川岸で
二十年以上前の話。
その年、親戚の家に行った日はとても暑かった事を記憶している。
小学生だった私は外出するのも億劫で、親戚の家に行くのを嫌がったが、ほとんど連れ去られるようにして、車に乗せられた。
大人になって気がついた事だが、実家から親戚の家まで車で一時間もかからない。二、三時間はかかっていると思っていたが、道中が退屈で仕方なかったため、時間が長く感じられたのだろう。
親戚の家にはこれと言って子供の喜ぶようなものはない。仏壇に線香を上げ、暑い中、家のすぐ傍にある墓地で墓参りをした後は食事をして、テレビを見るだけだ。反面、嫌なことはいくつかあって、一年に一度会うか会わないかの親戚たちと食事をするのは居心地があまりよくなかった。その頃から私は人見知りだったのだ。
翌日私は遊びに行ってくると言って、外に出た。面白いものなどそれほど無いのだが、近くに小さな神社と川があった。
私はまず神社に行ってみた。しかし、まばらに生える木々や、鳥居、社など、別段面白いものではない。今なら石に刻まれた碑文などを読むだろうが、子供だったので、しばらくぶらぶらした後川に向かった。
この川も大きくない。十メートル先には向こう岸が見える。
そこに生える雑草は子供の頃の私の腰ぐらいの高さだったから五、六十センチぐらいで、無秩序だが緑の濃い、生命力に満ちた立ち姿をしていた。
あまり雑草の生えていない所へ行き、しゃがんで少し手を伸ばすとすぐに川の水に触れることができた。真夏の暑さのためか、川の水もぬるい。しかし、流れる川の柔らかな感触は心地よかった。
私は川の水にしばらく触れていた。右手に飽きれば左手、左手に飽きれば右手というようにして、何の意味もない事を、ただぼんやりとして時間を過ごした。
「ねぇ、君危ないよ」
私が驚いて振り向くと、白いシャツにジーンズをはいた女性が立っていた。今思い浮かべると、高校生くらいだったのだろうか。当時の私には一つ上の女の子でさえお姉さんのように見えたのだから、声をかけてきた女の人はもう立派な大人だった。
私は立ち上がって、女性の方へ体を向けた。しかし顔は下を向いて黙ってしまった。私のような内気な子供が言い訳などできるはずがなく、注意されたことに対して顔を赤くすることが精一杯だった。
「本当に、危ないよ」
彼女は心配するような、叱るようななんとも言えない緊張した面持ちをしていた。今思えば彼女の方でもどんな顔をしていいかわからなかったのかもしれない。
ゆっくりと近づいてきた彼女はこちらに向けて手を出した。私はその手をとることをせず、逃げ出した。
「待って」
彼女がそう言ったのは聞こえていたが、私は無視して親戚の家に戻った。親に随分心配されたが、無理もない。洗面所で鏡に映る私は青白い顔をして息を肩でするぐらい呼吸を乱していたからである。
自分でも何故逃げ出したのかわからず、情けないやら彼女に申し訳ないやら様々な感情が渦巻き、食事中や布団のなかで落ち着かない時間を過ごすことになった。
翌日も暇だったので、もう一度川に向かった。もしかしたら彼女に会えるかもしれない、謝れるかもしれないと期待したが、彼女は現れなかった。
行くあてもないので、川の付近をぶらぶらと歩いていた。
通りに生えるどの植物の葉も強い日差しを跳ね返しながら輝き、生命力にあふれている。暑さで頭がぼんやりとしてきた私は日陰を求めて昨日も行った神社に入っていった。
その神社は人の気配が全くなかったので、私は悠々と歩き、木葉からわずかに漏れる光を手に移してみたり、さらさらと手からこぼれ落ちる砂で涼みながら時間を潰していた。
「また会ったね」
彼女はまた突然現れた。私の心臓は高鳴っていたが、昨日ほど動揺しているわけではない。
「ここ、涼しいでしょ?」
「すいませんでした」
「何が?」
「昨日、逃げて」
「別にいいよ。驚かせちゃったね。こっちこそごめん」
彼女は笑顔でそう言うと、手招きをして私を呼び寄せた。
「向こうにベンチがあるからそっちで話そうよ」
私はまた胸に刺すような痛みを感じた。あれは驚きだったのか、緊張だったのか。
断る事もできず、私は彼女に従って歩いた。白いシャツにジーンズ。昨日見た服装と変わらないが、
木陰で見る後ろ姿は、昨日と別人に見えた。人は前と後ろではまるで違う人間なのだと思う。
「君、この辺りの子じゃないよね?」
「はい。親戚の家に墓参りに」
「なるほど。何にも遊ぶものがないから川のあたりをふらふらしてたんだ」
「はい」
「昨日も言ったけど、あそこは危ないよ。何人も子供が流されたから」
「そうですか」
少し怖くなった。しかしもう昨日のことだ。二度と行かなければいい。
「あそこで亡くなった人が多いから、多分人を吸い寄せるんだね」
彼女はこちらを見ずに俯いている。白い肌には汗が光っている。大粒の汗は今にも滑り落ちそうになっていたが、中々動かなかった。
「私もね。幽霊なんだ」
急に振り向いた彼女は笑顔を見せ、大きな声で言った。汗は彼女の動きとともに頬から首筋、そして白いシャツに吸い込まれて消えた。
小さい私も彼女が冗談を言っているのだと気がついた。場が暗くなりすぎるのを嫌っているのだろう。
「そうなんだ」
小さい時の私には、女性の冗談に笑顔で気のきいた返事をすることなどできなかった。今でもできるのか怪しい。
「信じてないの? じゃあ、私、ここから消えてなくなるね」
私は頷いた。
「眼をつぶって。五つ数えたら眼を開けてね」
私は言われるがままに眼をつぶり、五つ数えた。
眼を開けてみると彼女はいない。辺りを見渡してもどこにもいない。
しばらくベンチに座っていたが、彼女は戻ってこなかった。不思議と怖くはなかった。その時、彼女は神社の神様だったのだ、と思うようにした。
この二十年の間、時々彼女の事を思い出した。そしてつい先日、父の遺品について相談するため、親戚の家に行った。
その話し合いも思ったより早く、夕方には済んだので、時間を持て余した私は近所をふらふらと歩いていた。頻繁に来ている訳ではないからそう思うのかもしれないが、町の様子は二十年前とそれほど変わっていないような気がする。
彼女と出会った川に着いた私は、コートに手を突っ込みながら、緩やかに揺れる川面を見つめつつ彼女の事を思い出していた。
ふと向こう岸を見ると、五歳くらいの女の子が川で遊んでいた。あの時の私のように、川の水に手をつけている。私はしばらく女の子を見つめていたが、特に変わった所はない。私がもう帰ろうと思った瞬間、女の子は足を滑らせて川に落ちた。
驚いた私が走り出した時、
「あの子はもう死んでるから、心配ないよ」
という聞いたことのある声が聞こえた。
川の中をのぞいたが、何もない。ただ川が静かに流れているだけだった。
私はしばらく川岸に佇んでいた。
彼女の言った通り、この川は私のような人間を吸い寄せているのかもしれない。そう思うと、彼女に二度も助けてもらった事になる。
彼女がいてもなお、この川で死人が多いのだろうか。