病室の、のっぺらぼう 著者:斎藤秋
瞼を開くと、私の目の前には面白みのかけらもない白い天井があった。
意識は、まるで夢の中のようにぼんやりしている。
そして、自分が誰なのかも思い出せないのだ。
目だけを動かして横を見ると、一人の女性が座っているのが見えた。
女性は、私が目が開けたことに気がついたのか嬉しそうに私の顔をのぞき込んだ。
「やっと、目が覚めたのね。何か覚えていることはある? 」
私には、女性の顔がのっぺらぼうに見えた。
彼女が誰であるのかまったく思い出せないのだ。
「何も覚えていない」、と口に出そうとしたが口が動かないので、私は首を横に振った。
「そう…… 何も覚えていないのね」
のっぺらぼうはとても悲しそうに言った。
それが私の、のっぺらぼうとの生活の始まりだった。
のっぺらぼうは、私が何も覚えていないというのに優しかった。
私が同じ立場に立たされたら、きっとすでに見捨てていて病院にも来ていないに違いない。
看護師が言うには、彼女は私が病院に担ぎ込まれた日から毎日来ていたらしい。そして、私が目覚める日を待っていたのだ。
私は薄情な人間だ。
彼女が、ここまで優しくしてくれるというのに彼女が誰なのか、私と彼女の関係はどんなものだったのか、そんなことさえ思い出せないのだ。
数日が経った今でも、彼女の顔が私にはのっぺらぼうに見える。
のっぺらぼうなんているはずがない。
私は夢を見ているのだと思った。これでとても曖昧な意識も説明がつく。
その夢の中で、のっぺらぼうは眼鏡を私に見せて語りかけた。
「これ、あなたの眼鏡よ。前の眼鏡は、あの事故で壊れてしまったから作ってもらったの
よ。それにね、見てね」
のっぺらぼうは、眼鏡のフレームを手で曲げて見せた。
「形状記憶フレームって言ってね。曲げても戻るのよ。これみたいに、あなたの記憶が戻
る日は必ずくるよ」
のっぺらぼうが、曲げて見せる眼鏡のフレームを私はただ見つめるしかできなかった。
その日、私は鮮明な夢を見た。夢の中で夢を見るとは不思議なものだが、なぜか私には
それが夢であることが、不思議とわかっていたのだ。
私は車を運転していた。
隣には、のっぺらぼうの彼女が座っていた。夢の中の私は、紙工会社の専務で福井県の取
引先の会社に向かっている所だった。本来は、一人でも良いのだが長距離を一人で運転する
のは寂しく、何かと理由をつけて事務員である彼女を同伴させていたのだ。
私の父親である社長は薄々とその理由に気づいていたようだったが、何も言わなかった。
私と彼女は恋人の関係にあったのだ。いわば、公然の秘密というものだ。
私の会社は、社員五〇人程度の小さな会社であることもあり、あっという間に知れ渡ってしまったのだ。
彼女も会社の事務所に詰めているだけの生活に飽き飽きしていたらしく、よく出張につ
いてきてくれたのだった。もしかすると、事務所には居づらくなっていたのかもしれない。
福井県に向かう高速道路の途中に、彼女はスマートフォンで福井県について調べていた。
「福井県にある鯖江市って日本における眼鏡フレームの生産のほとんどを占めているらしいよ」
彼女は唐突にそんなことを言った。
「あなたの眼鏡も鯖江市産かもね。里帰りだね」
「へぇーそうだったのか。他にも何か無いのかい? 」
彼女はスマートフォンを操作して、鯖江市について調べてくれた。
「レッサーパンダ繁殖数日本一の動物園があるらしいよ」
「レッサーパンダか、この仕事が終わったら帰りに寄ってみるか? 」
「いいの? 」
「どうせ、毎月一回の顔を見せるだけの仕事さ。帰りはのんびり帰ればいいさ」
私たちが動物園に寄ることはなかった。
取引先の会社には、クレームの山が届いていたからだ。この会社は内製化を進めており、私の会社のような中小企業を使うような仕事が減りつつある。それでも私たちと取り引き
してくれているのは社長の営業努力の成果だ。
