奈良ビーチサイド・ソックス 著者:古川アモロ
内田 藍里に話しかけられたのは、これが初めてだったはずだ。
「靴下とボタンって、コラボ出来へんかな?」
下校時―――桜井駅の改札に入ろうとしたオレは、同じクラスの内山さんに呼び止められた。
「えーと……ゴメン、いまなんて?」
とんでもないマヌケな声が出てしまった。
「靴下とボタンのコラボってどういうこと? アッ、すいません」
改札の前につっ立っていたことにようやく気づく。大学生2人が出てきたのを、あわてて横によけた。
「靴下とボタン、コラボしたいねん」
オレがあたふたしているのに、お構いなしで内田さんは話しかける。いつの間にか、オレの真ん前まで近づいていた彼女。化粧水のいい香り……いや、そんなことはどうでもいい。質問の意味が分からない。
「ボタンって、服のボタンのこと?」
「うん」
じつに簡単な話だ。
靴下にボタンなんか必要ない。少なくともオレは、ボタンつきの靴下なんぞ見たことがない。
「……難しいんとちゃう?」
ストレートに『ムリ!』とは言わなかった。
それが10分前のこと。
オレはいま、内田さんの家に向かうため、自宅と反対方向の電車に乗っている。
ガタンガタン。
ガタンガタン。
女の子と並んで座るなんて、人生で初めてのことだ。なんていうのか、受験の面接のときよりも背筋がピンとなる。こんな正しい姿勢で電車に乗ったことなど、かつて無い。
……え、ちょっと待ってくれ。なんでオレが内田さんの家に向かってるんだ?
マジで待って、どうなってんのよ?
記憶があいまいだが、「ウチに来て」と言われて「ハイ」と返事をしたのは、かろうじて思い出せる。ほかはなんにも思い出せん。
「今日、なんか予定あった?」
「いや予定はないけど。なんで急にオレを呼んだん?」
カタンカタンと揺れる電車。速度が少し上がる。
揺れるたびに内田さんの体が、オレの腕に触れそうになるが、必ずギリギリで当たらない。
「靴下にボタンって、無理かなあ?」
「あの、まずその質問がよう分からんねんけど」
「かわいい思わへん?」
「 " かざり " でボタンをあしらうってこと?」
うん、なるほど。
たしかに飾りボタンならワンポイントになるかな。子供服やレディースアイテムとしてなら、かわいいかもしれない。
「ううん。実用の意味で」
「なんでやねん!」
けっこう大きな声が出てしまった。
しまった、女子に……あわてて声のトーンを落とす。
「いや靴下ってほら、こう……スポッって履くもんやん? 穴のとこがゴムやから伸びるし。だからボタンっていらんやん?」
身ぶり手ぶり、靴下を履くジェスチャーをするオレ。だんだんバカらしくなってきた。なんで電車の中でこんなことを……
内田さんが真剣な顔を向けた。
「穴ちゃう。クチ」
「……へ?」
「靴下の、足いれるとこ。口って言うねん」
「へ、へえ……そうなんや」
知らなかった。
「飾りボタンにも種類があんねん。金属のとか……」
「へえ」
「日本でボタン作りが始まったんは江戸時代やねん。たとえば薩摩では……」
「へえ」
「奈良でもボタン作ってんねんで。貝ボタンいうて、貝殻をくりぬいて作る……」
「へえ」
まさかの、服飾講義。
五位堂駅に着いたとき、オレは靴下とボタンのことにかなり詳しくなっていた。
駅から徒歩でまた数分。
道中、オレはクイズ攻めにあっていた。
「では、靴下に使う繊維のうち、ナイロン、コットン、アクリル、いちばん静電気が起きやすいのは?」
「……アクリルです」
「正解! では全国で、奈良県の靴下生産量の割合は?」
「約34%。シェア、日本一です」
「正解! では、海のない奈良県で、なぜ貝のボタンを作ってるんでしょうか?」
「大阪から大和川をわたってくる船で、貝ガラを運べたためです。わずかな初期投資で始められる貝ボタン産業が、農家の副業として奈良に根づきました」
「正解! では……」
内田さんの家に着くまでオレは、靴下&ボタンクイズに100問以上も答えるハメになった。
内田さんって、こんな子だっけ?
