黄色い猫と黒歴史① 著者:古都ノ葉
・舞台はは大阪府大阪市 少彦名神社
・利用する伝統芸能伝統工芸として大阪張り子
あたしは地下鉄「北浜」六番出口をいつも駆け足で登る。勢いつけなきゃビルの林に圧倒されてしまう気がする。スカートを気にしながら階段を二段飛ばし。風に少々吹き戻されたけれど地上に今日もゴール。
そしてスタートだ。
「天野センセ、ミコト行っきまーす!」
あたしは高校の指定カバンを握りしめる。
今日から期末試験なので帰りが早い。空はまだまだ明るくて腹が立つほど青かった。
歩道に敷いてある石畳を蹴り走る。この時間は人通りが少ないからオッケー。さすがに誰かがいると遠慮勝ちに歩きますよ。一応、女子高生ですから。ごほん。
勢いをつけ、最初の辻を道なりに曲がるとそこには〈神農さん〉の愛称で親しまれている少彦名神社がある。
少彦名という神様は国造りの協力者で、医薬分野を得意としているらしい。たぶんかなり偉い人――いや、神様だ。
神社はオフィス街の谷間にあり、出入口は見逃されやすい。道に面して鳥居はあるが、三人ほど並び通るのが精一杯の大きさだ。幼い頃、祖父に連れられて来た記憶がなければ前を素通りしてしまったに違いない。
そんなビル街にあるからあたしはマニアック向けの神様なのかなと思っていたが違う。知らないだけでこの神社がある道修町も豊臣秀吉の商業政策で薬種商が集められた由緒ある場所だった。
まあ、鳥居も看板もあるけれど、どちらかというと隣にある〈くすりの道修町資料館〉の方に目が行くだろう。資料館の入口にはしめ縄をつけた金色の虎が飾られ、寄らば噛むとばかりに睨んでいるのだから。
「ミコトちゃん、こんにちは。早いねぇ」
神社横の社務所のおばちゃんは顔見知りだ。二週間毎日通って挨拶していたら仲良くなった。見事なまでの白髪を上品に結い、竹ぼうきでゆっくりと境内を掃いている。
「こんにちは!」
私の知識はほとんどがこのおばちゃんからだ。ちなみに少彦名神は日本医薬の祖神。一緒に祀られている神農炎帝さんは中国医薬の神様にあたる。で、お二人はそっち方面ではやり手のようだ。
「テスト期間やから学校はいつもより早よ終わりました。お参りしてからセンセの所に行きます」
「センセってミコトちゃんのええ人やね。そういえばこの間の御守りは効いた?」
「それが、まだあげてなくて」
「あらあら」
「入院してはるから。それに四人部屋やから渡しにくいし」
ここでは病気平癒を願うことができる。センセこと天野裕士先生はあたしのお隣さん。小さい時から勉強を教えてもらっていたからこの呼び方が定着している。
もっとも今、彼の仕事は大学の講師で先生だ。頭はとんでもなく良いが、反対に身体は弱めだった。特に胃腸が弱いらしく、今回は胃潰瘍で入院しているらしかった。
虚血性腸炎や喘息等で経験をつんでいるから慣れている、なんて本人は涼しい顔で言うけど、あたしは心配で心配で。
有難迷惑かも知れないけど。ま、いいや。勝手に治癒祈願だ。
なにしろアホの代表格のようなあたしが高校に通えているのはセンセのおかげ。
だから毎日学校帰りにお参りに行き、センセの病院にお見舞いをする。
義理堅いぞ、私!
