表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私的今昔奇談  作者: 神谷カラス
7/15

とても厭な雨の日

 二十年以上前、小学生の時の話。


 私の通っていた塾は個人経営で、その送り迎えは塾長がおこなっていた。それほど流行っているわけではなかったので、帰り道は塾長と二人きりで十五分ほど過ごすことになる。塾長は口数の多い方ではなかったので、私は黙って窓から見える光景を眺めることが多かった。


 その日は雨で、町そのものがどんよりと、沈んでいるような気がしていた。車の窓には無数の雨粒が張り付き、その粒たちが震えながらくっついて、徐々に加速度を増しながら細い雨の筋になった。

 私はそれを見るのが好きだった。


 信号で止まっている時、傘をさして歩いている女性の姿が見えた。これと言って特徴のない、普通の中年女性だった。しかし、この雨粒がついている窓から覗くと、外の世界は歪んで見える。小学生の私には、その女性が人でないものに見えた。


 一度世界に疑問を持ち始めると、そこから見える景色は全て疑わしくなった。多分、この車に乗っている自分だけが正常で、車の外にいる人達はもうマネキンにされてしまい、動いてはいるが魂は何か巨大なモノに食われてしまったのだ。そして、家に帰ると魂の無い母親がいつも通り自分を迎えてくれる。


 私は車の中でよくそういう妄想をしていた。


 「悪いけど、一人乗せなきゃいけない子がいるから、少し寄り道するね」


 暗い妄想をしていた私は、塾長の事などすっかり忘れていたので、はい、と小さな声で返事をするのがやっとだった。


 知らない子、男の子か女の子かはわからないが、人見知りの私にとって、それは大きなストレスだった。この閉ざされた空間に見知らぬ人間が入ってくるのは、どんな短い時間であっても苦痛でしかない。外を見てやり過ごそう、そう決めて、私は憂鬱な気分で再び窓と雨粒を眺めた。


 住宅街に入り道が狭くなったので、私はそろそろ塾長が言っていた子が乗って来ると思い緊張し始めた。自分でも明らかに呼吸が浅くなっていることに気がついていたが、どうすることもできない。そわそわとしているうちに、車が止まった。


 スライド式の車のドアが開くと、小さく華奢な男の子が見えた。


 「ごめんね、ちょっと時間を間違えて。この子を送ったらまた塾に行こう」


 塾長はその男の子に言った。この子とは私の事だろう。塾長は時間に正確な人間だと知っていたので、時間を間違えたというのには違和感があったが、そういうこともあるのかな、と思って私は考えるのをやめ、雨粒を見始めた。私には関係ない。


 「こんにちは」


 彼はいつの間にか最後尾、私の隣の座席に座っていた。


 「○○君だよ」


 塾長は彼について名前だけしか言わなかった。


 私は、うん、とか何か言葉を発したと思う。しかし顔すら向けることができない。情けない事に緊張で何も出て来なくなってしまったのだ。


 そんな私の事を察したのか、彼は私から少し距離を置き、反対側の窓を眺め始めた。私は助かったと思った。もうこのまま自分が降りるまで黙っていてほしい。


 「君は虫って好き?」


 彼は再び私に声をかけた。距離が少しできたことで、私に彼を見る余裕ができたようだ。ほっそりとした顔つきで色は白く、あまり健康そうには見えなかった。目は細く、唇も薄い。顔の筋肉が少ないのか、感情というものがあまり感じ取れない。


 「カブトムシとかクワガタが好きだよ」


 私は強いイメージのある虫が好きだったので、正直にそう答えた。


 「そうなんだ。僕も虫が好きでよく飼ってるんだけど、この間すごく悲しいことがあってね」


 彼は私の方を真っ直ぐに見ながら言った。時折目をそらしつつ、私はなんとか彼の話を聞く姿勢を保っている。


 「授業でさ、モンシロチョウの幼虫を育ててたんだ。みんな上手く育てられない中、二人ぐらいは成虫になったみたい。僕のはまだ幼虫でね。そこからサナギになって、チョウになるのがすごく楽しみだったんだ」


 表情はあまり変わっていなかったが、記憶をたどっている彼の目は少し明るかった。だが、その光もすぐに消えてしまった。


 「でもね、ある日黄色くて小さい虫が僕の育てた幼虫からうねうねしながら出てきたんだ。すごく怖くて。じーっと見ててももう幼虫は動かなくて。死んだんだ、と思った」


 その時の彼の顔はとても冷たい表情だった。


 「調べたら、黄色い虫は蜂の幼虫で、僕の見つけたチョウの幼虫はもう卵を産み付けられてたんだ。気持ち悪いから、僕は燃えるゴミに捨てちゃった。クラスの皆もあれを見てたのかな? 君はどう思う?」


 私はとても不快になった。そこで車は私の家の前に着いた。


 彼は、


 「じゃあね」


 と言った。


 私は頭を下げただけで、返事もせず、急いで車を降りた。

 それ以来彼に会うことも無かったが、思い出すと、あの当時のまま、とても厭な気分になる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