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MACHIKOI ~君と紡ぐ、この町のストーリー~  作者: MACHIKOIプロジェクト委員会
23/24

幸 著者:ogi

使用する伝統芸能 木崎音頭

舞台 群馬県太田市木崎町


 群馬県太田市木崎町……。

 自動車工場があるため活気のいい市の中心部から、ちょっと離れたあたりにある地区である。


 古くは旅人が行き交う宿場町として栄えたこの地区であるが、今やその面影も薄れ、ごく普通の場所となっている。


 いや、一応宿場町の跡みたいな場所もあるんだけど、私みたいな普通の女子高生にはどうでもいいことだ。


 自分の住む地域がどーこーよりも、友達とショッピングモールに遊びに行ったり、アイドルのライブに行ったり、ゲームしたり。


 あ、ちょっとだけ勉強もするよ?


 まぁ、そんなこんなで今日みたいな日曜はやりたいことが沢山あるというのに、なぜ私は小学校にいるのだろうか。しかも、まだ朝の8時半だっていうのに。


「あらぁ。ちょっと早く着きすぎちゃったかしらねぇ?」


 呑気な様子で言うのは私のおばあちゃん。御歳82。


「ちょっとじゃないよ!祭りの準備って言ったって9時半からでしょ?なんでこの暑いのに外にいなきゃいけないの?」


 言い忘れたが、今は8月31日。残暑真っ盛り。朝だというのに気温は30度である。群馬には館林市という、全国指折りの猛暑地があるのだが、太田だって暑い。


 おばあちゃんは準備があるから手伝いなさい、と言って私を連れ出したのだが、こうも暑くてはやっていられないというものだ。


 しかもおばあちゃん、準備の開始時間を忘れていて、開始1時間前に来てしまった。


 小学校の校庭で、高校生の私にやることなどない。よって今はおばあちゃんと一緒に、体育館裏の日陰に座り込んでいる。


「地域貢献じゃよ、地域貢献。老人だけで準備するのは大変だから、若い力が、若者が必要なんじゃ」


「うう……だったらお父さんとかでいいじゃん……」


「ほほほ。『若者が』ってことが大事なんじゃよ。この祭りは『木崎音頭』存続のための大事な祭りなんじゃから」


 おばあちゃんはのんびりとした口調で言う。


『木崎音頭』というのはこの地域に伝わる伝統舞踊。群馬県民なら『上毛かるた』の『そ』の札、『揃いの支度で八木節音頭』でおなじみ、八木節の原型らしい。


 夏祭りが小学校で開かれ、小学生たちがこれを踊るのだ。私も遠い昔に踊ったことがある気がするけど、今となっては忘れてしまった。


 存続ねぇ……。そりゃ大事なことだとは思うけどさ、私が引っ張り出されるのはちょっと違くないかなぁ?


「おや?そんなこと思ってたのかい。全く若者っていうのは面倒くさがりさんだねぇ」


 ……まず。声に出てたかしら。


「それなら仕方ないねぇ。この音頭の背景を知れば、もうそんなこと言えなくなるだろうし、時間もあるから昔話といこうかね」


 あっ、これはめんどくさいスイッチ入っちゃったやつだな。


 そうして私はぼんやりとおばあちゃんの話を聞いた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ーー 江戸時代、越後国の農村地帯。のどかな田園風景の中、今日も「はやり歌」を元気よく歌う少女たちが二人。


