えた。
「歩いて四日くらいかな。馬車使えば二日で着くと思う」
実を言えばユーゼもナットも、必要経費は依頼主からというモットーにより、余分にお金を持ち歩いていない。リョウやキィロは自分の食い扶持を稼ぐだけで精一杯の生活を送ってきたし、タリアにはそもそも金銭に対する観念が抜けている。
よって、一行の財政事情はケインただ一人の肩に背負われているのだ。
ケインは国家親衛隊というエリート集団にあって、部隊長という名誉ある職務に就いている。年の割に充分な稼ぎはあるが、六人分の旅費を払えるほど潤ってはいないし、だからといって親の脛を齧るのは御免被りたいと思っていた。
銀狼の封印にどれだけ時間と手間がかかるかも分からない今の段階で、余計な出費はできるだけ抑えたい。それもあって森を強行突破という案に賛成したのだ。
と同時に、時間がないのも確かで。
「まぁまぁ。温泉にでも入ってさ。ゆっくり考えればいいじゃない」
キィロは楽観的に、悩むケインを慰めた。
よくよく考えなくとも、雇っている情報屋や従弟はともかくとして、キィロやリョウの分出費する必要は全くないのだと、そうケインが切り出す前に障子がすーっと開き、足音もなく老婆が入ってきた。またしても気配はない。タリアは驚いて従兄の背中に隠れてしまった。
「お部屋の用意ができましたよ・・。さぁこちらへ」
処刑台に向かう気分を味わえる雰囲気だった。
「おばあちゃん、他のお客さんはいないの?」
板張りの廊下が一歩踏み出す度にぎしぎしと、今にも抜け落ちそうな音を響かせている中、やたらと陽気な口調でキィロが尋ねた。
ぎぃっと、油の切れた人形のように軋んだ動きで振り返った老婆が意味深に、にたぁりと笑う。
「だぁれもいないよ。あんた等のほかにはね・・ひひ」
「ってことは、オレたちの貸しきりなんだ。ラッキー!」
全く動じないキィロに、タリアはこっそりと尊敬の念を抱いた。
「部屋は三つでいいかい? 松の間、竹の間、梅の間だよ。襖で全部繋がってるがね」
煤けた色の障子をそーっと開き入れられた部屋は、八畳程の空間に小さな文机と座布団、そして隅に所狭しと畳まれた布団一式が積まれている。
「温泉は庭を横切ったところにあるよ。いつでも入ってくれていい。人手がないから布団は自分で敷いとくれ」
「鍵は?」
「ないよ。ま、せいぜい用心するこったね。ひっひっひ」
ささやかな衝撃を受けているケインに流し目を送り、老婆は「飯なら向かいの定食屋で食えるよ」と言い残して、床を鳴らしながら去っていった。
その背中が見えなくなってから、キィロがポツリと呟く。
「いやぁ。宿が見つかって良かったねぇ。温泉もあるみたいだし」
そういう問題じゃない、と全員が心の中で一斉に突っ込んだ。
教えられた定食屋はがらんと静まり返っていて、ぞろぞろと客が入ってきても一向に店員が出てこない。
ぐるりと店内を見回して、リョウは何となく落ち着かなくなった。多分雰囲気が、行き付けの食堂に比べ上品に感じられたからだろう。
店内にはテーブルや椅子は一脚もなく、代わりに地面より一段高い畳みの座敷に背の低い机と、座布団が並んでいる。
ナットは慣れた様子で靴を脱いで座敷に上がると、奥の座布団にちょこんと腰を下ろした。
「ぼーっとしてないでお前等も座れば?」
薦められ、戸惑いながらも全員が着席しても、店員は姿を現さない。
「これがユリスギの風習か?」
皮肉げに問うケインに、ナットは気にするでもなく首を傾げた。
「や、そんな妙な風習はねぇよ」
「だよねぇ。呼んでこよっか?」
とキィロが腰を浮かしたとき。
「ひーっひっひ」
不気味な笑い声が響いた。
「ぎゃあ!」
驚いてタリアは隣のリョウにしがみ付く。
勢い余って床に押し倒した。
「ごごごごめんなさい!!」
真っ赤になってすぐさま飛び退いたが、赤面が移ったらしくリョウもしどろもどろにおぅとか唸ることしかできず、意味もなく見詰め合っている。