「ほな今日も拝ませていただきますね」
手水舎で手と口を浄める。
そしてお賽銭を入れ、鈴を鳴らし二礼二拍手一礼。
天野先生が早く健康になりますように。あたし小屋根ミコトの健康を三分の一くらい分けてもええですから、先生が元気になって退院できますように。
あたしは頭を思いっきり下げ、一生懸命拝んだ。
そう――先生は恩人だけなやない。あたしは四歳の時からセンセが好きやった。
四歳といえばまだ記憶が曖昧なことも多いけれど、あたしはセンセが引越しの挨拶をおばちゃんとして来たことをよく覚えている。センセは十歳ちがうから彼は当時十四歳――中学生だった。
あたしは幼稚園で男子と遊具の取り合い・殴り合いをしていたから、物腰の優しい中学生は大人かつ洗練された紳士に見えた。目線を合わせ「初めまして」と言ってくれた時、冷蔵庫のプリンをナイショで食べた時よりドキドキした。
早熟だったあたしは一目で恋に落ちたのだ。
だが……哀しいかな、センセが私をそういう目で見てくれたということはない。
彼はあくまで優雅な物腰で接してくれた。あたしはと言えば小学校まで顔を合わせば「お嫁さんにして」と告っていた痛いお隣さんだった。でもさすがに卒業して止めた。
ストーカー規制法が適応されるで、と母に笑って言われたこと。センセの友達から〈へんな子〉視線が投げかけるようになったことがきっかけだ。
センセは天然らしく「この子は面白い子やろ」と気にせず笑っていた。けどさすがに思春期の入口であたしはガキっぽいことに気づいた。すると今までの自分が驚くほど急に恥ずかしくなった。そして「妹みたいなもんやから」と言われてズッキン。痛みを感じて自分から離れた。
この辺りは触れられたくない過去でもある。
そしてあれから数年。センセが病院に頻繁に入院することになってあたしのタマシイに火が付いたというか何というか……高校三年生、またせっせと病室に通っている。
センセの入院している病院の規模はかなり大きい。近鉄上本町駅から周回バスが出ているくらいだ。
面会時間は午後二時 ~ 七時。お昼ご飯が終わってゆっくりしている頃から始まる。今は一時半だからちょうどいいだろう。
この病院は紹介状がないと診てくれないらしく、当然のことながら病状は重い人や救急性の高い人が多い。入院は階で科が分かれているらしく――例外もあるとは思うけれど、センセの四人部屋はみんな内科関係の病気を持っていた。病名は知らないが話からすると比較的長めの入院をしている人達のようだ。
センセに教えてもらっている病名は胃潰瘍だけど、本当かどうかはわからない。この辺りはお隣さんの限界でもある。
そう思うから神農さんへのお参りは止められないのだ。
「病気、早く良くなりますように」
◆
「おう。ミコトちゃん、ようお越し」
最初に声を掛けてくれたのは病室で一番入口側にいるハ――いや髪の毛が遠くに旅に出たおっちゃんだ。いつも笑っているので勝手に心の中でニコさんと呼んでいる。
その前でこちらを向いているのが身体も目も唇も細い通称、糸さん。
窓際右奥であくびをしている白髪頭がシロさんで、左奥で本を読んでいるのがセンセだ。
みんな本名を聞いたら教えてくれるだろうけれど、自分から名乗ってくれない。なんとなくあたしも積極的にたずねてない。ベッドに小さく書いてあるけれどあえてジロジロ見るのもなんだかなぁ。ここはちょっと難しい。大阪人は図々しいとか聞くけれどあたしは違うと思う。
「みなさん、調子いかがですか?」
あたしは手を振りながらセンセの元に小走りで行く。
センセは銀ぶち眼鏡で――けれど顔色は紙のようで。今日は点滴をしていた。
食事が取れていないのかな。ちょっと胸がチリッとなる。
さあ笑顔。笑顔になろう。
「あぁ、ミコトちゃん」
本から視線を外し、センセはあたしを見た。あたしはちゃんと微笑めているだろうか。少し不安になる。
「よう来てくれたねぇ」
センセは京都生まれだ。大阪生まれ大阪育ちのあたしと違って言葉はどこか柔らかく、はんなりして聞こえる。まろやかな音楽を耳にしている感じ。病気でなかったらずーっとしゃべっていたい。
「今日からテストやさかい、早いねん。昨日そう言ったで」
「んー。そうやったっけ」
普段は学校が終わってからだからあまり会えない。
「忘れるなんていややなあ。お陽さんに当たってボケたんとちゃう?」
「――はは。ミコトちゃんはキツイなあ。天野クンも大変や」
ここで笑って話に割り込んできたのがニコさんだ。
「若い天野クンがボケてたら、ワシら何やねん」
「半分神さんとちゃいますか?」
「棺桶に片足突っ込んでるってことか」
「まさか。そんな意味やったら仏さんって言います」
「ほな褒め言葉か。人間を超越しとることやな」
あたしが大きくうなずくとニコさんは膝を叩いて喜んでくれた。