「「ナーエ コリャ 高大寺かめくり」」


 この歌は越後国で流行中の、「新保高大寺くずし」。


「「新保高大寺に産屋が出来た お市案ずるな ナーエー」」


 田畑の耕作権争いにおいて、一方が相手方の寺の評判を落とすために広めた歌。


「「新保高大寺が 葱食って死んだ 見れば泣けます 葱の畑 ナーエー」」


 そしてこの歌を歌っているのは、「(ふく)」と「(ゆき)」という双子の姉妹。この時2人とも7歳。

 しかし、評判を落とすための歌がよいものであるはずもなく……


「くおらぁぁぁああああ!!またおめぇら下品なのうたってんなぁぁぁぁあああ!!とっとと畑仕事手伝えぇぇぇぇええええ!!」


 今日も2人は父に怒鳴られるのだった。


「うわっ!おとんに見つかった!」


「幸!逃げるよ!」


「うん!」


 そう言って福は幸の手を取り、幸はすぐに握り返して笑顔で返事をし、2人は田んぼの中を逃げていくのであった……。



 しばらく後、結局父に捕まってしまい、2人は渋々畑仕事を手伝う。


「農民の仕事は畑を耕すことなんだ。おなごだからってそいつは変わんねぇ。さぁ、働けぇ!!」


 口癖のように父は叱咤する。


「まぁまぁ、お前さん、そう言いなさんな。子供は遊ぶのが仕事よ。なぁ?」


「そーだそーだ!」


「子供は遊ぶのが仕事!」


 小太りで汗を拭きながらそう言うのは、2人の母。姉妹はすぐに同調する。


「ぐぬぬぅ……。おなご3人に男1人というのは、いつも分が悪いのう……」


「「あははははははっ!!おらたちの勝ちー!!」」


 父も災難なことだ。仲のよい双子にはとても敵わないと諦めて、黙って農作業を再開しようとした。


「でも大きくなったらおめぇたちだけで畑を耕すんだぞ?」


 母がすかさずフォローに入る。


「「えー。そんなんやだー」」


「だったらおめえらも早くいい婿さんもらうんだな。あははっ!」


 母の言葉によって優勢になったと見たか、父は調子に乗る。


「そりゃ無理だな。太え母ちゃんの子なんだ。すぐ太っちまって、もらい手なんかいねぇよ」


「ほほー。お前さん、もう一度言ってみな?」


 母が手にしたくわを肩に乗せて威圧感たっぷりに返す。


「すいませんでしたぁぁぁぁぁあああっ!!!」


「「あはははははっ!!おとん情けねぇ!!」」



 これが4人の日常。この家族の畑からは笑い声が絶えることがないと、近所では評判だった。


 ……この笑いが、実に3年後には絶えてしまうことを、果たしてこの時誰が予想しただろうか…。



 天明3年(1783年)3月12日に岩木山が、同年7月6日に浅間山が火を噴いた。


 このころ農家では不作が続いており、元々大変だったところに火山灰が降り積もった。農作物は壊滅的な被害を受けて、餓死者が続出した。「天明の大飢饉」の始まりである。


 異常な乾燥が続き、風が吹けば畑から砂が舞うほどで、死人の肉に草を混ぜて犬の肉と称して売る……。

 その地獄絵図は、浅間に近い越後国全土で見られた。


 当然、幸たちの家も例外ではなかった。


 備蓄作物は底をつきかけており、雑草を食べるのは当たり前。それすらも口に出来ない日もあり、幸も、福も、父も、恰幅のよかった母でさえも、みるみるうちに痩せ細っていった。


 それでも笑顔だけは絶やすまいと、一家は必死で笑って苦難を乗り切ろうとしていたのだった……。


 皆が寝静まったある日の夜、福は厠に立とうと思って布団から起きた。


 すると、そこには幸はいるが、一緒に寝ていたはずの母と父の姿はない。


「……ん?2人ともこんな時間に一体どこへ……?」


 福は用を足した後、どうにも不安になって居間の方に行ってみると、灯りがともっていた。


 人影が二つ揺らいでいて、福にはそれが父と母だとすぐにわかった。なにやら2人で話しているようだ。


 福は好奇心から壁に耳を当てた。


「やはり無理だぁ。このままじゃ持って後1月。そしたらおらたちは飢え死にしちまう」


「だけどもそれはあんまりでねぇか?いくらなんでも人の親のやることじゃねぇよ」


「おらだってわかってんだけどもよぉ……」


 父が発した「飢え死に」という言葉で、我が家がかなり危ない状態であることが福には容易に察せられた。


 でも「人の親のやることじゃねぇ」とは何かさっぱりわからなかった。何よりも2人の声がやけに沈んでいる。


 食料が危ないという話とはまた違う悲壮さを福は何となく感じた。


「でも、1人減れば飯の減りは抑えられるし、銭だって入る。このままじゃ全員終わりだ」


「けどもそれじゃ福が悲しむ」


「それは……」


 福が悲しむ?1人減れば?福にはまるで理解できなかったが、次の母の一言で彼女は一瞬にして凍りつくことになる。




「だっていくら何でも酷ぇよ。幸を身売りに出すなんて」




 ーーガタン!


 福は絶句して崩れ落ちてしまった。中の人影は焦ったようにバタバタしているが、福にはそんなことはどうでもよかった。 


 ーー幸を、身売り……?


 ーーガラッ!


