第?章『???』幕間「出会いと別れ」
彼が最初にその男と出会った時、男は汚れた地面の上に大の字になって倒れていた。
頬が腫れていて、目の周りは青アザが出来、服はところどころ破れ、明らかに追い剥ぎに遭った後だった。
彼はそれを確認して興味を無くす。既に金目の物を盗られた後なら用はない。
そのまま立ち去ろうとした彼の足首が突然掴まれた。
ギョッとして見下ろすと、息も絶え絶えな男が腫れ上がった目で自分を見ている。
離せと蹴り飛ばそうとした彼の前に、手が差し出された。その手のひらに乗るのは、貴重な金貨が一枚。
彼は困惑する。暴力を振るう前から何故金を出されたのか。
暴漢と間違われたのかと思ったが、男は荒い息遣いでおかしな事を言ってきた。
「お腹、空いてるでしょう? これで何か買っておいで」
確かに空腹だった。そのせいで幻覚を見、空耳を聞いたのかと思った。
その金貨があれば、一月は食うに困らない。彼はその金貨に直接見たのも初めてだった。
蹴り飛ばすのも忘れ、ただ困惑を極める彼の手にそっと金貨を握らせ、男はヨロヨロと立ち上がる。笑顔を浮かべる。
「じゃあ、またね」
彼の住む世界に「またね」はない。
別れたら、別れたっきりだ。
よろけながら消えていく背中を、彼は呆然と見送り・・これは白昼夢だと判断した。
手のひらの金貨は確かな温もりを伝えているけれど、こんな幸運が己に訪れる筈がないと、彼は頑なに信じ込んでいた。
彼がそれを夢ではなかったと知るのは、その数年後だ。
彼は少し大きくなったけれど、毎日空腹でガリガリだった。金貨はお守りのように肌身離さず身に付けていて、食料は毎日死に物狂いで労働した結果、ほんの僅かに与えられるだけだった。
男はきらびやかな衣装に身を包んだ集団の中にいた。時折「視察」と称して、貴い身分の者達がやってくる。貴い身分の者達は、そこに住む卑しい身分の者達を蔑み、憐れみ、己が地位に安堵を得て帰っていく。
彼には通り過ぎるだけの、関わりの無い存在。
だから最初は気付かなかった。
何度も声を掛けられていたようだが、俯いて翌日の仕事について考えていた彼は、肩を叩かれようやく顔を上げた。
「ひさしぶりだね」
快活な笑顔を浮かべる男が、あの時の金貨の男だと分かったのは、鮮やかに輝く黄色の髪のおかげだ。
あの時とは違う上等な服で、腫れていない顔は一般的に見て精悍な部類だろう。
貴人に声を掛けられた彼に、奇異の視線が集まる。彼はカッと羞恥に頬が赤くなるのを感じた。
それを見て、男は何を思ったかより馴れ馴れしく近づいてくる。
「もう一度会いたいと思ってた! ずっと探していたんだよ。嬉しいな、僕は本当にラッキーだ! ねぇ、君名前は何て言うの? どこに住んでる?」
矢継ぎ早に捲し立てる男に、彼はだんだん憤りを感じ始めた。
こんな風に貴人に親しげにされたら、彼は疎遠にされるか、タカりに遭うかどちらかしかない。全く身に覚えもないのに、金を持っていると勘違いされるからだ。
視界の端で今の雇い主が忌まわしげに舌打ちするのを見て、食い扶持が無くなったのを知り、余りの不運に彼は目の前の男を睨み付けた。
「家なんかない。名前もない」
「え? そ、そうなの? じゃあ僕が」
「何をしている、キェラザード!?」
鋭い叱責に男が振り返る。
傲慢を体現したような真紅の髪の貴人が、男の腕を掴み引っ張っていった。
「貴様は王族としての自覚があるのか!? あんな卑しい者に触れるなど」
「卑しくなんかないよ。それより・・ちょ、待って!」
これ以上その場にはいられなくて、彼は背中にかかる声を無視して駆け出した。行く宛はない。ないけれど、肩に掴む手のひらの熱が、無性に息苦し感じた。
三度目はすぐに訪れた。
仕事を無くし、やっかみによる不当な暴力から逃げ回って、薄暗い建物の隙間、ゴミが散らばる陰で体を休めていた時だ。
「みーつけた」
突然の声に体がビクンと硬直する。見つかってしまえば、後は暴力に晒されるだけ。痛いのは嫌いだが、逆らってもより痛みが増すだけだ。
しかし、体を丸めて震える彼に与えられたのは、優しい抱擁だった。
「ッ!?」
「ごめんね。僕が考えなしに声をかけたせいで、君の居場所を無くしてしまったみたいだ」
恐る恐る顔を上げると、あの黄色い髪の男の微笑みがあり、彼は目を丸くする。
「な、何で・・?」
「え?」
「何で、いるの」
「君に会いたかったから。初めて会った時から、何故だろう? すごく心を惹かれたんだ。ようやく会えたと思ったら嬉しくて我慢出来なかった。一生分の幸運を使った気分だったよ」
「・・意味が分からない。オレは醜くて、貧しい、薄汚れてる。アンタみたいに高貴でキレイな人が近付いちゃいけない」
「哀しい事を言わないでくれ。君は汚れてなんかいない。真っ白な髪も、肌も、とてもキレイだよ」
彼の髪は色がなくパサパサで、肌は荒れてソバカスまみれだ。訝しげな視線に、男は哀しげに笑う。
