第2章『温泉へ行こう』1話「迷いの森」
『弱さなんて、自分の中に幾らでも巣食っている。それが知られたところで何だというのだろう』
1
迷いの森はウェソット地方とアテス地方を分ける大森林である。
とはいえ大きさはそれほどでもない。人が滅多に近づかないのは、ひとえに乱雑に育った木々と起伏のある地形が人の方向感覚を狂わせ、迷わせるからだろう。
だからこそ、「迷いの森」と呼ばれるのだ。
森に入ってしばらくは、それでも順調だった。
自信満々に宣言しただけあって、ナットは迷いもなく、己の方向感覚だけを頼りに正しい道を進んでいった。
リョウなどはどこを向いても同じ景色にしか見えなかったが、微妙に違っているらしい。用心のためにケインが木々に印を付けていたこともあり、本当に、順調に進んでいたのだ。
日が落ちて、野宿の準備のため、皆が散開するまでは。
野宿経験のあるナットの指示の下、彼とケインが食材の確保、手先の器用なキィロと自炊慣れしているリョウが留守番兼食材の加工に、そしてどちらにも向かないタリアはユーゼと共に薪を拾いに出た。
あらかじめ、注意はされていた。
戻れないくらい遠くには行かないこと。そして、足元は充分注意すること。
背の高い藪に覆われた地面はその下がどうなっているか分からず、危険だと。
タリアも充分注意しているつもりだった。それでも、手頃な木の枝を拾いながら顔を上げたその先に、何かがきらりと光った気がして、一歩足を踏み出した。その足場が。
突然崩れた。
「うわっ」
「タリア!」
悲鳴に気付いてユーゼが駆け付ける。薪を放り、手を伸ばした。指先が触れ、どうにか掴む。
互いにほっと息をついた瞬間に。
「え?」
「っ!」
またしても地面が崩れる。
そして二人は真っ逆さまに落ちていった。
タリアとユーゼが戻ってこないことに、まずリョウが不審がった。幾らタリアが不器用だとしても、木の枝を拾うだけのことにそんなに時間がかかるとも思えない。
「何かあったんじゃねぇか?」
「でも、ユーゼ君も一緒だよ。とりあえず、ナット君が戻るまで待った方がいいんじゃないかな、オレたちまで迷子になったらどうしようもないよ」
だったらオレ一人でも、と言い出したいのをリョウは懸命に堪えた。
「それまでに戻ってくるかもしれないし」
苛立ちを隠しようもなく歩き回るリョウを、石に腰掛け眺めていたキィロは足音に顔を上げる。
帰ってきたのは服の裾に食べられる草と木の実を抱えたナットと、不機嫌も露なケインだった。
何となく、キィロには不機嫌の理由が思い当たった。多分、狩りということでそれなりに腕を鳴らしていたのに、獲物が通りかからず肩透かしを食らったとか、そんなところだろう。でなければ、手ぶらでいるのも不自然だ。
「どうかしたか?」
きょとんと目を瞬かせるナットに、リョウが怒鳴った。
「タリアたちがまだ帰ってきてないんだよ!」
「へ?」
確かに、いない。とっくに戻ってきているものと思っていたのに。
「遠くに行っちゃって、戻れない、とか」
「ユーゼもいるし、それはないと思うけど・・」
顎に手を当て、ナットはじっと考え込む。
「獣に襲われでもしたか」
重くケインが呟けば、キィロが首を振る。
「そんな物音はしなかったよ。ユーゼ君が魔法を使えば、ちょっとは騒がしくなるでしょ」
「そっか。静歌がいるもんな。じゃ、ケガの心配はしなくてもいいのか。だったら、道に迷ったか」
「探しに行こうぜ!」
「うん。オレ、ちょっと見てくるよ。みんなはここで待って」
「オレも行く」
焦って言葉を遮るリョウに、ナットは困惑して残る二人を顧みた。
「オレたちは留守番してるよ。ぞろぞろ付いて行っても足手まといになるだけだし、ね?」
