第1章『銀狼』2話「忘れられた遺跡で」
おいで。
誰かが。
おいで。
呼んでいる。
おいで。
どうしてそんなに。
哀しそうなの?
1
馬車に揺られること半日。レパーダに着く頃には太陽も随分低くなっていた。
夜が危険なのは承知の上で、彼等は村の外れにあるという、その遺跡に向かっていた。
馬車の中で、ユーゼは報告を兼ねて自分の身に起きたことを語った。
「正直・・オレにもよく分からんのや。ケイちゃんからの幾らか情報はもらっとったし、遺跡の入り口はすんなり見つかってな。ナットと一緒に入った。仕掛けはまぁ、ナッちゃんが見つけてくれたし、進むのに大して労はいらんかった。で、何にもない広い部屋に出てな。いかにも何かありそうやろ? まぁ、あんまり深入りしてもなんやし、とりあえずその部屋の仕掛けだけ調べて戻ろうと、そう思った矢先に」
ユーゼは深く息を吸い込むと、声を低くして続けた。
「あいつが・・妖魔が現れたんや」
リョウが息を飲む。タリアははじめその単語が意味するところを理解できず、ぽかんとしてしまった。
妖魔。
それは大陸に住む人間にとっての脅威。
二つの世界の接触による歪みの具現化とも、全く異なる世界から来たとも言われる、人と似た姿をした人の敵。普通の人間では歯が立たないが、幸いにして、数は圧倒的に少ない。二十年前の大災厄で増えたと言われてはいるものの、実際に出くわす確立はゼロに等しい。
子どもの頃聞かされたそんな説明にようやく思い至り。
「えっ!」
驚きの声を上げる。
「どうかしたのー?」
話には加わらず、御者の隣に滑り込んでいたキィロが幌の中に顔を覗かせ、そっと唇に指を当てた。それは噂であっても人をパニックに導きかねない。事情を知らない御者を含め、情報を漏らすことは極力避けるべきだ。
とっさに口に手を当てたタリアに笑顔で頷いて、キィロは前に向き直った。外から御者と世間話する声が漏れ聞こえてくる。
「あ、あの・・それって」
「確証があるのか? それだっていう・・」
今聞いたばかりの二人は、じっとユーゼを見つめた。
ユーゼは肩をすくめて見せる。
「オレかて実物に会った事はあらへんかったからな。絶対とは断言できんけど。ただ・・
人の姿で、紫の目ぇしとった」
妖魔は大抵人の姿を取ると言われている。その容姿は様々だけれど、唯一の共通する特徴は紫の瞳。大陸の誰も持たないその色が、災厄の証。
「怖気づいたのか?」
「そんなんじゃねぇよ、ただ」
重たい沈黙に、ケインが皮肉ると、リョウはちらりと、横で緊張した面持ちのタリアを長し見た。
「本気で、連れてく気かよ」
リョウだって、タリアの腕は知っている。遊びに来た道場でも、めったに人を誉めることをしない師範に筋がいいと気に入られていた。けれど、訓練と実戦は別物だと、リョウは知っている。それは実際に軍務についているケインが、知らないはずはないことだ。
「大丈夫ですよ」
返事をしたのはタリアだった。
「大丈夫ですって。だって、オレのことはシードさんが守ってくれるんでしょう?」
含みのない笑顔にシードは一瞬呆気にとられたが、すぐにあぁ、と強く頷いた。
大事な弟を取られたようでケインは眉を寄せ、その様子にユーゼはつい吹き出してしまい、ケインに睨まれた。
2
「ここが遺跡、ですか?」
そのタリアの一言は、全員の心を如実に表していた。
遺跡、というからには古めかしい扉や、そうでなくとも薄暗い洞窟などをそれぞれイメージしていたのだ。初めて見たときはユーゼだって呆れたし、情報だけは得ていたケインも半分以上ホラだと考えていた。けれども。
彼らの目の前にあるのは古ぼけた廃屋だ。窓は割れ、壁もところどころ穴が開いている。