こんなクレームを発生させていては、その努力が泡と消えかねない。
そのため、帰りに動物園によるはずが、急いで会社に帰るはめとなったのだ。クレームの発生原因の目処はついている。一刻も早く工場に行って原因を潰す打ち合わせをしなければならない。
「ごめんね。動物園によれなくって」
私は隣に座る彼女に言った。
「いいよ。どうせ来月も福井に行くのでしょ? 次は行こうね」
車を運転しているため彼女の顔を見ることはできなかったが、その様子からは他にも言
いたいことがあるように思えた。
福井市を抜けて鯖江市に入った時に彼女は、重い口を開くかのようにいった。その声は、
とても寂しげなものだった。
「眼鏡のフレームって、かけている人からはほとんど見えないでしょ。でもね、周りから
は見えているものなのよ。私はあなたの眼鏡のフレームなのかな」
あの時の私には、その言葉の意味はわからなかったのだ。
その後、私はバイク事故にあったらしい。
ストレス発散のために峠を飛ばしていたのだ。見通しの悪い道を走っている時に対向車線に
はみ出して車と正面衝突してしまったらしい。
いや、それは夢の中の自分の話だ。今の私の話ではないはずだ。夢と現実の狭間で私の意識はさまよっていた。
ただ言える事は、どちらでものっぺらぼうの彼女がいつも隣に居た。
彼女は、いつも隣に居てくれた。
私には結婚を言い出す勇気がなかった。
私は曖昧な関係のまま、いつまでの続けばいいと思っていた。彼女の気持ちも知らずに…… 。
今からでもやり直せるのだろうか。
気づくと私は、再び車を運転していた。隣にはいつものように彼女が座っていた。その顔は、同じのっぺらぼうだった。
私は彼女の顔を見て言った。どうせ夢だ。
前をしっかり見て運転しなくても問題あるまい。
「違うよ。君は、僕のただの眼鏡フレームなんかじゃない。僕のかけがえのない人だ。僕と結婚してくれるかい? 」
その言葉を彼女にようやく言えたのだ。
夢の中でしか言えなかったことが残念でたまらなかった。私はなんて馬鹿なことをしたのだろう。
「やっと言ってくれたのね。もちろん、喜んで! 」
彼女の顔は、いつの間にかのっぺらぼうでは無くなっていた。その顔は私の大切な女性
の顔になっていた。彼女はとても美しい女性だった。私は、そんな彼女をどれだけ悲しま
せたのだろう。その事を思うと、私の目には涙が浮かんでしまった。
私は夢から覚めた。
前の前には相変わらず白い天井が広がっている。横を見ると、彼女は今日も病院に来て
いるようだった。私は目を彼女の顔に向けた。
その顔は――
のっぺらぼうではなかった。
疲れた様子ではあるけれども、夢の中で見た美しい彼女のままだった。
私はすべてを思い出したのだった。
夢で見たことは恐らく現実だろう。今からでも夢の中で言った言葉を言えるだろうか。
私がこうなってしまっては、すでに遅いかもしれないという思いでいっぱいだった。
どうにかして口を動かして言葉を発しようとした。だが、掠れた声しか出なかった。
掠れた声を聞いた彼女は耳を私の口元に近づけた。
「今度こそ、鯖江にレッサーパンダを見に行こうよ」、掠れた声で私は言った。
彼女は驚いた様子で私を見た。
「思い出してくれたの……」
私はうなずいた。
「よかった…… 本当によかった……」
私には彼女に言わなければいけないことがある。もう遅いかもしれないが、言わなければいけない言葉だ。
「僕と結婚してくれますか。こんな姿になった僕だけど、愛してくれますか」
掠れた言葉だけれども、私はようやく口にすることができたのだ。
「どれだけ待ったと思っているのよ…… 今更逃がすわけがないじゃないの」
のっぺらぼうでは無くなった彼女の顔は涙で溢れていた。
( 了)
▼著者プロフィール
斎藤秋
短編小説やエッセイを中心に執筆。エッセイは二つの賞で受賞歴あり。透き通った文体が特長的な実力派。