キィロが勝手に答え、ケインは何か言いたそうだったが、諦め一言だけ発した。
「頼む」
「「おう!」」
ナットとリョウが同時に答え、駆け出していく。
二人が木々の合間に消えるのを見送り、ケインはキィロを振り返った。
「みんなが帰ってくるまでにご飯の用意でもしておこうか。あ、火を炊くのに薪がないか」
「それくらいなら、すぐに取って来れるだろ」
「うん。でもそれでケイン君までどっか行っちゃったら、オレは凄く困るんだけど」
悪びれず、真剣に困っているキィロ。
「・・俺様が迷うか」
高飛車に、ケインは断言したが、動くのは止めにした。
2
時を遡ること数時間。
幸いにも、途中木々の枝に引っかかり、落下の衝撃はそれほどでもなかった。だが、結構な距離を落ちたようで、上は見えない。その上崖は反り返っているため、這い上がるのも無理そうだ。
「どう、しましょう?」
ユーゼがそんな分析をしていると、地面に降り立ち、そこここに葉っぱを纏わり付かせたタリアは、青白い顔で上を見上げていた。
「そやなぁ。ま、ここで助けを待つしかないわな」
「来ますかね」
不安を隠せず心細げな様子に、思わず笑みが漏れる。
「ナッちゃんがおるからな。まぁ、ここから上がるんは難儀やろうけど」
しゅんとタリアは項垂れる。
「そや、ケガはないか? タリア」
「大丈夫です。あの、ユーゼさんは」
「そりゃ良かった。オレも平気や。まぁ、ちょっとしたケガなら静香ちゃんもおるし、問題ないねんけど」
ユーゼはそう言って蛙の頭を撫で、名案を思いついた。
「静香ちゃんなら、この崖登れんかな」
水色の蛙は突然の提案に黄色の目を瞬かせ、問い返すようにゲロ、と鳴いた。
「あの、でも小さいし、危ないんじゃ」
タリアが抗議する。静歌はタリアをじっと見つめ、ゲロゲロ、と鳴いた。
「ホンマにええん? 確かにその方が確実やろうけど」
ゲロゲロ。蛙が鳴く。
「うん? 嬉しいで静香ちゃん。やっぱりええ女や、でも浮気はあかんで」
相好を崩して蛙と話すユーゼの姿はかなり、気色悪いものだったが、非常事態なのでタリアはあまり気にしないことにした。
「じゃあ、頼むわ。くれぐれも、足場には気をつけてな」
ユーゼが蛙を崖の近くの木の枝に乗せる。最後に一言、ゲロと鳴いて、静歌はピョンピョンと軽快に、木の枝を飛び跳ねていった。
「ユーゼさん。静歌、さんて・・蛙、ですよね?」
飛び跳ねる姿は蛙だが、飛距離が蛙の三倍くらいある。
「蛙は仮の姿や。ホンマもんの蛙とは一味も二味も違うで」
自分を誉められたかのように、ユーゼは胸を張った。
「これでどうにかなるやろ。立ちっぱなしも何やし、座って待と」
「はい・・」
手近な岩場に腰を下ろすと、タリアはそっと溜息をついた。
途端に、後悔が襲ってくる。
「ま、そう気落ちせんと。たまにはこういうこともあるて」
「・・・」
眼鏡をくいっと上げて、楽観的な言葉をかけるユーゼ。その向かいに腰を下ろしたタリアは、申し訳なさそうに萎縮している。
周りは鬱蒼と茂る木々ばかりで、人の気配どころか生き物の気配すらない。
空を見上げれば、夜の帳はとうに降り、月が晧晧と、地上を照らしている。
新月でない分マシかなと、ユーゼは内心一人ごちた。
「ユーゼさん」
どれだけ時間が経ったのか、そんなに経っていないのかもしれない。それでも沈黙が息苦しくて、タリアはいてもたってもいられなくなった。
「ん?」
眼鏡のレンズを拭いていたユーゼは、何気なく顔を上げる。
それを見て、タリアの心に懐かしい顔が浮かび上がってきた。眼鏡を取れば、見間違いようのないほど、そっくりに見える。
いい機会ではなかろうか。あの時の疑問をぶつけるには。
そう思い立ったものの、どう切り出せばいいのか分からない。