 障子が開き、父が出てきた。福の姿を確認し、ふぅ、とため息をつく。


「福……。そうか。聞かれちまったか……」


 福はハッとして父に詰め寄った。


「幸を身売りに出すってどういうこと!?説明して!!」


 父と母は諦めたように、ポツリポツリと話し始めた。

 食料がもうないこと。

 4人で生活を続けるのが困難なこと。

 幸を上野国に飯盛女(旅館の仕事をする下女で、夜は旅人の下の世話をする)として売れば、それなりの金が入って生活が続けられること。


 それら全てを聞いたとき、福はどうにも抑えられなくなって、2人に悲鳴に近い問いかけをした。


「だからって何で幸?おらが代わりに行くよ!それが駄目なら幸と2人で行くぞ!幸だけ行かせるなんて許さねぇ!!」


 父と母は押し黙ってしまった。しばらくの沈黙が続き、言いにくそうに父が口を開いた。


「福……。おめぇは長女だろ……?幸は次女。売るとしたらばあいつしかいねえよ……。目的を見失っちゃなんねえ。家を、存続させるための手段なんだからよ……」


「そんな……」


 福はそれっきり言葉を失った。


 ーーおらが代わりになるのは無理?幸じゃないと駄目?


「おらだって幸を売りたくなんてねぇよ。でも、このままじゃ間違いなく一家全滅だ。幸だって売られるってだけで死ぬわけじゃねぇ。1人家族が離れてみんなで生き延びるか、このまま死ぬか。どっちが賢い選択か、わかるだろ?」


 こう言われては母も福も返す言葉はない。


「すまん。福、わかってくれ」


「うわぁぁぁぁぁぁぁああああん!!!幸ぃぃぃぃいいいいい!!!」


 この夜、寂れた農村には笑い声ではなく、1人の少女の哀しい嗚咽が響き渡る。


 夏の夜空は満天の星空。そこにつうっと、一筋の流れ星が落ちた……。



 そして、ついに幸が売られる日がやってきた。

 前日のうちに父が幸に伝えたのだが、幸はただ、「そう……」と言うだけだった。


 幸は飯盛女というものを知らない。故にこのような反応だったのだろう。ちょっと遠くに引っ越すくらいの気持ちだったのかもしれない。


 だからこそ父は最愛の娘を騙しているかのようで、後ろめたくて仕方がなかった。


 幸を迎えに来たのは、平吉へいきちという初老の男だった。ニコニコと笑みを浮かべて温厚そうな男だったが、これからすることは人身売買である。


 父、母、そして福の3人は、平吉が本当に優しい人であるのをただ願うばかりだった……。


「幸殿にはこの後上野国の木崎という宿場町で『奉公』していただきます。あくまで『奉公』でございますので、旅籠(はたご)の雑務、例えば調理や洗濯、宴の準備などですね。これらをやっていただきます。ですので夜の仕事はほとんどありません。大事な娘様ですので、『大切に』扱わせていただきます」


 平吉は慣れた様子で説明する。これまでに数多の娘をこうして買ってきたのだろう。


 福は、意外な好待遇にほっと胸をなで下ろしているようだったが、父と母にはどうもその笑顔が胡散臭く感じられて、平吉を睨んでいるのであった。


「木崎での食事、衣服などはこちらで用意いたしますので、ご安心ください。そして、こちらが『謝礼』でございます」


 そう言って平吉は父に布袋を渡す。中には4両(現在の40万円程度)が入っていた。父はそれを確認すると、しっかりと受け取って頭を深々と下げた。


「ありがとうございます…。どうか…どうか幸をよろしくお願いいたします…」


 父に従って母と福も頭を下げる。母に関しては何かに取り憑かれたかのように、


「ごめんな。幸……。親孝行だと思って……どうか許しておくれ……。すまねぇ、すまねぇ……」


 と繰り返している。


「いえいえこちらこそ娘様をいただいたのですから、悪いようにはいたしません。それでは、もう出立の時間ですので、これにて」


 そう言って平吉はスタスタと歩いて行った。幸はその場に残り、福は最後の声をかける。


「幸!!!達者でな!!時間が出来たらかえってこいよ!!いつでも待ってるから!」


「……うん!!!」


 そう言って姉妹は熱い抱擁を交わす。父と母はとてもこれを直視できず、最後まで下を向いていた。


「じゃあ、おとん!おかん!福姉!行ってきます!!」


 幸は満面の笑みでそう挨拶すると、急いで平吉の後を追いかけていったのだった……。



 幸と平吉はどんどん歩みを進めてゆく。幸は持ち前の明るさで、平吉にたくさん話しかけた。


「おらの家族は『幸せ』に関する言葉が名前に入ってんだ!!おらは『幸』で姉が『福』。2人合わせて 『幸福』だ!おかんは『幸子(さちこ)」だし、おとんは『吉兵衛(きちべえ)」ってんだ!!」


