おはよう
最近時々起こることの話。
私は人を愛することが苦手で、どうにも自分の思い通りにいかないことが多い。
女性と食事に行ったり、どこかへ遊びに行ってもそれほど面白くない。
自分の中の何がそうさせるのかと考えても何も思い当たることはない。生来の性格なのか、それとも先祖代々の呪いなのか、昔は思い悩んだこともあったが、今はそれほ苦悩することもない。今では多くの人がその病にかかっているようだ。
人を愛することが苦手だからと言って、恋を知らないわけではない。大学の時好きだった女性は今も元気にしているだろうかと時々思い出す。
とても色が白かった彼女は、初対面の私にもとても親切で、初めて会った講義で私に明るい笑顔を見せてくれた。たぶんその日から私は彼女を好きになったと思うのだが、私はそう認めたくなかった。彼女は遠い、憧れのような存在だった。
私は講義で会うたびに彼女に話しかけた。ただ声をかけるだけで十分だったのだ。それで私の心臓は高鳴って、思考は止まり、視界は白くなった。周りの人間は恐らく私を笑っていただろうと思う。しかし、私は彼女に声をかけることをやめなかった。彼女が嫌な顔をしたらやめようと思っていたが、彼女はただ笑ってくれていた。
大学を卒業してから彼女に会ったことはない。時々思い出すだけだ。
「おはよう」
彼女の笑顔を思い出す。私は格好をつけて、なるべくぶっきらぼうに彼女と話し始める。
「おはよう」
彼女の笑顔を思い出す。二言三言話しただけで私は彼女から離れていく。
「おはよう」
彼女の笑顔を思い出す。挨拶を交わしただけで、会話は続かない。
「おはよう」
「おはよう」
「おはよう」
細い眉が上がり、目を微かに煌めかせ、唇が少し開いたかと思うと、白い小粒の歯が見える。
彼女は笑っていた。しかし、私はその笑顔が怖くなっていた。途中から私は嫌われるために声をかけていたのだが、彼女は結局笑顔のままだった。怒るどころか不快な顔を見たことがない。それが怖かった。陰口をたたかれているとも思わなかった。もし陰口を言っていると思えたらどれほど私の心は安らいだろう。
「おはよう」
時々夢の中で現れる彼女はやはり笑顔で、どんなに酷いことを言っても、しても笑顔のままだった。
「おはよう」
夢の中で彼女が笑っている。
「おはよう」
日の光を浴びなくなって久しい私には眩しいほどの夢を見ている。
「おはよう」
彼女の顔が光と共に溶けて、ゆっくりと人の形を成さなくなってもまだ笑顔で私に返事をしてくれている。
「おはよう」
「おはよう」
「おはよう」
最近はよく眠れるようになったが、時々彼女の夢を見る。その時は昼と夜の境目は薄くなり、私の顔は青ざめ、目の隈が深くなる。
「おはよう」
ふと気が付くと彼女のいない虚空に向けて呟いている時がある。そんな時は目の前に彼女のようなものが現れて、笑顔を見せてくれる。唯一の違いといえば、肌や髪質が蝋のように濁っているくらいだろうか。
本物の彼女と同じように、それは笑顔なのだが、それほど恐怖を感じない。むしろ、その精気のない瞳に、安らぎさえ覚えている。
数日前に現れた時、私は偽物の彼女と三十分ほど話した後、深い眠りについた。
とても良く眠ることができた。