「えーと。あの、・・その」
言葉を選ぶのに必死の様子を見て、ユーゼが吹き出した。
「ユーゼさん?」
困惑と批難をこめて睨むと、苦笑いのまま、ユーゼが言った。
「そういうトコは昔から変わらんなぁ、タリア」
その笑顔はいつか見た、彼の笑顔そのままで。
「リョウちゃんにも忠告されたし、そろそろ潮時やな」
ユーゼはかけた眼鏡の下で紺色の目を細め、決別した過去に対峙する。
「タリア、オマエの知っとるユーゼ=リュース=テレージアは死んだ。ここにいるんはただのしがない情報屋、ユーゼ=オセや」
それが悲しみしか、引き起こさないとしても。
火を起こすことは諦め、とりあえず全員の荷物を纏めてじっとしていたキィロは、ふと立ったまま周囲に気を配っているケインに尋ねた。
「ねぇ、タリア君はさ。ユーゼ君のこと知ってるの?」
「俺様が教えた覚えはねぇな、少なくとも」
「ふぅん。じゃあ、結構不思議に思ってるんじゃない。キャレットで会った時も驚いてたし、その後も気にしてたみたいだよ」
身動ぎしただけでも衣擦れの音が響く、静寂。
「教えてあげないの?」
「・・俺様がわざわざ話すことでもないだろ」
キィロはそれもそっか、と頷いた。
「どうして、ですか? みんな心配して・・急に、いなくなるから」
言葉通り、タリアは本当に、心配してくれたのだと思う。心から、何の打算もなく。
それが分かればこそ、申し訳なく思っても、戻るつもりも、戻れる場所もない。
「タリアはあの時、どうしてたんやっけ」
数年前。自分が姿を消した騒動を、タリアは知らない。
「旅行に、行ってたんです。両親と兄と、四人で。お土産を買って、遊びにいったら・・いないと言われて」
その時はただの不在だと信じていた。けれどそれからも姿は見えず、従兄に聞いてもただ行方をくらましたと、それしか教えられず。
「それは悪い事したなぁ」
それで良かったとユーゼは思う。知られたくなかった。あの頃は。今はどうなのだろうと自問してみる。目の前の少年に知られることに、自分は耐えられるのだろうか。
「おれは。確かにガキだし世間知らずだし・・頼りないですけど。でも・・でも、何も知らないで笑っていられるほどバカじゃありません。ユーゼさんが言いたくないなら、無理に聞けることじゃ、ないですけど」
迷いを吹き飛ばすように、タリアは声を絞り出した。感情が高ぶって、涙目になる。
ユーゼは彼の中に眠る秘密を知った。彼は、ずっとひた隠しにされていたそれを受け止め、笑っていられるのだ。
自分の過去くらい、大した事ではないかもしれない。
「そんな、大層な話でもないで」
ユーゼは目を伏せ、何から話そうか考える。タリアは静かに言葉を待った。
「タリア、リートって村、知っとる?」
「リート、ですか。いえ・・」
一応、自国の地理は一通り習った筈だが、その名前に聞き覚えはない。恐縮するタリアに、ユーゼは微笑んだ。
「知らんでもおかしない。ヴェルナ連邦の外れにあるっちゅう村やからな。雪が深くて、人もあんまし寄りつかん場所らしい。この言葉もそこの方言なんやて」
「はぁ」
「彼女は・・そこの生まれや言うとった」
ぎゅうと、ユーゼの拳がきつく握られる。暗くて表情は見えない。
「大災厄で身寄りを亡くしてな、こっちに出稼ぎに来てたらしい。下町で娼婦やってたんや」
「しょうふ、ですか」
タリアには聞き慣れない単語だ。意味を反芻している様子が見て取れた。
「で、や。その頃のユーゼ=リュース=テレージアはマセガキやった。偶然、街に遊びに行ったときに知り合ったんよ。道端で貧血起こしとるところに出くわして、一目惚れや。そんとき一緒におったケインにはさんざ忠告されたんやけど」
相手が悪いと。ユーゼはその言葉に耳を貸さなかった。