「本当だよ。君はキレイだ。僕の方がよっぽど・・」
伏せられた瞳が今にも泣きそうで、彼は自分が傷付けたのかと申し訳なく思い、そっと手を伸ばした。けれど触れるのに躊躇う指を、男がキュッと握る。
「どうか一緒に来て欲しい。君の側にいたいんだ」
彼は考える。
この男が何故こんな事を言うのかはやはり分からないけれど、今この場所に彼の居場所がないのは事実だ。
待っているのは空腹による餓死か、延々と続く暴力か。
彼は死にたくなかったし、痛いのもイヤだった。
だから、頷いた。
「本当に!?ありがとう、嬉しいよ!!」
男は痩せた体を抱き締める。
「そうだ、名前! 僕はキェラザード。君は、名前がないと言ったけれど・・君を探す為に、色んな人に聞いたんだ。皆は君をミザーフォルと呼んでいたよ」
「みんなはそう呼ぶ。名前かどうかは知らない」
「僕も、そう呼んでいいかな?」
「好きにすればいい」
「ありがとう、ミザーフォル!」
また抱き締められた。
その温かな腕の中で、彼は不思議な気分を味わっていた。
ミザーフォルはこの辺りで使われるスラングで、「みすぼらしい」という意味だ。誰もが彼を蔑み嘲笑う為この名で呼んだ。
けれど男はとても大事なモノを呼ぶようにその名を呼ぶのだ。くすぐったいような、奇妙な気持ちが胸に宿る。
「君に会えて、僕は本当にラッキーだよ。ミザーフォル」
返事が出来なくて、彼はただ俯いた。
この出会いを幸運と呼ぶのか、不運と呼ぶのか。
二人の出会いは確かに、絶望にまみれた世界に差した一筋の光であったが、希望と呼ぶには儚く、そしてあまりにも脆かった。
彼が招かれたのは、その世界で王宮と呼ばれる場所だった。
人々の頂点に立つ王と、その係累が住む。
男は次代の王と目されていたが、王族としては異端の平等主義者で、プライドの高い従兄や他の親族、家臣達にまで疎まれていた。
男の理解者は、彼だけだった。卑しい身分であった彼の庇護者もまた、男だけだった。
男は四六時中彼に付き添い、様々な事を教えてくれた。
文字や計算といった学問のことから、この世界の成り立ちまで。
彼の婚約者だという姫君が、嫉妬を抱く程に、二人は常に共に在った。
彼は色々な事を学んだが、一番好きなのは男の夢物語を聞く事だった。
この世界には小さな亀裂がある。その隙間から、別の世界が見えるのだ。
世界は複雑に絡み合い、重なり合っている。
その別の世界は、身分もなく、差別もなく、誰もが平等に、幸せに暮らしている。男はこの世界でもそれを実現し、いつかは世界を超えて手を取り合いたいと語った。
彼は学がなかったが聡明だったので、それがどれだけ難しく、有り得ない話かはすぐに悟った。
現に、自分が王宮にいる今も、彼が生まれた場所には貧困と暴力が渦巻いている。
だが、彼はそれを責めなかった。
男が地位の割りに権力を持たない事も、全てを背負う程無謀でない事も、何より彼を側に置くことで満たされている事も分かっていたから。
そうこうする内に亀裂は大きくなり、別世界に紛れ込む者が増えた。別世界に落ちると自我をなくし、人の命を奪うことしか考えない化け物になる。
だが、亀裂を広げ、歪める力は、この世界の一部の者に特別な力を与えもした。
血を操る力。
悪夢を操る力。
その力をより強める力。
男は力に目覚めた。
希望を見せる力。
彼も力に目覚めた。
幸運を引き寄せる力。
それらは一目置かれる程強大な力だったが、二人はその危うさにも気付いていたので、それを振るう機会もないまま、突然その日は訪れた。
場所は確か王宮の中庭だったか。男は従兄に糾弾されていた。
男の背中には彼がいて、婚約者の姫君は男を庇いながら彼を忌々しげにねめつける。
いつもの風景。聞き馴れた罵声だ。
唯一異なったのは、その風景が一瞬にして大きく歪んだこと。
肥大化する亀裂が、ついに王宮まで及んだのだ。
視界がグニャリとマーブル模様を描き、強烈な衝動で弾き飛ばされた。
姫君の悲鳴を聞きながら、彼は落ちる。落ちる。墜ちる。
真っ暗な真っ白な空洞にまっ逆さま。
怖いと、心から感じた。
彼はいつだって生きていたかった。死にたくなかった。
その生が脅かされる恐怖。恐怖すら奪い尽くす絶対歪曲。
助けを求めることも出来ず落ちていく彼に、鮮烈に届いた声。
「ミザーフォル!!」
それは希望だった。鮮やかな黄色が彼を捕らえ、抱き締める。
絶望の中希望は華やかに艶やかに輝き、絶望の色を濃くしていく。
ただ触れ合ったまま落ちていくのは変わらないのに。
「キィロ・・」
何故だが幸せを感じて、初めて呼んだ愛称に、男は微笑んだようだったが、もう視覚も聴覚も正常ではなく、手足が融け合って、思考が溶け合って、心が解け合った。
そしたらもう、堕ちるだけ。
彼らの一生からしたら、取るに足らない一瞬の、出会いと別れ。
「それなのにまだ、忘れることも出来ない。不様だよね・・ミザーフォル」