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私的今昔奇談  作者: 神谷カラス
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いつもそばにいるよ

 三年前の話。


 私は不眠症というほどでもないが、寝ている途中で目が醒めてしまうことがたびたびあった。不規則な生活のせいだと諦めていたが、それが数か月以上も続くので流石に気になり始め、気にし始めること自体がまた私の就寝の邪魔をするという悪循環に陥っていた。

 生活習慣の改善はそれほど望めないだろうという諦めがあったので、私は特に対策も取らず、朦朧とした日々を送っていた。

 

 ある日、眠れないので動画を漁っていると、ASMR動画というのがおススメに現れた。「Autonomous Sensory Meridian Response(自律的感覚絶頂反応)」の略で視覚や聴覚から得られる快感のことをいうらしい。環境音や様々な道具、機器を駆使したものがあり、一括りにするのも気が引けるほど大きなジャンルであった。


 初めは気恥ずかしかったが、別に誰が見ているわけでもないし、見ていたとしても強がればいい。眠ることの方が、安心、安静、心の憩いの場を作る方がよほど大事なのだと言えばいい。強がれば強がるほど他人は私のことを弱いと思うだろうが、弱いのは事実である。そして、人は自分を守るべきである。


 三か月ほど経って、お気に入りの投稿者も数人出来たころ、それは起こった。


 いつものようにヘッドホンをして様々なASMRの癒しを堪能し、瞼を閉じ、眠りに着く寸前という所で、耳に何かが入るような気がして目が醒める。


 ヘッドホンを外して耳を確認しても別に何もないのだが、あの痒くなるような感覚が残っている。そろそろ髪を切りに行かなくてはと思った。確かに私の髪が耳の中に入ってしまっても不思議ではない。


 そのようなことが度々あったのだが。私はそれほど気にしていなかった。


 その日は会社が理不尽なほど忙しく、眩暈を感じるほどで、胸のあたりも気持ちが悪かった。家に帰って買いだめしてあるゼリーを一つ握りつぶして喉の奥に押し込む。食欲がなく、疲労している時はいつもこうで、何とかこれで栄養をとる。


 明日は休みだ。私はスーツを脱ぎ散らかしてベッドの中に潜りこみ、タブレット端末を起動してヘッドホンを装着した。


 これで別世界へ行ける。現実世界のできごとであるが、日常的な感覚は消えて、誰にも邪魔されることのない癒しの空間が待っている。私の空想はそこを憩いの場と認めている。その認識こそが重要なことだった。


 誰のどの動画を聞いていたか判然としないのだが、非常に良い気分で眠りにつくことができた。夢を見る暇もないほどの速度だった。


「いつもそばにいるよ」


 耳元でそう囁かれる。こそばゆい、しかし皮膚が痺れるような感覚。


 いつもならばそう言った幸福感で満たされるのだが、その日は違った。


 耳が痒い。小さい異物が入り込んで細かく振動し、敏感な耳の中を無礼にも踏み込まれたようなあの感覚。


 体の疲れが抜けきっていないので、手使わず、頭を少し揺らすだけでその不快感が消えるように願った。しかし、その願いも空しく不快感はどんどん増していく。


 指でゆっくりと耳の中を撫でられた気がした。


 背骨が震えて心臓が締め付けられる。


 私がヘッドホンを外そうと頭に両手を伸ばした時、柔らかく滑るような感覚と妙に甘ったるい香りが鼻の中に入ってくるのを感じた。


 明らかに私の髪の毛ではない。私の指の感覚はそう告げている。


「いつもそばにいるよ」


 からかうような、しかし慈愛のこもった声。それはわかるのだが、しかし。


 夢ならばいいのにと思ってずっと目を閉じていた。眠りにつければ勝ちなのだが、耳の奥、耳朶、それに凍り付いて動かせなくなった指。その感覚は私の脳をますます覚醒さてしまう。


「いつもそばにいるよ」


 右の耳元ではっきりと、女性の声が聞こえる。


 意を決して私は目を開けた。視界はほぼ長い髪の毛で遮られていたが、隙間から天井が見える。


 右側へゆっくりと首を回す。蜘蛛の糸のように、髪の毛がまとわりついた。


 私の顔の横に、女性の顔があった。横になっている私の顔と、垂直に女の首が置いてあるのが、髪の毛の隙間から見えた。


「いつもそばにいるよ」


 私は無茶苦茶に手足を振り回しながら狂ったように叫び声を上げた。


 数十秒で体力尽き、肩で息をしていると、ふわふわと浮かぶ生首がこちらをみている。


「いつもそばにいるよ、いつもそばにいるよ、いつもそばにいるよ‥‥‥」


 赤すぎる唇は媚びたような笑みを浮かべながらお気に入りの呪文を唱えている。


 私が茫然と無表情に見つめていると、彼女は急に真顔になり、長い髪の毛で器用に窓を開けて外へ出て行った。


 早朝の緑の空に揺れながら踊る生首は、子供の頃に見た風船の行く末のように消えてしまった。


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