そんな二人の様子をケインは不機嫌に、キィロは楽しそうに眺めていた。
一方で、戸口から現れた老婆に呆れた声を掛けたのはユーゼだ。
「この店も婆ちゃんがやっとるん?」
初めこそ薄気味悪く感じたが、いい加減慣れてもくる。
新鮮に驚けるタリアのほうが驚異だ。
「ばあさん、あんまり待たせないでくれよな。ユリスギのイメージが悪くなるだろ」
「ひひひ。すまないねぇ。ちょっと・・包丁を研いでたもんでねぇ」
老婆の目が不気味に光った。
叫ぶタリア。またリョウに飛びついてわたわたしている。
「ほら、品書きだよ」
そう言って差し出された薄っぺらい紙には、ミミズの如く黒いインクがのたくっている。
キィロは問うようにケインに目を遣った。投げやりな態度で首を振られる。
ユーゼはお手上げという風に肩を竦め、今だ見つめ合っている二人に聞くほどキィロも野暮ではない。
そしてナットは・・彼は訝しげに紙を覗き込んでいた。
「どしたん、ナッちゃん」
「ナット君読めるの?」
「あぁうん。読めるけど」
「へぇ、ユリスギの古代文字か何かか?」
曖昧に頷くナットを、読んで読んでとキィロが急かす。
ナットは紙を引き寄せ右上から下へ指で示しながら読み上げた。
「うめ干し」
「へ?」
「らっきょう」
「あーん?」
「ぎんシャリ」
「白飯とは違うん?」
「りんご」
「森が近いからねぇ」
「もずく」
「って何?」
「のり」
「シンプルやな・・」
「に物」
「何のだ」
「天丼」
「まともですね」
「チューハイ」
「酒かよ!」
・・・。沈黙。
「次は?」
「以上」
ようやく現実に戻ってきた二人も含め、好き勝手に反応していた面々の前でナットはピラピラと紙を振って見せた。
「別に期待しちゃいなかったけどよ」
負け惜しみにしか聞こえないリョウの台詞と共に彼の腹が鳴る。
今更店を変えるだけの気力もなく、わぁわぁと騒がしく注文を決める一同をよそに、ナットは不気味な笑みで傍らに控えている老婆を横目で見つめていた。
3
質素な食事はその反面、素材の良し悪しがそのまま反映するのか、物足りないまでも奥深い味わいを秘めていた。満足なような騙された気分で食堂から出た一行は、調べたいことができたというナットとその付き添いのユーゼをと別れ、宿に戻った。
「じゃあ早速温泉だね!」
ちゃっちゃっと浴衣に着替え浮かれ出すキィロは、着替えもせず憮然としているケインの袖口をちょんと引っ張った。
「拗ねてないでケイン君も行こうよぉ」
「誰が拗ねてるって? 俺様はいい」
「えー」
確かに普段から仏頂面ではあるが、いつにもまして目付きが剣呑だ。キィロにはその理由も推測が付いたが触れるのは止めておく。
これ以上機嫌を損ねられても困るし。
「うーん。じゃ、オレも後で入ろうかなぁ」
「いいからお前は行って来い」
ケインは即座に言い放った。
キィロはわざとらしく溜息をつく。
「大変だね、お兄ちゃんも」
「うるせぇぞ」
飛んでくる枕を間一髪かわして部屋から出ると、キィロは小さく舌を出した。
着替えに四苦八苦しているらしいタリアとリョウを中庭に下りて待ち惚けしていると、近くの木陰に人の姿がちらりと見えた。老婆に比べれば随分と背の高い、シルエットからして多分男だ。
(他にお客さんいないって言ってたよねぇ)
胸中で呟く。
確認しようと一歩踏み出したとき。
「ったく。お前ホントに不器用だな」
「ご、ごめんなさい」
言うほど怒った様子でもないリョウと、体を縮こまらせているタリアが部屋から出てきた。
「あ、やっと出てきたね」
「ワリィ。待たせた」
「ゆかたの着方が分からなくて。すみませんっ!」
「いいっていいって。庭も意外と風情があっていいもんだしね」
そうだろうかとタリアは思った。暗ければ暗いほど、不気味さが増している気がする。