それどころか、彼を貴族的な思考回路に侵された俗物だと、声高に罵ったのだ。ケインは反論もせず、残念そうに首を振っただけだった。
今ならその理由が痛いほど分かる。
「散々店に通って、彼女も心を開いてくれて、ただもう一緒になりたい一心で・・彼女を両親に紹介したんよ。ただのバカやな。貴族的な考えにどっぷり漬かっとる奴らに、そんなん通用するはずもない。案の定一笑されて終わりや。だったら駆け落ちでもしよか言うて。半ば本気に話しとったその矢先。彼女が・・病で倒れたんは」
「え? 医者には・・」
「見せよう思って街中走り回ったわ。けどみんな断られた」
「そんな! どうして」
「裏で手ェ回しとったみたいでな。それどころか、使えんいうて彼女は店からも追い出された」
タリアはユーゼの両親を思い浮かべた。あまり関わりのない人たちだが、いつも優雅に微笑んでいて、子ども心に優しい人なんだろうと、そう思っていた。
「俺はガキやった。一人じゃ何もできん。それに気付いて親に土下座して二度と会わないいう誓約して医者連れて彼女んとこ向かったら・・」
ユーゼは目線をさ迷わせ、随分と躊躇ってから、ポツリと言った。
「彼女はとっくに死んどった。自分で、薬飲んで。自殺や」
「・・・」
「遺書には俺のことなんざ一文字もかかれとらん。その時はもう悔しいやら情けないやらでよう分からんかったけど・・たぶん、俺の将来気にしてくれたんやろな。俺には哀しいだけやったけど」
ふぅと、肩の荷が降りたかのように深い息をつく。
「・・それ以上あそこにはおれんかった。親の顔見たら何するか分からんし、とにかく家を飛び出して・・で、今はこの有り様や」
自嘲気味に話を終えたユーゼは、顔を上げて目を見張る。
「タリア?」
タリアの頬に涙が流れていた。
「ごめ・・なさっ」
自分でも気付いていなかったのか、嗚咽を漏らして涙を拭う。けれど次から次へと溢れ続け、うわ言のように同じ言葉を繰り返した。
「ごめんなさいごめんなさっ・・」
ユーゼは苦笑して、タリアの頭を抱き寄せる。
「別に謝るような事あらへんで。今は俺もけっこう楽しくやっとるし。ナッちゃんも静歌ちゃんもタリアもいて。満足しとるんやで、これでも」
ふるふると、首を振るタリア。言いたいことも嗚咽に紛れて声にならない。
「けど、おおきに、な。タリア」
タリアが泣き止むまで、ユーゼはずっと、あやすように背を撫でていてくれた。
3
「そういや、お前誰か知り合いいねぇのか? 悪魔教の総本山に」
ぼつりとケインが問いかけた。
落ちていた木の枝で地面に落書きして時間を潰していたキィロがうぅんと、意味のない声を上げる。
風に揺れる木々の葉擦れの音と、自分たちのかすかな息遣い。
痛いほどの静寂も、挑戦的なケインの言葉も随分と柔らかく聞こえた。
「いないよ」
キィロはあっさり答える。
「オレの魔法はさ、昔お世話になってた人にね、教えてもらったんだよ。だから正確には信者じゃないんだよね」
「使えねぇな」
呆れを多分に含んだ目を向けられ、ごまかすように肩を竦めた。
月明かりだけを頼りに足跡を辿っていたナットとリョウは、しばらく進んだ先で不自然に途切れていることを発見した。
「この下は・・崖か?」
「みたいだな。しかも地面が崩れたっぽい」
そうなれば、考えられることは一つだ。
「まさか、落ちたのか!?」
リョウが叫んだ。
自分もまさに飛び降りようとするのを懸命に阻止しながらナットも叫ぶ。
「ってオマエまで落ちてどうすんだよ! 一度オレが下に降りて見てくるから・・」
ゲロゲロ。
唐突に、蛙の鳴き声。二人は揃って足元を見た。
どこかくたびれている様に見える水色の蛙。見間違えるはずもない、ユーゼが連れている精霊、静歌だ。