「木崎ってのはたくさん米が食えんのか?おら楽しみだ!!」


「『奉公』っていい響きだな!!お侍さんがすることだと思ってたが、おなごにもできんのか?」


 平吉はよくしゃべる幸に対して「そうよのう」とか、「うむうむ」とか、ニコニコと適当に返答していたのだが、山の中に入ると、その態度を一変させ、鬼のような形相で、低い声で言った。



「おめぇ、自分の立場をろくすっぽわかってねぇな」



 幸の足がピタリと止まる。平吉の態度の急変に恐怖したのだ。本能的に逃げ出したいと思ったが、足がガクガクと震え、言うことを聞かない。


 平吉の言葉には上州訛りがだいぶ入っており、幸は何もわからない、混沌とした得体の知れない危険な世界に入り込んだかのような気分になった。


 そうして震える幸を尻目に、平吉は続けた。


「これからおめぇがなるんは『奉公人』じゃねぇ。使い捨ての『道具』だ。長旅に疲れた旅人を癒す道具。最低限の食事は与えてやるが、あくまで道具だからな。死んだり古くなったら容赦なく捨てられる。覚悟は、せいぜい今のうちに決めておくんだな」 


 幸は愕然とした。聞いていた話とまるで違うではないか。自分はこれからそんな世界に行くのか……。

 想像すると、もう笑っていることなんてとても出来なかった。


 平吉は冷酷に続けた。


「あと間違っても逃げたり、客と心中したり、自決なんかすんなよ?そしたら旅籠はおしまいだ。もしもそんなことしたら首の骨おっ欠いて利根川に流してやる。それどころかおめぇの家族もどうなるかわかんねーな」


 幸は「家族」という言葉にピクリと反応した。


「そんな!家族だけは勘弁してくれ!!おらはどうなってもいいが、みんなは……」


 そう言った瞬間、平吉に腹を蹴り飛ばされた。


「ぐふっ!!」

「まずはその『おら』ってのやめろ!おめぇはもう農民の娘じゃねぇ!!『飯盛女』だ!三国を越える間に、まずはその言葉遣いから叩き直してやる!!」


 ーーこうして、地獄の三国峠越えが始まったのだった……。



 何日が経っただろうか。2人は木崎の宿場町に辿り着いた。


 活気があって、あちらこちらで旅人が往来しており、道の両端には旅籠がズラリと並んでいた。


 本来、年頃の少女であれば見たこともないこの光景を見てはしゃぐだろうが、幸はそんな気にはなれなかった。


 疲労困憊なのもあるが、そもそもこれからの生活を考えればとても楽しもうなどと思えるはずもない。三国を越えて故郷から遠く離れてしまったことへの不安が幸を支配していた。


 しばらくして、平吉は足を止めた。


「そら、着いたぞ。ここがおめぇが働く店だ」


 不安でずっと下を向いていた幸は平吉の言葉で顔を上げた。そして幸はその建物の大きさに驚愕した。


「でけぇ……」


 思わずそうつぶやいたら平吉に足を踏まれた。言葉遣いが悪かったためであろう。慌てて幸は平吉に頭を下げ、そして宿に向き直った。


 三国越えの途中で平吉から旅籠については聞いていた。


 旅籠には種類があり、規模によって大中小に分類される他、飯盛女の有無によっても分けられる。

 平吉の宿は大旅籠で飯盛女持ちだから木崎有数の立派なものである。その規模は田舎者の幸の度肝を抜くには十分だった。


 幸はその威圧感に圧倒され、今後への不安をより一層高めていくのだった……。



 幸は旅籠に入ったときはまだ10歳。流石にこの歳で客を取ることはなく、下女として雑用に当たった。いわゆる見習いである。


 幸にしてみればこの期間はだいぶ楽だった。衣食住は与えられるし、労働だって越後の耕作よりは軽い。多少越後が恋しくなることもあったが、まだここの生活もどうにかやっていけるな……と、幸は安易に考えたのだった。