「じゃ、行こうか」
キィロはタオルや石鹸を抱え直して、温泉に続く敷石を進んでいった。途中でふと、謎の人影を振り返ったが、そこには木が立っているだけだ。
「どうかしましたか?」
「ううん、何でもないよー」
まぁいいかと、キィロはすぐに忘れることにした。
離れの小さな小屋は脱衣所になっていて、特に男女の敷居があるわけでもなく、ささくれ立った籐籠に浴衣をぽいぽい投げ入れて、今度は脱ぐのに手間取っているタリアと、手伝いあぐねているリョウを置いて、キィロは先に浴場への扉を開いた。
「うわぉ!」
思わず歓声が漏れる。
正直期待していなかったのだが、それはまさにキィロが思い描いていた温泉そのものだった。
決して広くはないのだが、岩で囲われた風呂と、小さな滝のように注がれる源泉。隅に積まれた木製の手桶に、やはり木でできた椅子。周りは申し訳程度の木の板で覆われていて、何よりも素晴らしいのは頭の上に広がる夜空。
「これが憧れの露店風呂かぁ」
うっとりとキィロは呟いた。
・・単に天井が作れなかったのかもとは、考えないでおく。
「何入り口でぼーっとしてんだよ」
「へぇ。これが露店風呂ですか」
後ろから覗き込んでタリアがきょとんと目を見張る。
彼が以前行ったことのある温泉はかなり設備が行き届いて、完全に屋内だったし、もっと広かった。壁は一面有名絵画がタイル張りされ、天井は特殊な透明素材を使っていたので露天の気分も楽しめるというキャッチコピーだった筈だ。
それでも直に見る空には敵わないと感じる。
「何でもいいから中入れよ。寒いだろ」
肌寒さも忘れ情緒に浸る二人に、リョウが現実的な提案をした。
念願の温泉に浸かり、頭にタオルを載せてキィロは幸せに満ち溢れた顔で息をつく。
「いい湯だねぇ。疲れが癒されるのが分かるよ。ケイン君も来れば良かったのに」
「あいつのことだから、人前で肌晒せるかとか思ってんじゃねぇの?」
「あはは。深窓の令嬢みたい」
と、キィロとリョウは軽口の応酬をしていたのだが。
「大変ですよね、ケインさん」
タリアは真剣に心配していた。
「あの・・タリア君?」
「幾ら家訓とはいえ、生涯の伴侶にしか肌を見せちゃいけないなんて」
はぁと、悩ましげな溜息を漏らす。
「冗談・・だよな」
リョウは助けを請うように強張った顔をキィロに向けた。
「でも、タリア君だし、ねぇ」
ケインがどれほど純粋無垢な従弟を可愛がっているか、二人は嫌というほど知っている。疑うことを知らない彼をからかうためだけに、そんな嘘をつくとも思えない。
ならば何故と問われても答えが出る筈もなく。
ホントだったらどうするんだろ、とキィロはこっそりケインの将来を心配し。
信じるか普通、とリョウはタリアの行く末を心配した。
「どうかしましたか?」
「ううん、何でもないよ」
「そうそう」
きょとんと首を傾げるタリア。
他愛無い世間話の間にしっかりと温泉を堪能し、リラックスしきったことでタリアはここしばらく気になっていることを尋ねてみようと思った。
「あの、キィロさんがしてる指輪って」
「あぁ、これ?」
指摘されて、キィロはいつもはグローブに隠されている右手をお湯から出す。
甲にはくっきりと悪魔教の聖印。薬指には問題の指輪。
実は前から気になっていたのだ。タリアが返した後、あの指輪がどうなったのか。そもそも何故キィロがそれを持っていたのか。
「ケイン君がお守りだってくれたんだけどさ。何の役に立つんだろうね」
訝しげにキィロは眉を寄せる。
タリアは拍子抜けした。
「知らないんですか?」
「何を?」
問い返され、それ以上どう問うべきか思いつかない。
「何でお前はそのお守りを持ち込んでんだよ」
「だってさぁ。あのケイン君に貰ったわけじゃない。お風呂入ってる間になくなりましたなんてことになったら・・」
「それは確かに」