「とりあえず入ってみようか」
動揺を隠しきれない声でキィロが半分開いた状態のドアを指差した。
「そうやな。ま、入れば少しは納得するやろ」
ユーゼを先頭に、屋内に入っていく。大の男五人で窮屈な部屋の真ん中に、明らかに人工の階段があった。
「ここか」
「そう。上手に隠してあったわ。確かにこれじゃ気付かんやろ。外からじゃ、ただの廃屋にしか見えんしな」
ユーゼは軽く肩を竦めながら、階段を降り始める。それにキィロが続き、その後をリョウとタリア、そしてケインが降りていく。
「この先は一本道や。迷うことはない、が、罠が仕掛けられとる。壁の色が違う部分には触れんといてや。それが作動スイッチになっとるからな」
「解除してねぇのかよ」
リョウが毒づくと、ユーゼはやれやれと大げさに溜息をついてみせた。
「いちいち外しとったら先に進めんやろ」
ユーゼの言う通り、階段が終わると同時に一本道が続いていた。先は暗くて見通せない。そして茶色のレンガで覆われた壁には時折、というよりむしろ三分の一はかすかに赤みがかったブロックが混じっている。
「これじゃ、うっかり壁にも触れないねー」
のんきな口調で赤いブロックに手を近づけていたキィロは。
「触ると一気に他のも作動して一網打尽やからなー」
深刻さを感じさせないその声にピタリと固まった。
「余計なことしてねーでさっさと進め」
苛立たしげにケインが言う。
そうこうするうちに、唐突に通路が途切れた。前方が壁で塞がれている。
「行き止まり?」
首を傾げるタリア。ユーゼは壁に嵌めこまれた赤いブロックを一つ一つじっと眺め、その内の一つに手を伸ばす。
「ユーゼさん!」
タリアが驚きの声を上げる、その間に壁が崩れ落ちた。
「こういうんは、ナッちゃんの得意分野なんやけどなぁ」
今はいない相棒に想いを馳せながら、ユーゼは瓦礫を跨いだ。
「とりあえず、この先が・・」
くいっと、眼鏡を押し上げ、ユーゼが先を示す。開けた空間に出た。
続いて部屋に入り込んだ一行は、縮めていた体を伸ばした。ただケインだけが、じっと瓦礫を見つめている。
「どうかしたの、ケイン君?」
それに気付いたキィロが問うと、首を振って顔を上げた。
「何でもねーよ。それで? まさかここで終わりじゃねぇだろうな、ユーゼ」
通路と変わらぬレンガ造りの広間。ドアもなく当然窓もない。一見するだけではここで行き止まりに見えた。
「さぁなぁ。この前来たときはここで、襲われたんや。調べる前に・・」
「ユーゼ」
その声に、全員がはっと振り向く。タリアだけが知らない声だった。
部屋の一角、そこに忽然と開いた穴の傍らに、小柄な人影。赤みがかった黒髪を耳の高さに揃え、大きな瞳と独特の傷一つない軽装に身を包んだ、それは。
「ナ・・ット?」
茫然自失で呟きユーゼは慌てて駆け寄る。
「ユーゼ」
ようやく再会できた相棒を、抱きしめようと、近寄り。
触れる、その瞬間。
キィロが地を蹴り、ユーゼを抱えて転がる、と同時に腰のホルスターから抜いた銃をケインが一発放った。弾丸は正確にその額に命中した。飛び散る真紅。
「ケイン!」
怒鳴り、起き上がろうとしたユーゼをキィロが宥める。
「落ちついて、よく見て」
「消え、た・・」
事態を見守ることしかできなかったタリアが呆然と呟く。その横でリョウも歯を噛み締めた。
ナットがいたはずの、そしてその体が崩れ落ちるべき場所には目も覚めるような赤い、血溜まりだけが残されている。
キィロを振り払いそれを見たユーゼは、きっとケインを睨んだ。
「『見た』んか? それで・・」
「撃たなきゃお前が死んでたぜ」
「もしも! もしもあれが本当に・・」