学校でも男子と話してるのって、あんま見たことがない。それにもまして、駅で話しかけてきたときとテンションが全然ちがう。なんていうのか……なんでオレを自宅に招いたのか、まだ聞けていない。聞くヒマをくれない。
やがてたどり着いたのは―――
「ここ、私のお父さんの会社」
「うすうす、そんな気がしたわ」
「なにが?」
「いや、なんでもあらへん」
到着したのは……靴下の工場だった。
電車内で聞いた話では、靴下の製造は、全国で奈良県がトップらしい。奈良に生まれて17年になるが、はじめて知った。
そんなふうに聞くと、いかにも伝統工芸といったガンコ職人の店を思い浮かべる。だが目の前にそびえる建物は……
工場!!
なんかふつうに、企業の工場だ。
大型のトラックが、体育館ほどもある倉庫に出入りしている。二台も。
と、大きな駐車場に面する建物の奥から、十数人のオバサンらが出てきた。ちょうどパートさんの終業の時間だったらしい。
「あら、藍里ちゃん。おかえり」
「今日は部活ないのん?」
めいめい声をかけてくるオバサンと、笑顔で答える内田さん。
「うん、今日は部活休みやねん。あ、お疲れさまでしたぁ」
「佐藤さん、さよなら。林さん、さよなら」
帰宅するオバサンたちの、一人一人にあいさつする内田さん。
最後のひとりを見送ると……
「こっち。入って」
オバサンたちに向けた笑顔はどこへ行ったのか。そっけなく工場に入るよう命じる。
ていうか、どんどん先に行ってしまう。
しかたなしに後についていくオレ。
工場のなかは……うるせええ!!
ガッゴン、ガッゴン!!
ガッゴン、ガッゴン!!
耳がどうにかなる!
機関車の内部のよう!
円盤が回転しながら、糸を超高速で送り出している! 赤、白、黒、青……何十色もの糸、糸、糸、ぜんぜん途切れることがない。何キロメートルあるんだ、これ?
奥の方には、イージス艦でも制御するのか!?みたいなハイテクマシンが3基並んでいる。た、たかが靴下に……
鋼鉄の櫛みたいなのが上下するたび、轟音がとどろく!
ガッゴン!
ガッゴン!!
ガッゴン!!!
「うるさいから上に行こ!!」
「なに!? 聞こえへん、なんて言うたん?」
ガッゴン、ガッゴン!
「二階に行こ! あそこに階段あるから!」
「未来に行こう?? いや、どこにも海岸なんかないよ!?」
ガッゴン、ガッゴン!!
「ちゃう! 階段をあがろう!」
「チャッカマン・オフロード??」
ガッゴン、ガッゴン!!
「もう、こっち来て!」
「あ、ちょっと!」
オレの学生服の袖をつかみ、鉄製の階段を引っぱって行く内田さん。
あ、海岸じゃなくて階段って言ったのね。
カンカンカンと金属の板をふみ鳴らし、2階へ―――
そこは、物置きのようだった。
1階の工場とは比較にならない狭さ。ボロボロの事務机がふたつ、そしてダンボールの山、からっぽのスチール棚。パソコンや電話などは見当たらない。
明らかに使ってない場所だ。
昭和のころのものらしき古いミシンが3台、ホコリをかぶっていた。
「あの……ここは?」
「もう使ってない事務所」
んなこた見りゃわかる!
「いや……なんでこんなとこに連れてきたん?」
「…………これ。これ、見てほしいねん」
内田さんは、なにやら迷ったような間をおいてから、年季の入った事務机の引き出しを開けた。
中から取り出したのは、布の袋。
給食袋ほどの大きさのそれは、中身がパンパンに入っているらしい。机の上でそれを広げると……
ザアアアアア!!
ザアアアア!
中から出てきたのは、
「ボタンやねん」
「やっぱりな」
この流れだとそれしかないだろう。机にぶちまけられる、大小さまざまなボタンの山。床に落ちた何個かを、内田さんはちまちまと拾いはじめた。
しかたなくオレも手伝う。
しゃがんで一枚、また一枚と拾う。
貝ボタン。
なるほど、たしかに普通のボタンではない。
まるで、超軽量の大理石。
プラスチックとは違う、真珠のような光沢。蛍光灯の光で虹色に輝いている。しかし何百個あるのか。
「コレどうしたん?」
「靴下とボタンって、コラボ出来へんかな?」
「あ、そこに戻んねや」
「この貝ボタンな。ボタン職人やった、おじいちゃんが作ってん」
「いや聞いてへんけど……」
「おじいちゃんな。生きとったときに、川西町で工場しててん」
「えー、はい」
「ここの工場のとなりが私の家やねんけど、昔は家でもボタン作っててん」
「えー、はい」
「海のない奈良で、なんで貝のボタン作ってるか知ってる?」
「大阪から大和川をわたってくる船で、貝がらを運べたためです。わずかな初期投資で……コレ、来る途中で答えへんかったっけ?」
「せやったっけ? ゴメン」
会話が途絶えた。
機械音がいっそう大きくなった気がする。
沈黙―――
内田さんはずっと貝ボタンの一個を手で転がしている。
なんなんだよコレ!
