白猫の夢
友人から聞いた話。
当時十七歳だった友人は進路を悩んでいたそうで、両親とぶつかる事も多く、彼の心の支えになってくれるのはペットの猫一匹だったいう。家庭がピリピリしていても、自室で猫と触れ合うと、厭な事を忘れる事ができたのだそうだ。
そんな友人が風邪をひいた時、夢を見た。
彼が夢の中で目覚めると、小さな木の舟で横になっていた。起き上がって周囲を見てみると川の真ん中をゆっくりと進んでいるようで、両岸に満開の桜が見えた。あまりにも美しかったので、死後の世界だと思ったらしい。
「ねぇ、ねぇ。君、A君でしょ?」
声のする方を見ると、猫がいた。真っ白な毛並みの美しい猫だ。目は茶色で吸い込まれそうなほど透き通っている。
「はい、そうです」
彼はその異常な状況をすんなりと受け入れる事が出来たようだ。夢だと分かったのである。それに、白猫の声があまりに落ち着いた、明らかに年上だと分かる声だったので、彼も落ち着いて丁寧に答えた。
「あぁ。よかった。やっと会えたわ」
その白猫は小さい前足で涙を拭った。
「私はあなたの本当の母親なの。ずっと、ずっと会いたかったけど事情があってね。言えなかったの」
「はぁ」
彼は気の抜けたような返事しかできなかったという。突然猫にそんな事を言われても感慨が湧くはずがなかった。
「そうよね、突然こんなことを言われても困るわよね……。あまり時間もないし、どうしようかしら……」
友人は困っている白猫をじっと観察していた。小さい前足を慌ただしく動かし、その声音とは違って落ち着きがない。何か焦っているのかもしれない、と思ったそうだ。
「どうして今、会いに来たんですか?」
友人は聞いてみた。こちら側から助け船を出さなければならない気がしたという。
「どうしてと言われると困るわね……。あなたと離れ離れになってからずっと会いたかったの。理由なんてないのよ、ただ会いたくて」
「何故今まで会いに来てくれなかったの?」
「私と、私の夫は事故に遭ってね、あなたを育てる事が出来なくなってしまったの。だから、従姉の、今のあなたのお母さんの所に預ける事になったのよ」
白猫はうつむいて、涙をこぼしている。この猫にとっては真実なのかもしれない。だが、夢の中の彼にとって、それは一夜で消える真実なのであって、猫の事を可愛そうだとは思ったが、とても自分の事とは思えなかった。
「近くへ行っていい?」
「はい」
白猫は、あぐらをかいている友人の膝の上にのった。猫が彼の顔めがけて前足を伸ばしたので、彼もその前足に顔を近づけた。柔らかい肉球が頬に触れ、小さく左右に揺れた。くすぐったかったが、不快な感じは全くなかったらしい。
「ありがとう、ありがとう」
そういって白猫はまた泣いた。もう彼はその白猫にかなり愛着が生まれていたので、猫を抱きしめようとした。
突然彼の視界が大きく傾いた。彼らが乗っていた小舟が大きく揺れたのだ。いつの間にか夜のように暗くなっており、両岸の桜も良く見えない。舟を形作る木材に水が入り込み、砂のように崩れ始めた。
「もう時間ね」
白猫は諦めるように言った。
「次に目が覚める時にはもう私はいないから。会ってくれてありがとうね」
白猫がそう言った瞬間、友人は急な睡魔に襲われたという。白猫と共に徐々に沈んでいく体は、痺れたように力が入らず、川の水に全てを託す他なかったという。
川面に頭が沈み込む瞬間、真っ黒な影が彼と白猫を強く引っ張った事に気付いた。すぐに彼の意識は途絶えたのだが、その黒い影には見覚えがあった。
夢を見た翌日、友人は両親から本当の親は別にいる事を伝えられた。彼の本当の両親は交通事故に遭い、父親は即死、母親は植物状態となってしまったという。生後二か月の友人は祖父母の家に預けられていたために無事だったという。それから彼は今の育ての親の養子になった。育ての親たちは彼が成人するタイミングで本当の親について話そうと思っていたらしいが、実の母親の容体が急に悪化したため、彼女が亡くなる前に会わせようという事になったそうだ。
彼は自室に戻り、白猫の夢を思い出していた。あの白猫は実の母親の魂だったのかもしれない、と思ったという。死を目前にして彼に会いに来たのであろう。しかし、あの白猫の口ぶりからすると、現実の世界で出会う事は諦めていたようにも思える。彼は窓からさす光の温かさに、うとうとしている黒猫を見た。あの時の黒い影が自分の飼い猫であることには目覚めた瞬間から気が付いていた。
すぐに彼は実の母親と会った。話すことはできなかったが、手を握る事は出来たらしい。
「その三日後に実の母親は旅立ったよ」
三十歳を超えた彼は、随分晴れやかにこの不思議な話を語ってくれた。
「当時は色々と揉めてて気が付かなかったけど、ウチの黒猫が本当の母親に会わせてくれたと思うんだよ。あの猫、普段は全く動かないグータラだけど、いざという時は役に立つみたいだな」
頭を撫でようとした彼の手をかわして、黒猫は庭に逃げていった。