「オマエ、何でこんなところにいるんだよ?」
ナットが驚いて話しかけた。
ゲロゲロ。蛙は鳴いて、黄色の目を崖の下に向ける。
「二人とも、下にいるのか?」
ゲロ。頷いたように見えた。
「無事、だよな?」
ゲロ。再び頷く、ように見えた。
契約者であるユーゼは心で会話ができるらしいが、ナットにはただの鳴き声にしか聞こえない。それでもユーゼの次に付き合いが長いのだ、何となく意思の疎通はできる、気がする。
「リョウ。やっぱり二人とも下に落ちたみたいだ。でも無事だって」
「お、おう」
リョウは蛙と真剣に会話するナットの様子に一歩引いていたのだが、そういう場合でもないと気持ちを入れ換える。
「下の二人を引き上げるより全員で降りたほうが早いか。いやでも下の道が上手く繋がってるか・・」
「ごちゃごちゃ迷うより行っちまったほうが早いだろ。オレは先に行くぜ」
言うが早いが躊躇いもなく飛び降りるリョウ。その姿が小さくなるのを見ながらナットはあっけにとられた。
だがこれで、選択肢は一つになったわけで。
静歌を肩に乗せると、ナットは残る二人を連れてくるために、今来た道を戻り始める。
「だからって飛び降りるかぁ? どれくらいの高さかも分かんねぇのに」
肩を竦めぼやくと、肩の蛙も同意するようにゲロ、と鳴いた。
がさがさと騒がしい葉擦れの音は、静かな分余計に大きく響き、ユーゼはタリアを庇うように身構え、タリアの涙も驚きで止まった。
だがしばしの沈黙のあと聞こえた声は、随分聞き慣れたもので。
「いってぇなぁ。こんなに落ちるなんて聞いてねーぞ」
言う前に自分で落ちたのだから自業自得だが、したたかぶつけた手足をさすりつつ、木の陰から出てくるのはリョウだ。
「シード、さん・・」
唐突な登場に、呆気に取られるタリア。
その姿を確認し、安堵の声を上げようとしたリョウは、逆に息を呑んでユーゼを思いきり睨みつけた。
「てめぇ・・タリアに何しやがった」
「はぁ?」
「はぁじゃねぇ! 泣いてんじゃねーか!」
目は潤んで充血し、頬にも跡が残っている。月明かりだけでそれを認識したのは確かに凄いが、怒る方向性が大きく間違っている。
「まぁ、俺が泣かしたいえば、そうかもなぁ」
呆れて溜息も出ないユーゼが更に煽るようなことを言う。
「てんめぇ・・!!」
「違います! 別におれは泣かされたわけじゃ!」
いきり立つリョウを慌てて押さえにかかるタリア。
羽交い締めにされ、それでも睨みつけるのだけは止めないリョウに、いっそ感心する。
ユーゼは堪えきれず吹き出した。大声で笑う。
憤りも忘れポカンと口を開けているリョウ。
「ユーゼさん?」
恐る恐る問いかけるタリアに涙目になりながら答えた。
「悪い。何や気が抜けてもうて」
「そうだ! どうしてリョウさんがここに? 落ちたんですか」
「落ちるか! 蛙に会ってお前等が下にいるって分かったから飛び降りたんだよ」
「はぁ」
「静歌ちゃんは蛙とちゃうでー」
無事に彼女が辿りついたと知って安心しつつ、ユーゼはささやかに抗議したが、聞き流された。それで、とタリアは当然の疑問を口にする。
「おれたち、どうやって戻ればいいんでしょうか?」
彼の視線につられて崖を見上げたリョウは、ようやく問題が全く解決していないことを悟った。
4
その崖の上、頼りない足場に不機嫌も露に仁王立ちしているケイン。その後ろからわずかに震えながら、キィロが下を覗いた。
「ホントにここ降りるの・・?」
地面は幸か不幸か木々に埋もれ見えなかったが。
怖い。正直、今すぐに安全な、落ちる危険なんか一欠片も存在しない場所へ逃げ出したいくらい。せめてもの慰めにケインの服の裾をぎゅっと握る。ケインは嫌そうにしていたが。