「あのさあ。もしかしてやけど、その貝ボタンを靴下に使うようなアレンジがしたいん?」
―――ヤバい。
ちょっとイラついて、キツめに言ってしまった。言ってから後悔する、オレの悪いクセだ。
内田さんは、貝ボタンをいじるのをやめて―――
「うん」
やっぱり短く答えた。
「貝ボタンはずっと使えるねん。ホラ、縄文時代とかの貝塚からも、貝がらって出てくるやん? 貝は腐らへんし、土にも還らへんから、割れへんかぎりずっと使えんねん」
ジャラ、ジャラと、〇や□のボタンを袋にもどす内田さん。
ジャラジャラジャラ。
「靴下はちがうねん。しょっちゅう買い替えるもんやん? せやから、とにかく安いのが喜ばれんねん。ええもん作っても、選んでくれんのは、履き心地を優先して買う人だけやねん」
ジャラジャラ……ジャラジャラ。
「それでも選んでくれる人がおるかぎり、奈良の靴下も、貝ボタンも……無くならへんと……思う?」
「……いや、さあ?」
なんだ、こりゃ?
内田さんは、いったい何の話をしてるのか。
「……なあ、ええかげんに質問に答えてくれへんけ?」
またキツい言いかたをしてしまう。
内田さんの答えは―――
「おじいちゃんの貝ボタンな、たまたま家の押入れから出て来てん。187個だけ……最後の在庫やねん。ぜんぶ市場に出してあげたい思って……近所中の洋品店とかに売りに行ってん。買ってくださいって」
まるで押し売りだ!
「せやけど数が中途半端すぎんのと、大きさ違うやつばっかしやろ? どこ行っても、買い取れへんて断られてん。私は途方に暮れてん」
お前はマッチ売りの少女か。
「せやから、うちの靴下につけられへんかな?」
「あのやあ……」
頭が痛くなってきた。
内田さんがなにを言いたいのかは、もういい。
靴下。
使い捨てを前提にした消耗品。
貝ボタン。
永久に使える装飾品。
こんなもん同士をくっつけて、どうすんの?
いや、それ以前におかしいだろ!
「駅からずっと聞きたかってんけど……なんでそれをオレに聞くの?」
おまけに家まで連れて来て……とは、さすがに言わなかった。
「だって……」
ふらり、と内田さんがオレの顔を見る。
身長がそんなに変わらないからか、目が合う。きれいな目―――
「だって、その……描いたやろ? マンガに」
え?
耳をうたがう。
いま内田さんは、なんて言った??
「夏休みにマンガ描いたやろ? ほら、大きいロボットが出てくるマンガ」
……待ってくれ。
「待って、なんで……じゃない。いえ、漫画なんか描いてませんよ?」
背中に、汗がにじむ。
いやいやいや、なんで……いやいやいや。
「えーっと、なんのこと? オレは漫画なんか、なに言うてんのキミ?」
落ち着け、笑顔……いや、真顔になるんだ。
落ち着けオレ。
内田さんが不思議そうな顔をする。
「なんでウソつくん? マンガ描いたやろ? 男の子がロボットに乗って、異次元怪獣と戦うはなし」
ストーリーの内容に触れながら追及してきた。
おい……ウソだろ?
オレの顔色は、おそらく真っ赤っかだったはずだ。あるいは真っ青か。
だんだん内田さんの表情がこわばってきた。
「あ、あの……も、もしかして、マンガ描いてるのは秘密やったん?」
何か答えなくては。だが言葉が出てこない。
「お、おあ、あああ、な、なぜ……」
ただ、うめき声を発するのみ―――
すごく言い出しづらそうに内田さんは答えた。
「あんな……怒らんといてな? マンガ、あの……サキちゃんに読ませてもらってん」
サキチャンニ、読マセテモラッテン。
サキ―――
早希!?!?