「ユーゼ君。落ちついて考えてよ。あのナット君には傷一つなかったじゃない? 妖魔に襲われて、無傷で逃げ回れるものじゃないよ」
だからこそ、キィロもそう判断したのだ。それでも、納得はできない。
「なぁケイン。ずっと聞きたかったんやけどな」
ユーゼはキィロの制止を意に介さずケインに詰め寄った。襟を掴み上げる。ケインは抵抗しなかった。
とっさに止めに入ろうとしたタリアはリョウに腕を掴まれ。
「お前、本当はここに妖魔が出ること、分かってたんと違うか?」
ユーゼの濃紺の瞳が、まっすぐに、ケインのそれを射抜く。
「お前の能力があればわざわざ下見なんかいらんやろ。それなのに、オレらをここに向かわせたんは・・」
その先は、言えなかった。それが事実ならば。自分が、何をするか分からない。
随分と、時間の流れが遅く感じられた。
「限界が、ある」
ぽつりとケインが、言う。
「この力は、一日に二度が限度だ。そう、便利なものでもない」
平坦な口調ではあった、が、その中には苦汁が滲んでいる。
ケインが持つ、もう一つの力。それは千理眼と呼ばれている。
大陸でも片手で足りる程しか存在しないその能力は、見えないものを見とおし、理を知る力。それは時の流れであったり、遠くの光景であったり様々だが、能力が使用される間は目が虹彩を放つことだけが同じだ。ケインは千理眼の先天的な保持者だった。
しかしその能力は酷く不安定で、多大なる精神力を要求する。
「で、今使っちまったからな。今日はもう打ち止めだ」
「そしたら・・」
それが真実か否か、分からないにせよ。ユーゼにはもうそれ以上問い詰める気はなかった。
「そうやな。ナッちゃんなら、静歌連れてないのはおかしいか」
「しずか?」
険悪な空気がようやく収まることにほっとしつつ、タリアは首を傾げた。
「とってもラブリーでプリティーな子やで。口ではあの可愛らしさ説明できひんわ」
ユーゼはわずかに相好を崩し、軽い声で言う。
キィロが複雑そうに顔を歪めた。
「ケイン、打ち止めって、今ので一回だろ? 何でだよ」
もっともな質問に、けれどケインは答えようとはせず、血溜まりに向かって歩き出す。正確にはその横、床に開いた穴に。
「その話は後だ。それより、階段があるぜ。せっかく道を教えてくれたんだ、さっさと先に進むぞ」
「そうやな。今度こそ、本物のナッちゃんと感動の抱擁をせんと」
衝撃がまだ残っているのだろう。台詞の割に、顔と口調は真剣だ。
ユーゼが先に立ち、他の四人も続く。ちらりと、キィロは床の真紅を流し見た。
3
階段を降りきると、先ほどと同等の広さの部屋に出た。
だが雰囲気は随分異なっている。
装飾を施された柱。灰色の壁に埋め込まれたレリーフ。そして、中央に鎮座する真紅の女性像。
「何か、遺跡って感じですね」
幼い頃冒険小説を読みながら思い浮かべた光景とそれは瓜二つだ。
「けど、また行き止まりかよ」
剣を担ぎ直し、リョウがぼやく。
「やっぱり、そう簡単にはいかないんだねぇ」
苦笑いを浮かべ、像に寄りかかるキィロ。ずるっとその体がよろめいた。
支えとなるべき像が押されるまま、動いたことで。
地響きと共に、一方の壁に突然現れた扉が開かれた。その先には通路が続いているらしい。
「意外と簡単なのかも、ね」
「罠がなくてよかったわぁ」
目を瞬かせていたキィロは、ユーゼのしみじみとした言葉に頬を引き攣らせながら「オレってラ、ラッキー?」などと呟いていたが。
「まぁ。すぐに分かって良かったじゃねーか」
気を取り直して歩を進めようとしたリョウの耳に、かすかな声が届く。
それは通路の奥から響く、そして近づいてくる、地鳴り。
「シードさん?」
訝しげなタリアの呼びかけにリョウは叫んだ。
「避けろ!!」