こんなところから飛び降りるリョウは勇敢というよりただのアホじゃないかと、キィロは八つ当たり気味に一人ごちた。その点はケインにも異存ないようで、いっそ置いておこうかと思わないでもなかったが、そうもできない理由がある。
哀しいかな、下には腐れ縁の悪友だけではなく、大事な従弟もいるのだ。
「とっとと覚悟を決めて飛び降りろ」
なので容赦なく宣告した。
キィロは大げさなくらいショックを受けた顔をする。わざとらしくはあったが、その奥に本気で怖がっている様子が垣間見え、ナットはかわいそうに感じて優しく、彼の肩に手を置いた。
「こっから三人を引き上げるより、オレらが行く方が早いだろ」
重力に導かれて落ちていくだけなら何の労力も要らない。
「大丈夫だって。多分木がクッションになってくれるだろうし、いざとなればユーゼが責任持って傷を治すからさ。それにこれから温泉に行くんだし、ちょっと打ち身くらいしてたほうが入りがいもあるだろ」
「う・・うぅん?」
それはどうかと思うが。
本人だって、こうしていても始まらないと、分かってはいるのだ。それでも足が竦んで動かない。困ったことに。
そんな葛藤を読み取って、ナットは心の底から励ますような力強い笑みを浮かべた。
「大丈夫、一瞬だから」
「へ?」
そしてぽんと、キィロの背を押した。
上半身が傾いて、足が地面を離れる。
咄嗟に振り向くと、ナットの笑顔とケインの驚愕した顔が見えた。
「あ・・」
落ちていく二人を見ながら、ナットは思わず声を漏らしていた。
そういえばキィロはケインの服を掴んでいたわけで。驚いて、逆に強く握ったのか、引きずられて二人一緒に落下していった。
「まぁいっか。いっぺんに片付いていいよな」
楽観的な結論に達して、ナットも跳躍する。
「ちゃんと掴まってろよ」
蛙の懐に入れると同時に、宙に飛び出した。
正確な距離は分からないにせよ、受身をきっちり取ればたいして被害はないだろうと目算していたケインはいきなり予定が狂ったことを知った。
空中でどうにか体勢を整えたかったが、がむしゃらにしがみついてくるキィロのせいでそれも適わず深々と溜息をつくと、自分より幾分小さい体を庇う様に抱きしめ、きたる衝撃に備えた。
落ちながら頭の中が真っ白になる。
何だか嫌なことを思い出しそうで、身近な何かに縋りついた。
逃げなくちゃ。
唐突にそう思う。それを疑問に思う前に、がさがさと騒がしく木々が擦れ合う音と、確かな温もり。
リョウが落ちてきたときと同様の音を立てて、二人分の影が降ってくるのを三人は何ができるでもなく、眺めていた。
見覚えがあるなぁと、既視感に襲われながら上を見上げると、予想通りもう一つ、降りてきた人影は体を縮め器用に木々の間をすり抜けると、枝に掴まり一回転して、彼らの前に見事な着地を決めた。
リョウもタリアも、思わず本心から感嘆の拍手を送る。
そしてユーゼは小柄な体をきつく抱きしめた。挟まれる形になった蛙が隙間から顔を出しゲロゲロと抗議し、宥めるよう腕を叩かれたのですぐ離れたが。
ナットはユーゼを見上げ、それから背伸びしてそっと頭を撫でた。
「お疲れ」
たった一言で、ユーゼの表情が和らいだ。
「ナッちゃんもお疲れさん。静歌ちゃんもよう頑張ってくれたわ」
定位置に戻ってきた蛙を労うように撫で、相好を崩す。
どうしてこの男は蛙相手にここまで鼻の下を伸ばせるんだろうとナットか情けなく思ったが、元気がないよりはずっとマシなので殴るのはやめておいた。
タリアはそんな二人を見て、というより現在のユーゼ=オセを見て、記憶の中の彼と重ねるのをやめた。あの時も今も、彼を慕う気持ちに変わりはない。それで充分だと思う。