「ああああああのボケァアアアア!!」
オレは叫んだ。
びくりと後ずさる内田さん。
「あの……私、バレー部やろ? サキちゃん、1コ下の後輩やねん」
「ウオアアアアアア!!!」
「ほんでな、その……部室にマンガの原稿持って来やってん。お兄ちゃんが描いたんです、言うて。部活のみんなで、その……読みました……も、もしかしてサキちゃん、だまって持って来やったん? 私てっきり……」
「神よ! ああああああ!!」
叫ぶ。
「ヒッ! あ、あの……マンガのなかに、ヒロインの女の子おったやろ……? すごい、エッチなピチピチのスーツ着た……私、あれを見て……」
「ンモオオオオオオオオ!!」
自らの制服を左右に引き裂くオレ。
ブチンブチンブチン!!
ボタンが全部ちぎれ飛び、何個か内田さんの顔に当たった。
ぴし! ぱし!
「痛っ! な、なあ聞いて……お願いやから、叫ばんといて。服、脱がんといて……き、聞いてる? お願いやから泣かんといて。怖い……」
「あしたは妹の葬式じゃ―――!!」
ガンッ!
ガンッ!!
「サ、サキちゃんを許したって。机に頭突きすんのやめて。お、お父さんに怒られる。工場のもんを壊したら、ほんまに怒られるねん。お願いやから……」
「いやあ、すっかり長居しまして。お邪魔しました、さようなら」
「ま、待って……」
額から血を流して帰宅しようとしたオレを、必死に引きとめる内田さん。
そうか―――そうですか。
ソウイウ、コトデシタカ。
1時間後―――
「ごめん」
「……ごめん」
どちらからともなく謝罪の言葉を交わした。
すでに日が傾き始めているなか、オレと内田さんは工場を出た。
「と、とりあえずウチに来て。手当てと、制服のボタン縫いなおすから……頭、大丈夫?」
「アタマ? うん大丈夫、二重の意味で。それよりハンカチ、血だらけにしてしもうてゴメン」
とぼとぼと工場のとなりの一戸建て……内田さんの家に向かう。オレの足取りは重い。
駐車場を抜けて道路に出て、かなり大きな庭を面する彼女の家へ―――おそらく150メールほどだろうか。いまのオレには果てしない距離に思えた。
なにが悲しいって、内田さんがさっきからオレに気を使いっぱなしだ。情けない―――彼女に借りたハンカチを額の傷にあてながら、思い出していた。
あの惨めさを。
そう。
オレは漫画を描いた。
巨大ロボット兵器「VEL」を操縦し、侵略者から世界を守る高校生のストーリー。夏休みをつぶして描きあげた55ページ。学園ものだ。
傑作だ、自分は天才だと舞い上がり、あろうことかオレはとんでもない愚行に出た。
出版社に原稿を持ちこんだのだ。
新幹線に乗って東京へ。
" 週刊少年ヒート " の編集部まで漫画を見せに行ったのだ。
「すごいぞ! これを本当に高校生が描いたのか!?」
「大変な逸材が来ましたよ、編集長!」
そんな反応を期待していた。
結果は……思い出しただけで首を吊ってしまいそうだ。
「はずかしい」
「な、なんで? なんでそんなこと言うのん!?」
道すがら、ずっと泣きべそかいているオレを、内田さんは「そんなことない」となぐさめてくれた。それがいっそう、みじめな気持ちをこみ上げさせた。
「もうマンガ描かへんの?」
「描かへん……ムリやってん。カエルがさあ、『僕はいつか、空を飛ぶねん』とか言うてたらおかしいやろ? さすがに思い知ったわ」
「でも!」
「なあ、どうしても分からへんねんけど。オレの漫画と、靴下と、ボタンと、いったいどういう関係があるん?」
「それは……マンガのなかにヒロイン出てきたやん? あの女の子の靴下に、ボタンが描いてあったやろ?」
真剣な目で、ヒロイン「小鳥遊 ジュエル」のコスチュームについて話す内田さん。
「私、あれ見て……ボタンと靴下のコラボのこと相談しようと思てん! おじいちゃんの作った貝ボタン、うちの会社の靴下に使うてあげれたら、おじいちゃん喜んでくれる思って……」
オレは首をかしげた。
ヒロインの、靴下……?
ああ、わかった!
あれか!!