 そうして言葉遣いを矯正しながら14歳までの期間を過ごしたのだった。


 ……これが人生最後の休息の期間とは知らずに……。



  14歳になってからの生活は全くの別物だった。まさに地獄の日々と言っても遜色ない。遊女の生活だって大変だというのに、そこに宿の仕事が追加されるのだから、その辛さは想像に難くない。幸の生活は以下のようなものだ。



 午前2時に客と行為。朝の6時には客を送り出し、仮眠をとったあと、朝10時になったら起きて遅めの朝げをとる。


 その後夕方になるまでは下女として旅籠内の雑用。


 買い出しや調理、部屋の支度などで疲労困憊のところに、夕方になれば客がやってくる。


 あっという間に夕方の宴が始まり、宴の間は客にべっとりとして、作り笑いを必死に浮かべながら客を褒める。もちろん農民の言葉などは一切使用禁止で、もしも客の前でボロを出せば次の日の飯は抜き。


 宴が終われば片付けの後部屋に行って行為に至る…の繰り返し。


 最初の頃は人気があった幸は1夜で2度行為に及ぶことすらあり、そのときの睡眠時間はあってないようなもの。


 自由時間などはもちろん与えられず、奴隷に等しい生活であった。


 そんな生活は幸を肉体的にも精神的にも追い込んでいき、気がついたときには幸は作り笑いしかできなくなった。心の底から笑うことができなくなってしまったのだ。



 幸は美人の部類に入る方だったので、毎晩のように指名を受けた。指名されなければ次の日の飯が抜かれるので彼女は幸せな方だったのだが、客は選べない。


 たとえどんなに醜悪で心の汚い男たちが相手でも、彼女は心を無にして体を重ねた。


 どんなに苦しい日々であっても、家族のことを思えば逃げだそうとはとても思えなかったので、幸は黙って毎日を過ごしていた。



 そんな、ある日の夕方のことである。幸は客が取れないので「留女とめおんな」として店先で客引きをしていた。


 客引きと言っても、現代のような生ぬるいものではない。往来する旅人に声をかけた後、強引に荷物を運んだり手を引っ張ってでも自分の宿に引きずり込むという壮絶なものだ。


 まさに店先は他の旅籠との戦場のような様相を呈していた。


 幸は1人の客に声をかけて引き留め、手を引っ張った。


「うちの旅籠はいかがですか?今夜はごゆるりといたしませぬか?」


「やかましい!!そんな金はないわ!」


 そう一喝して男は幸を振り払った。


「きゃっ!!」


 幸が転がっている間に。男は立ち去ってしまった。幸は諦めず再び別の男に声をかけたが、結果は同じだった。


 裕福な旅人ばかりが宿場町に来るわけでは当然ない。飯売女の分の金がかかるので、普通の旅人は下級の旅籠に向かうのだ。


 そんな男に声をかけても無駄、ということだ。


 これを何度も繰り返したのちに、ようやく1人の若い男を捕まえることができ、必死で作り笑いを浮かべて宿へと戻った。


 その日の夕げ。宴が盛り上がってきたところで、旅人の1人が突然こんなことを言い出した。


「お前さん方、酒のつまみに何か歌ってくれやぁ」


「ほほう!それはよい!」


「ぜひ歌ってくれや!」


「おなごの歌など聞くのは久しぶりじゃあ!」


 1人に同調して、皆が口を揃えて言う。こんなことは初めてだが、どうもこの雰囲気になってしまっては歌うしか道はない。


 しかし田舎者の幸は歌などろくに知らなかった。

 いや、一応下女時代に多少教わってはいたのだが、いかんせん彼女は歌詞を覚えるのが苦手で、1曲も歌うことが出来ないのだった。


 旅人たちは手拍子を始め、はやし立てる。部屋の端からはどうにかしろと言わんばかりに平吉が睨んでいる。


 そんな目をされてもどうにもならんと幸は諦めかけ、半ば投げやりに口を開いた。


 すると……


「……ナーエ コリャ 高大寺かめくり」


 自然と口から出てきたのは、あの「はやり歌」。幸は完全に無意識だったが、歌詞はすらすらと出てくる。


「……新保高大寺に 産屋が出来た お市案ずるな 小僧にするぞ ナーエ」


「がははははっ!!こりゃ驚いた!!こんな面白えのを歌うおなごもいたもんか!!」


「そらそらいいぞいいぞ!!」


 下品な歌を聞いて、旅人たちの興奮はどんどん高まっていく。平吉に関してはポカンと口を開けてあきれた様子で幸を見ている。


 だが、この時幸には周囲のことなど、どうでもよくなっていた。