言いながら、タリアを引っ張って横に飛ぶ。
すぐ脇を、目で追えない速度で何かが横切っていく。その何かは像に直撃し、それを粉々に打ち砕くことで、止まった。
「みんなは!?」
周りを見まわすタリア。全員、無事であるらしい。立ち上がり、砂埃の中央に視線を注いでいる。
呻き声が聞こえた。その声に、ユーゼが身じろぐ。
「ナッちゃん?」
先刻の件もあってか、警戒は怠らずに近づいたユーゼの目に、見慣れた相棒の、傷だらけの姿が映った。
「ナッちゃん!」
「ユー、ゼ? あいつが、まだ・・」
自分を抱き起こすユーゼにしがみつき、震える指先で、何かを示そうと。
「上だ!」
ケインが叫んだ。ユーゼも上を見上げる。天井に、赤黒い染みが広がっていた。いや、それは染みではなく。徐々に立体的に、膨れ上がり。獣の影を型造り、そして。
かつては像のあったその場所に、落下しようと。
「はぁ!」
その瞬間キィロが床を蹴り上げ、ナットを庇うユーゼの真上に迫った影に、回し蹴りを食らわす。影は弾き飛ばされ、今度は柱に纏わりついた。
「ふぅ」
すたんと地に降り、鉄鋼仕込みの特製厚底ブーツを鳴らすキィロ。
「何だ、ありゃ・・」
両手で剣を構えるリョウ。
「タリア! ユーゼとナット連れて、隅に避難してろ」
「え、でも・・」
銃を抜き指示を飛ばすケインに、タリアは一瞬躊躇うが、すぐにユーゼの元に向かった。
「すまんな。治療中はそれでいっぱいになるさかい、ガード頼むわ」
「はい!」
タリアはぐったりしているナットを抱え上げると、部屋の片隅に移動する。そして腕の中の小柄な体をユーゼに引き渡し、自身は槍を取り出した。
柱に取りついた影は様子を窺うように蠢いている。
その間に、三人が間合いを詰めた。リョウとキィロが前に立ち、その後ろから、ケインが銃で狙いを定める。
不意に、影が動く。再び獣の形で、目を見開いた。
紫の、一つ目。
「妖獣、か」
妖魔の僕として生み出された、害意と悪意の化身。
その目は、激しい怒りと暗い愉悦に燃えている。
影はキィロに飛び掛った。黒い爪が空を裂く。ギリギリでかわしたキィロは無防備な腹に蹴りを入れ、離れた影にリョウが斬りかかる。
キィイン、と、硬質な音を立てて剣は爪に弾かれた。だがその衝撃で、影は後ろに飛び退る。その額に間髪入れず二発の弾丸が撃ち込まれた。
弾は正確に、影を貫いた、その筈だったが。影は霧散し、またすぐに形を取り戻す。
「ありゃ。一気に決めなきゃダメかな、これは」
「みたいだな」
影が、実体を持っているうちに。逃げる暇を与えずに。
「お前等、少し時間稼げ」
そうケインが告げたときにはもう、二人は動き出している。
キィロの蹴りと、リョウの剣が、息継ぐ間もなく次々に繰り出されるその傍らで、ケインは銃を下ろし代わりに左手を高く掲げる。
「『火球』」
呪を唱えると、召還契約の紋様が刻み込まれている人差し指の爪が赤く光り、周りに幾つかの火の玉が生まれた。
「『風刃』」
今度は指の先に、青い光が灯り。小型の鎌鼬が宙を舞う。
「どけ!」
パチン、と指を鳴らしながら、ケインは叫んだ。
キィロとリョウがばっと退く。
火の玉が影に襲いかかり、同時に鎌鼬が火の玉ごと、影を切り裂いていく。
それはさながら、躍るように。影はその身を削られていく。
「『終焉の円舞曲』」
小さく、呟くと同時に獣の影が爆ぜた。
「相変わらず派手だな」
火球にかすって焦げた前髪を気にしながら、呆れた素振りで焼け跡に目をやったリョウは。
とっさに叫ぶことしかできない。
「タリア!」
影の小さな切れ端が、ボールのように丸まって、勢い良くタリアたちの方へ飛んでいった。
4
三人の戦いを目で追いながら、背後にも意識を傾ける。槍をギュッと握り締め。