「でも・・ケインさんがそれをキィロさんに渡したなら、きっと何か意味があるんですよ」
タリアの真摯な訴えに、そうかもねと、キィロは素直に頷いた。
そして悪戯っぽい笑みを浮かべてリョウとタリアを見る。
「リョウ君とタリア君の首飾りってお揃いなんだ?」
「シードさん、それ、付けてくれるんですね」
つられてリョウの首元に目を遣ったタリアは顔を綻ばせる。
「あぁ。それこそ、なくしたら困るしな」
照れくさそうに髪を掻き上げ、リョウがペンダントを摘んで見せると、ヘッドに付いている十字架がゆらゆらと揺れた。
全く同じ形の十字架を今まさにタリアも身につけている。
「これ、何か意味があるのか?」
あってもなくても、返せといわれるまでは手放す気もないが、気になるのは確かだ。
タリアは困りきってお湯に体を沈めた。
「実はおれもよく知らなくて。多分、とても大事なものだと思うんですけど・・」
徐々に小さくなる語尾がごめんなさいと続きそうなほど恐縮するタリアに、リョウの方が慌てた。
「いや別に凄い知りたいわけでもねぇし! とにかく肌身離さず持ってればいいんだよな」
タリアを元気付けるようにリョウが豪快に笑う。実際聞かされても理解できるかは怪しい。
「ケインさんなら知ってるかもしれないですけど」
「とっても大事なんだねぇ。入り口に装飾品は取った方がいいよっておどろおどろしい文字で書かれてたのに」
「えっと、それはその・・」
何気なく口を挟んだキィロに、文字にさえ怯えていたタリアはにわかに口篭もった。
「お揃いだもんね」
さり気なく繰り返すと、二人の顔が真っ赤になる。
あてられる形になったキィロは手でパタパタと火照る頬を扇ぎ、空を見上げた。
ほとんど丸に近い月は手を伸ばせば届きそうなほど大きく見える。
「わり。のぼせる前に上がるわ」
「あ、はい」
義理堅く腰にタオルを巻いてリョウは湯船を出ると、タリアは赤い顔を口元までお湯に浸した。
何だかねぇと、キィロが再度見上げた月に、突然影がかかる。
それは明らかに人の形をしていた。
「あれ・・」
ポカンと指で示すキィロに気付き、残る二人も揃って顔を上げ。
影が近づく。
「お覚悟!!」
甲高い叫びと共に影が身を捩った。
飛来する刃物。
その標的とされたリョウは咄嗟に動けず呆然と・・刃物が脇を掠めていくのを見送った。
刃はきれいにリョウの、腰に巻いていたタオルの結び目を切り裂き。
「あ・・」
はたりと地に落ちるタオル。
軽やかに地に降り立った人影は柔らかく、かなり小柄な輪郭で、髪は長く、おそらくは女性だろうと思われた。ただ、逆光で顔は見えない。
その顔を上げしゃきっと獲物を構え・・硬直する。
「キャーーーーーーーー!!」
直後悲鳴。
慌てふためいて衝立の向こうに跳んで消える影。
「あ?」
同様に、リョウも凍り付いて動かない。
「キャーはこっちの台詞だよねぇ」
不審者を追跡する気もなく、のんびりとキィロが呟けば。
「そういう問題じゃないですよ」
タリアは力なく溜息を漏らした。
4
ショックで放心していたリョウは、部屋に帰りつくなり不貞寝を決めこみ、タリアも付き合って早々に寝ることにした。
三人が温泉に行っている間にユーゼが一度戻ってきて、気にせず先に休んでていてくれと言付けていったらしいので、二人に関しては心配はないだろう。
多少の脚色も加えて温泉での一件をキィロが話したところ、ケインの反応はただ一言。
「アホか」
だったので、寝ちゃって正解だなぁと、キィロは内心リョウに同情してみた。
夜だからといって二人で酒盛りする状況でもなく、かといってやることもなく、ケインたちも早々に休むことにする。
野宿よりマシだが慣れない布団に潜り込み、明かりを消して。
「お休み、ケイン君」
「あぁ」
声を交わしてそのまま朝まで・・ぐっすりと眠る筈だったのだが。
深夜。
虫の音と蛙の合唱。規則正しい人の寝息。