 ーー福姉……。


 幸には一緒に歌う福の姿が見えていた。完全に自分の世界に入っていたのである。


 福が自分の手を取り、田んぼの中を引っ張って行く光景だ。ぐいぐいと引っ張られて、幸はよろめく。福は慌てて幸を支え、大丈夫か?と心配する。


 へーきへーき、と幸は笑顔で返し、再び歌いながら田んぼの中を駆ける。今度は幸が手を引いて。


 ……が、次第にその手は軽くなる。握られている感覚がなくなったあたりで振り返ると、福はいなかった。


 ……結局、歌の終盤で現実に引き戻されてしまう。幸は、独りぼっちなのだったという、残酷な現実に。


 ーーああ……どうして福姉はいつも隣で歌っていたのに、今はいないのですか?幸はもう辛うございまする……。ああ、越後に帰りたい……。


 歌い終わった幸の目元にはキラリと光る大粒の涙があったが、彼女にはそれを流す自由すらないため、ただ作り笑いでごまかし続けたのだった……。



 それから8年後、幸は過労のため倒れた。もちろん十分な治療など受けることは叶わず、10日後にあっさりと息を引き取った。


 享年24。当時の飯盛女の平均寿命が21くらいなので長生きした方だが、それでも早すぎる死である。彼女は死の間際まで家族の名を呼び、越後に帰りたい、帰りたいと言いながら息を引き取ったという。


 遺体は近くの寺に捨てられ、ついに最期まで彼女が越後の地に戻ることはなかった……。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「……とまあざっとこんな感じじゃな。この宴会の席でお幸さんが歌ったのを編曲したのが、『木崎音頭』というわけじゃ。どうじゃ?少しは大事にしようという気になったか?」


「あ、うん……」


 私は返す言葉もなかった。

 最初は適当に聞き流していたおばあちゃんの話だが、途中からは引き込まれるように体を乗り出していた。


 ーーまさか、そんな悲哀なものだったなんて。


 とにかく、重苦しい話だった。無念のまま死んでいったお幸さんには、救いはないのか。


 そんな私の様子を見て、おばあちゃんは言った。


「歴史に埋もれた話ってのはね、こんな話ばっかりだよ。これは仕方ないことなんじゃ。でもな?だったら私たちにできることは1つしかないじゃろ?」


 私は小さくうなだれたまま、ハッとして目を見開く。


「……風化させないために、存続させる……」


 自分にやっと聞こえるくらいの小さな声。そんな声で私は呟いた。


「そういうこと。ほら、分かったらテントの設営に行くよ。長く話したからそろそろいい時間じゃろ」


 そう言っておばあちゃんはスタスタと歩いて行く。私も後に続こうとして立ち上がり、涼しい日陰から出ようとした、まさにその時だった。


 体育館側の門から、2人、体操服姿の小学生の女の子が入って来たのだ。


 私は彼女らに釘付けになってしまった。


 見たところ小3と小6、といったところか。2人で仲よさそうに手をつないでいる。おそらく踊りの練習に来たのだろう。


 お揃いのカチューシャと、よく似た可愛らしい顔を見れば姉妹であることは容易に察せられる。


 ……が、それだけなら私はスルーしていただろう。私が目を離せなくなったのは彼女らの左胸、体操着のネームプレートだった。


 そこに書いてあったのは、



『川崎 幸乃』

『川崎 美福』



 という、名前だったから。



「2人合わせて、『幸福』……」


 そんな言葉を口に出して反芻し、ごしごしと目を擦る。


 2人の少女は、楽しそうに体育館の入り口へと歩いていった。


「ふふ、まさか……ね」


 思わず口元を緩ませると、おばあちゃんに、早く来なさい、と呼ばれた。


 分かったよ、と大きな声で返事して、私は汗を拭い、眩しい日なたへと駆けていった……。


(了)

「おゆき」という女性は、実在の人物です。木崎音頭、つまりは八木節の背景も史実であり、おゆきに姉がいる、というのも史実です。

このような悲しい背景知識を皆が知っていれば、伝統舞踊が絶えることはないと思うのです。


作者プロフィール

高校3年生。

受験勉強の合間に

「新米女神と高齢転生!?〜これだから近頃の異世界は」

執筆中です。

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