「ユーゼさん、ナットさんの具合は?」
ちらりと見ただけだが、随分と傷つき疲れ果てていた。
「あかんな・・傷が深いわ。こんな時、静歌ちゃんがおったら」
服を破り容態を検めていたユーゼが、悲壮な声で呟く。
ゲロゲロ。
答えるように、奇妙な泣き声がした。
「静歌ちゃん!」
ナットの服の中から、ぴょこんと飛び出してきたのは、水色に黄色い斑点を持つ蛙だった。
思わず振りかえったタリアは呆気に取られる。
「そか。ずっとナッちゃんとおったんやな。これで傷が治せるわ」
「あの、ユーゼさん・・それ」
「まぁ見とき。静歌ちゃんの本領発揮」
言うと、ユーゼは真剣な面持ちでナットの傷口に手をかざす。獣の爪で切り裂かれたのか、深い裂傷が胸を走っている。
「『癒しの雫』」
蛙から水色の光が放たれた。ふわりと、その光がナットの体を包み込む。
「精霊、ですか?」
「そや。静歌ちゃんは水の精霊。で、オレはそのマスターやな」
光がすうっと傷を撫でると、瞬く間に塞がっていく。傷一つないきれいな肌に。
「すごい、ですね・・」
その光景につい見入ってしまったタリアは、気の抜けた声を漏らした。ユーゼが苦笑する。
「傷口が塞がっても、痛みは残るし奪われた体力もちょっと回復する程度や。万能には程遠い。だから、過信はあかんよ、タリア」
じっと、上目遣いに自分を見るユーゼに、タリアは深く頷いた。それはとても、魅力的な力だったけれど。
恐れをなくしたら、戦闘では生き残れないと、以前ケインが言っていたのを思い出す。
「タリア!」
リョウの叫び声が聞こえた。振りかえる。眼前に迫る小さな影。
怖いと。そう思った。死にたくない。だから。
反射的に槍を突き出す。先端の刃が正確に影の中心を貫いた。
影がもがき、晴れる。一瞬見えた紫は宙に掻き消えた。
ふぅ、と胸を撫で下ろし、周りを見渡した。リョウとケインが駆けつけてくる。キィロは物珍しげに焼け跡を見ていた。
「戦闘中に余所見はするな、まったく」
顔を顰めて、けれどどこかほっとした口調でケインが言う。
「ホント、心配させやがって」
「すみません」
心配そうなリョウに、タリアは恥ずかしそうに笑った。
「ナッちゃんはどう?」
とことこと、駆け寄ってきたキィロがユーゼの傍らにしゃがみ込んだ。
「とりあえず傷は塞がっとる」
「起こしてみる? 今は休ませてあげたほうが、いいんだろうけど」
キィロは腰のポーチから半透明の小瓶を取り出す。目で問うユーゼに、「薬草を煎じたものだよ」とナットの口元に運ぶ。
とろっとした緑色の液体がナットの口に注がれた。反射で、こくりと咽が動く。
その衰弱した様子に、リョウがぽつりと漏らした。
「あの魔獣に追われてたってことか?」
「多分ね。で、どうするの? 一回戻った方がよくない?」
「そやな。この先もさっきみたいな仕掛けがあるとして、見つけたり解除したりはオレには無理や。ナッちゃんの得意分野やしな」
二人に上目遣いに促され、ケインは大げさに溜息をついた。
「まぁいい。足手まとい連れて奥へ進むのはただの無謀だしな」
無愛想な言葉に、かすかに心配が透けて見えて、リョウはそっと笑みを浮かべた。
昔から、ケインにはそういうところがある。自分の感情の揺れを見せることを、恥ずかしがる、冷静を装っていても、実際はひどく感情的だ。
付き合いの長いこの場の連中は、全員気付いているだろうに、装うことはやめない。
全員が、ほっとした空気に包まれた、その時。
おいで。
声が聞こえた気がして、タリアは辺りを見回した。高く柔らかい、女の声に聞こえた。
おいで。
ぞくりと、背筋が震える。
おいで。
どこか、懐かしい・・?