「ひどいよナット君オレホントにホンットーに怖かったんだからねもう心臓止まるかと」
「いいからさっさと俺様の上からどけ! いつまで乗ってる気だ!?」
「ふえ?」
目の端に涙を滲ませ叫んでいたキィロは、下から怒鳴られ間の抜けた声を上げた。
「ぎゃあケイン君!」
慌てて退き、よろよろと起き上がったケインを覗き込む。
顔に、小さな引っかき傷が幾つかできていた。服やら髪についた葉っぱを払いながらキィロは申し訳なさに恐縮し、「大丈夫?」と弱々しく問いかけた。
「ふん。これくらいでどうにかなると思ってるのか? 俺様が」
ケインは必要以上に居丈高に言い放った。キィロがほっと、息を吐く。
「ケインさん、大丈夫ですか?」
タリアたちにも手を振って無事を示す。
立ち上がり、彼らのほうに向かおうとするケインの背に、キィロは小さく呟いた。
「ありがと」
聞こえたのか聞こえなかったのか、ケインは振り向かなかった。
その晩は結局崖の下で野宿ということになった。
ベッド以外の場所で眠る経験なんてないタリアはなかなか寝つけなかったが、ケインの魔法でつけた火が消える頃には自然と眠りについていた。
全員が動かなくなったのを見計らってユーゼはこっそり毛布を抜け出した。少し離れた手頃な岩場に腰を下ろし、空を見上げる。
そして一息つくと、背後の木に声をかけた。
「ナッちゃんもこっち来ぃへん? 月がきれいやで」
ほとんど囁き声に近かったがそれで充分に届く。気配もなくその枝に座っていたナットは意外そうに瞬きし、わずかな物音も立てず降り立った。そして足音を消して歩み寄る。既に気付いているユーゼには意味がないが、せめて眠っている仲間の目を覚まさないよう、ちょっとした配慮だ。もっともこの程度の芸当、ナットにとっては息をするのと同じくらい自然なことではあったが。
「よく気付いたな」
完全に気配を消していた筈なのに。
賞賛をこめて囁きを返すと、照れくさそうに微笑する。
「何となく、そう思っただけや。一日二日の付き合いでもなし、それくらいは分かる」
「ま、いいけどさ」
隣に腰を下ろすと、ユーゼがふぅ、と溜息を漏らす。
ナットは何も言わず、ただ彼を抱きしめた。傍から見れば抱きついているようにしか見えなかったが。
目を閉じて、ユーゼはその温もりを享受する。
自分の過去を人に話したのはこれで三度目だ。その度に、自己嫌悪に陥る。
ナットは自分の弱さを知っている一人だ。そう考え・・自嘲した。
弱さなんて、自分の中に幾らでも巣食っている。それが知られたところで何だというのだろう。
「ユーゼ」
胸の中で、ナットは抑えた声で名を呼んだ。そしてユーゼの両頬を思いきり抓り上げる。
「あにふぅのん?」
「まーた下らないこと考えてるだろ。そういうのは考えてもどうしようもないんだから、どうにかしようと思うなって、オレは何度も言った」
怒ったようにも見える顔が、とても心配そうに見えて、申し訳なく思う。眉を寄せて答えに詰まるその様子を見て、ナットは肩を竦めた。
「仕方ないけどさ。あんまり心配させんなよな」
「善処するわ」
頼りない返事に、それでもナットは満足したらしい。甘えるように擦り寄ってくる。
ぎゅうと抱きしめる腕に力をこめて、ユーゼはただ、温もりに縋りついた。
翌朝。
寝心地が良くなかったせいかまだ眠たそうに欠伸を繰り返すタリアを、ユーゼは優しい眼差しで見つめていた。
無意識にケインの隣に潜り込んでいたことでキィロがお小言を食らっている横で、リョウがナットの手解きで朝食作りに取りかかっている。
そんな。
穏やかな陽光の中。
ささやかで、けれど優しい光景が。
ゲロゲロと静歌が囁く。
「そやな、俺は幸せもんや」
強がりでなく、本心から、ユーゼはそう答えた。