足音なんて少しも聞こえない。
そんな空気の中で。
ケインは突然目を開けると枕もとの護身用の短剣を真上に突き出した。
「何の用だ?」
覆い被さっていた人影が、びくりと体を震わせる。その首筋に容赦なく切っ先を押し当て、低く囁く。
影になって顔は見えないが、女だろう。
長い髪が顔のすぐ横まで落ちてきていた。
「俺様に夜這いとはいい度胸だな」
言いつつ、いつでも魔法を発動できるよう構えようとし、左腕に違和感を感じてぎくりと身を竦めた。
その隙を逃さず襲撃者は剣を跳ね除け、逃げ去ろうとして、入り口の段差に躓いた。
咄嗟に身を起こそうとするが、違和感の正体が邪魔で動くに動けない。
結果、不審者には逃げられてしまった。
開かれたままの障子戸から風が吹き込んできたせいか、違和感の主がうぅんと声を上げて布団から顔を出した。そのオレンジ頭を容赦なく叩いた。
「いたっ。何?」
寝ぼけ眼でこちらを見上げる顔を睨みつけ、思いきり頬を抓み上げる。
「いひゃいよいひゃ・・っ!」
口を抑えて悲鳴を封じた。
「今は夜中だ大声を出すな」
怒りも露に告げるとこくこくと頷く・・キィロ。
手を外してやるとぷはぁと大げさに深呼吸した。
「起こすんならもうちょっと優しく起こして欲しいなぁ」
「優しく起こされたいならそれ相応の寝方をしろ」
不機嫌に呟くと、ようやく気付いたのか、きょとんと目を瞬かせている。
「もう朝、じゃないよねぇ。暗いし」
どころか真夜中だ。
「何でお前がここにいるんだ?」
「へ? 寝ぼけてるのケイン君。オレ最初から同行してるじゃない」
「そういう意味じゃない。どうして、お前が、俺様の布団で寝ているのかと聞いているんだ!」
声を抑えて怒鳴ると、キィロは気まずげに目を逸らした。
「あぁそっちね。えっと、何となく寝つけなかったり人肌が恋しくなったり」
「理由は?」
「・・肌寒かったので、つい」
キィロは正直に白状した。ケインの目が幾分険しくなる。
「ちゃんと聞いたんだよ、オレ? 一緒に寝ていいって」
決して了承を取ったというわけではないにしろ。
要するに。それがケインにとっては問題なのだが。
「ついさっき妙な女が部屋に入り込んできた」
「女って、お風呂で襲ってきた子と一緒かなぁ?」
「さぁな。とにかく、捕らえるチャンスをお前が・・」
「え、オレ? 濡れ衣だよオレはただ寝てただけだもん!」
左腕に絡まって。
おかげで反撃のチャンスを逸してしまった。
「いいじゃん二人とも無事だったんだし、ね?」
小首を傾げるキィロはむしろ苛立ちを助長するだけだったが。半分近く八つ当たりな自覚があったので、それ以上責めるのは止めにした。
襲撃者の気配なら、廊下の外にいたときから気付いていたのに、至近距離に潜り込まれて気付かなかったという事実がひどく、癪に障る。
機嫌を損ねてしまったことに気付いているのだろう、キィロが取り成すように笑みを浮かべた。
「せっかく起きたんだからさ、温泉にでも行ってきたら? お婆ちゃんいつでもいいって言ってたし」
ケインはじっと、キィロが気まずさを覚えるまでじっと、その顔を見つめていたが。
「それもいいかもな」
「うんうん。じゃあ早速行っておいでよ」
「てめぇも行くんだよ」
「へ?」
間抜け面を晒しているキィロを残し、廊下に出ると周囲の気配を探る。不審人物は幸か不幸か見つからなかった。
「まぁ、温泉は何度入ってもいいものだけどさー」
暢気に風呂の支度をしているキィロを振り返って、
「置いていくぞ」
一声掛けるとケインは歩き出した。
ぱたぱた足音を立てて追いかけてくる気配は、確かに感じられた。
そうして。温泉へ向かう二人の後ろ姿を眺めている一つの影。
木に隠れて彼らからはちょうど見えない位置にいるのだが。
「何やってるんだか、あいつも」
小さくぼやくと、夜の闇に消えた。