「タリア?」
地上に戻るため、階段へ歩き出していたリョウが、動かないタリアに気付き、怪訝そうな声を上げる。ナットを背負っていたユーゼと、それを支えていたキィロが振りかえる。
ケインは。そのタリアのさらに後方。何もなかった筈の壁を、じっと見つめた。空間が、揺れる。徐々に現れる、真紅。
全員がその存在に気付いた。
それは真紅の衣に身を包み、長く艶やかな黒髪をなびかせ、真っ赤な唇を歪めにぃと笑う。どことなくタリアと似た白い容貌。その中心に、妖魔の確たる証。紫の。深く暗く、透き通る双眼が。
真っ直ぐに、タリアの体を射抜く。ふらりと、タリアが動いた。
「おい!」
頼りない足取りで妖魔に、近寄っていく。とっさに肩を掴んだリョウの手は、信じられないほど強い力で振り払われた。
明らかな拒絶。
「タリア?」
「ちっ」
パンパンパンッ。
舌打ちし、ケインが三発立て続けに撃ちこむ。しかし弾は妖魔の眼前で、ありえない方向に逸らされてしまった。
「無駄だ。お前たちは、私に傷一つ負わせることはできない」
全く感情を含まない、ただ悪意だけがにじみ出る声が、空気を震わせる。
「さぁ来い。シルヴァルフェ」
妖魔がすっと、手を差し出す。タリアへと。
導かれるまま、操られてでもいるように歩くタリア。
妖魔は手の甲に、すっと長い爪で傷をつける。血が滲んだ。その血が一滴床に落ちる。そこから、瞬く間に赤い、閃光が走った。
タリアを止めようと再び伸ばされたリョウの腕が、すぱっと切れた。
「つぅ・・!」
痛みに思わず手を戻してしまったリョウは、その場に蹲る。キィロが駆けつけ、手早く止血する。ユーゼはナットを抱えたまま、じっと動向を窺っていた。
刃のように鋭利な光の壁が、妖魔と、そしてタリアの周りをぐるりと取り囲んでいた。
「お前は、何が目的だ?」
ケインの低い問いかけに、妖魔はつまらなそうに答える。
「我が名はヴァローゼ。鮮血の盟主にして王たる真紅。下賎なる者たちよ。我が目的はただ一つ。銀狼だ」
「ふざけんな! ギンロウだか何だかしらねぇが、そいつにゃ関係ねーだろが!?」
怒りに任せて叫ぶリョウ。ケインは忌々しげに、ヴァローゼを睨みつける。
タリアが、妖魔の元にたどり着いた。
「無知は愚者の特権ではあるな」
「ふざけんな!」
リョウが壁に切りかかろうと剣を振り上げる。その隙をついてキィロは足を払って蹴倒し、叫んだ。
「『マインド・クローズ!』」
グローブに隠された右手の甲が、一瞬光り。タリアの体が崩れ落ちた。
文句を言おうと口をあけたリョウも、召還魔法の準備にかかっていたケインも、後ろで見ていたユーゼも。そしてヴァローゼまでもが呆然と、空気に呑まれていた。
「よく、分からないのはオレも同じだけど、ね」
キィロは肩を竦め苦笑い。
「その子の意識は今完全に閉ざされてる。無理にこじ開けようとすれば壊れるよ? それが解けるのはオレだけで、オレが死んだら永遠にそのまま」
キィロの赤い目と、ヴァローゼの紫の瞳が。一瞬交錯して、離れる。
「私は自分の獲物を逃がすほど、甘くはない」
「だから、今は、逃がしてよ。言っとくけど、オレは操られるくらいなら舌噛むよ?」
重たい沈黙。
ヴァローゼが口を開くまで、随分と長く感じた。
「まぁいい。機会はいくらでもある。せいぜい足掻くことだ、でき損ないが」
嘲るように笑い、妖魔の姿が掻き消えた。その途端、へなへなとキィロの体が崩れ落ちる。タリアの元に駆け出そうとしていたリョウは、キィロに服の裾を掴まれつんのめった。
「おい!」
「ごっめーん。気が抜けちゃってさ」
「いいから放せよ!」
「ひどいなぁ、頑張ったのに。腰抜けて立てないんだ。起こして?」
可愛い子ぶって差し出した手は、ぱしりとつれなくはたかれ、キィロは仕方なく立ち上がって、ユーゼのところに戻る。
リョウは、既にタリアの傍らに屈みこんでいるケインの反対側から、覗きこんだ。
ケインが触れてみるが、ぴくりとも反応はない。だが、呼吸は穏やかで脈拍も正常だ。
「眠っているようなものか」
ケインが呟く。
「ちゃんと、起きるんだよな?」
「さぁな。とにかく、急いでここを出るぞ」
二人でタリアの体を抱えあげる。ナットとは逆に大柄の、それも意識を失った体は重かったが、それが失われずにすんだことに、リョウは胸を撫で下ろす。
「早くー! こっちこっち」
階段の下で、キィロが手を振っている。
ケインは通路の先に一度目を向け、足を速めた。
闇の中。
吐息。
ほんのわずかな寂寥と。
目も眩みそうな絶望に。
空気が澱む、闇の中。
「残念ね」
感慨もなく、彼女は。
その時を待っていた。