ちがう、ちがうねん……
「は、はは……アレね。あれは……ちゃうねん。あれ靴下とちゃうねん。ブーツのつもりで描いてん。はは、は……靴下に見えましたか、そうですか」
死にそうな声で、自分の絵の下手さを弁解する。
内田さんの驚いた顔―――
「え、ブーツ!? ウソやろ、あれはどう見ても靴下にしか見え……な、なんでもない」
あわてて目をそらされた。
もうやめてくれ。
もう、やめてくれや。
「……雑誌の編集者にもメチャメチャに言われたわ。なにが描いてあるのかさえ分からん、みたいなこと」
アスファルト道に出たオレたち。
内田さんの家の門が見えてきた。
集合住宅のオレんちとは、比較にならない広大な敷地―――それがどうした。もう帰りたい。もう、ボタンの全部飛んだ制服のまま、この場から消えたい。
「……あ、あの、靴下とボタンのコラボのことやねんけど……なんかアイディアない?」
「知らんよそんなん。オレ、靴下とブーツの違いも分からんねん」
「そ、それは、私が間違えたんであって……」
「きっとオレには、内田さんちの靴下と、5足で100円の靴下の違いもわからへんわ」
「……なんで、そんなこと言うん?」
会話が止まった。
な?
言ってから後悔する、オレの悪いクセ。
内田さんは、ぱたぱたとオレの前に駆け寄り、そして―――
「自分のこと、そんなふうに言うたらアカン!」
オレを叱った。
なんでやねん。
「そんなふうに言うたらアカン!」
「はあ、そうですね」
よく分からないまま励まされ、いまさら帰りますとも言えないオレ。とうとう家の前まで着いてしまった。
レンガ作りの垣根でなかは見えないが、工場の駐車場に負けないくらいの広い庭があるらしい。門のむこう、20メートルほど離れたところに2階建ての家が見える。
「ごつい家やね……」
内田さんはその言葉に答えることなく、門の片方を開いた。
「入って」
そう言いながら、さきに中に入る内田さん。だまって彼女のあとを追う。
門をくぐり、内田さんチの敷地に入ってオレは……
海岸を見た。
「な、なにこれ……」
目をうたがう。
なんで、奈良に海岸が……じゃない。なんで自宅に海岸が???
いや海岸ではない。
貝がら。
庭に、貝殻が敷きつめられていた。
貝殻のカケラだらけだ。
カケラが地面にバラまかれている。
端から端まで。
隅から隅まで、敷きつめられている。
ところどころ顔をのぞかせる茶色い地面。
あきらかに白の面積のほうが大きい。
地面がキラキラと光る。
夕焼けが貝がらのじゅうたんに反射し、一面が真珠のように光っている。
ガチに真珠色―――
「な、なにこれ……」
息をのむ。
なに、これ??
「これ、ボタン作ったあとの貝がらのカケラやねん」
光る庭に照らされ、内田さんの髪が風にゆれる。
「貝ボタンって、白蝶貝とか高瀬貝みたいな、大っきな貝の殻をくりぬいて作んねん。紙にパンチ穴をバンバン空けるみたいな感じで」
光る庭に照らされ、内田さんのスカートが風にゆれる。
「おじいちゃん、ボタン取ったあとの貝殻のクズを、全部庭に捨ててたらしいねん。いまやったら産廃法に引っかかるんやろうけど。昔はそういうの、ええ加減やったらしいねん」
風にゆれる。
「私が生まれたときから、ウチの庭こんなんやねん」
「……メッチャきれいやん」
本心だ。
こんな美しい庭を、かつて見たことがない。
だが内田さんは、さみしそうな顔でオレを見つめ返す。
「……来月になー。この庭の土、ぜんぶ入れ替えんねん」
「な……なんで!? こんなキレイやのに!」
今日、いちばん驚いた。
こんなキレイな庭を、つぶす??
「私のお姉ちゃんなー、離婚して、来月に子供連れて戻ってくんねん」
「……」
「姪っ子、2歳やねん。この庭で遊ばせて、コケたりしたら危ないやろ? 一面、石ころだらけみたいなもんやん? せやから……」
「……そう。そやな。そら、しゃあないわ……」
目がくらむ。
虹。
地面に虹を見た。
オレは……
「ボタンの使い道、なんでもええんちゃう?」
なぜか、わけのわからないことを口にしていた。
「え?」
目を丸めて聞き返す内田さん。キョトン。
「その姪っ子、2歳なんやろ? 七五三の服とか作るときに、貝ボタン使ったげたらええやん」
「……」
「テディベアにつけたりとか」
「……」
「内田さんも将来、スーツとか作るやろ? 使ったらええやん」
「まって。待ってよ」
「あのボタンは在庫やないよ。遺品やん。きっと内田さんのために、おじいさんが残しといてくれたんやで」
「……そんなん、どうでもええ」
「どうでもようあらへん! オレは―――」
「血! おでこ、血ィめっちゃ出てる!!」
内田さんの悲鳴で、オレはようやく気づいた。
視界が真っ赤だ。
夕焼けのせいじゃなかったのか。どうりで、ものすごく頭が痛いと―――
あら?
