マスクと白い影
最近の話。
休日は家に籠っていたかったのだが、どうしても済ませなければならない手続きがあったので、私は電車に乗った。時節柄、普段面倒くさがってしないマスクをして出かけた。外は雨が降っていた。
手続きを済ませて帰りの電車に乗り、家から一番近い駅に着くころには深夜になっていた。人気のない暗い道を、安い透明な傘をさして歩いていく。静かで穏やかな夜だった。
マスクをしていると、隙間から漏れた呼気で眼鏡が曇る。眼鏡に張り付いた靄を拭うのも面倒だったので、私はそのまま歩いていた。
眼鏡と靄を通した世界は意外にも美しかった。等距離に並ぶ電灯の明かりはぼやけて、少しとげとげしい光が無数に重なって、柔らかい毛玉のように見えた。時々走っている車のテールランプやウインカーは赤い毛玉やオレンジの毛玉になって、とても奇麗だった。
目の前にハザードランプが灯っている車が止まっていた。その車を私は注意深く見ていた。私はその車を通りすぎた後、何度も振り返って、何か襲ってこないかを確認した。自意識過剰なのはわかっているが、もうこれは習慣だった。
その車を通りすぎて数分後、私は小さい川の近くを歩いていた。コンクリートで舗装された川岸は、昼には魚や亀を観察することができる。駅へ行くとき、私は必ずこの川を眺めながら歩く。しかし、その時は夜だったので、川の中まではさすがに見えない。不気味に生える草の影がシンと佇んでいた。
しかし、夜はその川で白い影を見ることができる。その正体は、なんのことはない、サギだ。その鳥は昔から幽霊と見間違われるようで、古い書物にもその記述がある。確かに鳴かず、動かないあの鳥の白い影を見れば、幽霊のような不気味さを感じても無理はない。私も初見はそうだった。慣れるにつれ、夜に川の近くを通る時はサギの姿を探すようになった。私はサギを探しながら歩いていた。眼鏡の靄を拭っていないのでまず見つからないだろうと思っていた。
後ろに気配があった。人ではないと思って、振り返った。サギがいると思ったのだ。見逃していただけかもしれない。
しかし、サギではなかった。その白い影はぼんやりと人の形をしているような気がした。私は一瞬混乱したが、素早い手つきで眼鏡の靄を拭ってから、目を凝らす。だが、その影はぼんやりとしたままだった。
軽い頭痛がした。寝不足で頭が変になったのだろうと思った。私はできるだけ反応せずに正面を向き、再び歩き始めた。
二、三回呼吸をしただけで私の眼鏡は曇ってきた。荒くなった呼吸を続けているうちにまた視界はぼやけてくる。
――どこかで見たことがある。
そう思った。驚きと頭痛はあったものの、嫌な感じはしない。私は今も後ろにいるであろう白い影を思い浮かべた。
小さい。小学生ぐらいだろうか、一瞬しか見えなかったが歩き方もヨタヨタとしていて頼りない感じだった。私は思い返す。恐らく寝不足と頭痛が起こした幻影だ。何か思い出せればきっとその影も消えるだろう。
私は記憶を辿りながら歩く。眼鏡が曇っているせいか、視界に余計なものが映らず考え事に集中できる。
私はもう一度振り返った。やはりヨタヨタと影がこちらに向かって歩いてくる。今度はこちらに向かって手を振っていた。
細かい雨粒が傘に落ちて鼓膜と脳を微かに揺らした。街灯の明かりが散乱して、あたりを照らす。足元はほとんど見えないが、歩き慣れた道だから迷いなく歩くことが出来る。
あの時は曇っていただろうか。記憶が徐々に現れてくる。昼間だ。私は友人と共に帰っていたのではなかったか。それで彼女を見て、そして見ないふりをしたのではなかったか。
川は雨のせいで微妙に揺れていいるように見えた。私の目が、視界が揺れていただけなのかもしれない。もう少しで思い出せそうだ。
彼女は泣いていた。忘れ物をしたのだと。皆にバカにされるからと。私は何度も彼女をなだめたのではなかったか。その後友人にからかわれた記憶もある。
前から車の明かりが近づいてきた。ハイビームだ。いつもならその眩しさに嫌気がさしているところだが、今は靄が私の目を守ってくれている。もう少し、もう少し。
私は振り返って彼女を見た。ヨタヨタと、こちらに手を振っている、笑顔だ。しかし、まだ輪郭ははっきりしていない。
彼女は転校生だった。兄弟と共に私の近所に移り住んできた。人から舐められやすい私だから、彼女とその兄弟たちはすぐに私をおもちゃのように扱った。呼び捨てにされたり、足を蹴られたりしたことが何度もあった。遊び相手とはとても言えない扱いだった。しかし、私も年長として、彼女達に寛容に接するよう心掛けた。そうするのが上級生の務めだと思ったから。
彼女はある日、忘れ物をしたから教室に入りたくないと言って泣いていた。私は隣の子に借りればいいと粘り強く説得した。転校したことのない私には、肩身の狭い思いをしていた彼女の苦しみなど全くわからなかったのだ。ただ、正論のようなことを言って、彼女を泣き止ませるというその場しのぎをしていただけだ。私は逃げたかっただけだ。
翌日、彼女にお礼を言われた。隣の子が鉛筆と消しゴムを貸してくれたと言って、満面の笑みを浮かべていた。相変わらずの呼び捨てだったので、私は特に喜びもせず、生返事をしたような気がする。あまり記憶にない。しかし、今思い返せば彼女は何かを乗り越えたのかもしれない。その気持ちを素直に私に伝えてくれていたのかもしれない。
私は小学校を卒業して、彼女と会うことがなくなった。彼女のことは全く忘れていた。
数か月後、私は友人と中学校から帰る途中、彼女に出会った。
彼女は私の名前を呼んで、手を振った。とてもいい笑顔だった。
私はそれを無視した。
私は震えが止まらなくなった。春の雨はそれほど冷たくなかったが、恐怖が、初めて白い影が怖いと思った。曇った眼鏡を拭い、振り返る。
白い影は、白い彼女は笑顔で、手を振りながらこちらへ近づいてくる。
多分、彼女は久しぶりに私に会えて嬉しかったのだ。だから、親しみの笑みを浮かべ、手まで振ってくれたのだ。なのに、なのに、私はそれを無視した。友人の前で恥ずかしかったのか、思春期で気持ちが腐っていたのかはわからないが、恐らく、彼女を傷つけた。とても深く。
私のすぐ目の前に立った彼女は立ち止まって私を見た。眼鏡が曇る。
震える指で、曇った眼鏡を拭く。彼女は消えていた。
バサッ
大きな音を立ててサギが飛び立った。もう一度眼鏡を拭いた時にはそのサギも見失ってしまった。