立っていられないぞ?
足もとを見ると、血だまりが出来ていた。さっきから感じていた顔面の違和感は、血の感触だったらしい。ボタボタ。
「オレいま、どうなってる?」
笑顔で聞いてみた。
青ざめた顔の内田さんが、絶叫しながら家に駆けこんだ。
「お、お母さん! 救急車……!!」
オレの意識はここで途切れた。
目覚めたのは深夜、病院のベッドの上だった。
3か月後の、日曜の朝。
ひまつぶしに出かけたショッピングモールで、とつぜんオレは声をかけられた。
「あー、おはよう!」
振り返るオレ。
「あ、やあ。おは………!! ………よ……う」
「? なに驚いてんの?」
驚いたどころじゃない。絶句した。
内田さんが子供を抱っこしているではないか。
いやいやいや。
「えーっと、誰?」
「なに言うてんの? 私やん」
すっとぼけた会話。
「いや違うがな。その子……あ、もしかしてお姉さんの? え、その子と2人で来たん?」
「まさか。お姉ちゃんとお母さんと4人で来てん。いま、二人とも美容院行ってんねん。ホラ、奈海ちゃん。こんにちはーって」
内田さんに抱かれる幼児が、オレをじっと見つめる。
おお、なんと愛らしいのだ。
天使―――
「ナミちゃんって言うの? こんにちは…………え、なんで無視すんの?」
最高のほほえみをスルーされるオレ。
ナミちゃんは、ずっとオレのひたいを眺めている。興味深そうに。
なんでこの人、おでこを縫ってんの?
スベってますよ、あなた。
みたいな目でオレを見ている。だれがギャグで顔面を縫うか、バカタレ。
純真な視線に耐えかねて、オレのほうが目をそらしてしまった。
すると―――
「あ、ボタン」
ナミちゃんの靴下に、ボタンを2つ見つけた。
小さな幼児用の靴下には、かわいいクマちゃんの柄があった。
クマの目は、小さなボタン2つで作ってある。
これってもしかして。
「これ……おじいさんの? この靴下、内田さんが作ったん?」
内田さんはすこし照れたような笑いを見せてくれた。
「うん。ど……どうかなあ?」
「めっちゃかわいいやん! ていうかコレ……すごいな」
本心だ。
まるでプロ……
ナミちゃんを抱く内田さんの顔が、ほころぶ。
「これ作ったときなー。私、天才ちゃう!?みたいに舞い上がってしもてんやんかー。そ、そやけどお父さんに見せたら、「売りもんにならん」て言われてやー。で、で、でもお姉ちゃんがなー。写真撮ってインスタに上げてくれてんやんかー。妹が作ってくれましたーって。めっちゃ、いいね!ついてやあー……」
嬉しそうに話す。
興奮したように、照れているように。
誇りに満ちているように、いっぱしの職人のように―――夏休み、オレが本当に描きたかったヒロインのように。
「ほなオレ、買うもんあるから行くわ。ナミちゃん、バイバイ…………聞いてる?」
ナミちゃんに別れを告げるが、ぜんぜん反応してくれない。
「あははは。ほんならまた学校でなー。ほら、お兄ちゃんにバイバイーって」
ナミちゃんの手を取り、ちょいちょいとオレに振ってみせる内田さん。
無表情で手を振らされるナミちゃん。
二人に手を振りながら、オレは笑う。
笑って、背を向けた。
「今日、ナンボ持って来たっけ……」
財布の中身を気にしながら、文具売り場に向かった。
漫画の原稿用紙なんか、売ってるかなあ?
「春休みは、なに作って遊ぼうかな」
▼著者プロフィール
古川アモロ
『なんでも知ってるお姉さん』で『文学フリマ短編小説賞』の優秀賞を獲得。
コメディ長編『チャッカマン・オフロード』などを執筆する一方で、秀逸なイラストも手がけるなど、マルチな才能を発揮している。