四人は四つ角にベッドを置かれ、カーテンでプライベートスペースに分けられている。でもここの四人はカーテンを開けっ放しにしていた。よくわからないが〈退屈を共用している〉仲らしい。まあ寂しいんやろなと思う。そこはあえて突っ込まない。
センセの友達はあたしの友達でもある。最初はぎこちなかったが、今は一応、気軽に話せる。というか話してもらっている。
「今日は現代国語やった。現国は得意な方やからええけど明日の数Ⅱはあかんねん。教えてくれるって約束やろ。忘れたら困るわ」
「そうやったねえ」
センセは思い出したのか微笑む。心なしか頬に赤みがさした気がした。
あたしはカバンから教科書を取り出しながらベッド横の小さな椅子に座る。
「早よ良うなってよね。このままやったらあたし卒業でけへんから」
これは遠回しのエール。だけど真実要素も多分にある。あたしは昔から数字を見ると蕁麻疹が出て身体がかゆくなるのだ。まだ小学校のクイズレベルの時は面白かったが、微分積分なんて必要性すらわからない。
「ミコトちゃんは文系か?」
シロさんがいきなり聞いて来た。
「あ、はい。でも英語が全然駄目で。文系の大学に行くには致命的です。自分でもよう進級できているか不思議やと思てます」
英語は数学と並ぶ苦手の両巨頭。
ラスボスはせめて一匹にしたいんやけどうまくいかない。
「英語か。俺も苦手だったなあ」
シロさんはため息と共に天井を見上げた。
「あたしは英語に大阪弁の訛りがあるって言われました。これどう思います?」
「サイコーやな」
いや、それ最高じゃないし。
あたしは腕を組むシロさんに肩をすくめてみせた。
「ほな大学はどこ行くの?」
糸さんがか細い声で言った。
「うーん……」
あたしはちらりとセンセを見た。
実はまだ決めていない。好きだけで進学するよりできれば将来の仕事に関する勉強をしたいと思っているが、その肝心の仕事は……何がやりたいかわからない。
糸さんは痛いトコついて来るなあ。
「……」
「あー、ごめんやで。変なこと聞いて。そんなに簡単に決められへんなあ」
「いいえ。これって才能、あたしにないから」
てへへと誤魔化し、頭を掻く。
あたしほんまに才能とか取り柄って――ないなあ。
「才能なんて思いこみだよ」
振り向くとセンセがゆっくりと微笑んでいた。
「思いこんだら才能になる。ミコトちゃんは頑張り屋さんやから、それも才能のひとつ」
「あ、そうか。才能のないのも才能のひとつか」
ボケたつもりはないけれどみんないっせいに笑った。少しくすぐったくて、不思議と嬉しい。
でも全員病気で入院しているんだな。
こんなに優しいのに。
センセだけのお見舞いに日参しているのだけれど、他の患者さんも治って欲しい。なんてあたしは思っていることに気がついた。
もしも。
もしもセンセが治っても。
他のおっちゃんが治らなければ嫌だ。
その逆も嫌。
神農さんは全員助けてくれないかな。
何もできないくせにあたしは――何もできないから、あたしは曖昧に笑い前髪を指で摘まみ、「明日もお邪魔します」と口にした。
◆
少彦名神社で魔除けとして張り子の虎が売られている。
その売られている虎の正式名称は〈病気平癒大福虎〉だ。張り子人形自体は子供の玩具として桃山時代からあったらしいが、江戸時代末期(一八二二年)コレラによって多くの死者が出た時に〈虎頭殺鬼雄黄圓〉という薬で鎮めて以来、名前に引っ掛けて神社で虎の縁起物として発売されたという。この張り子を〈大阪張り子〉と呼んでいる。決して阪神タイガーズグッズではない。
形としては割とメジャーだ。胴体に頭をぶら下げており、首がゆらゆら揺れている。地方の民芸品にありそうだ。しかし〈病気平癒大福虎〉は三十三工程の手間がかかっているというれっきとした御守りだ。手作りだから顔がみんな違う。
あたしの持っている虎はどちらかというとタヌキに似ていた。抜けた顔でのほほんとしており、神様のお使いという威厳はない。どちらかというと和み系だ。
そのへんのゆるキャラには勝っている気はするけど……どうだろう。
居間にごろんと横になって眺めてみるとなんとなくインスピレーションがわいた。
名前はポン太郎。
やだ。アホっぽい。タヌキキャラ。
「だがそれがいいっ!」
思わず叫ぶと台所にいた母が慌てて飛んで来た。
「どないしたんや。人生に絶望したんかっ」
いやいや、まさか。
「わかった。試験の成績がまた悪かったんやな」
あぁ母よ。
一人で納得しているが、まだテストは返却されていない。
「違うわ。この虎さんのこと考えとったの」
ブツブツ言っている母にあたしは張り子の虎を見せた。
「なんや。神農さんとこの虎やん」
「やっぱりお母さんはわかってるなぁ。可愛いやろ」
「もしかして天野さんの息子に?」
「う……」
さすがに母は鋭かった。
「あそこの息子さん、また入院したて聞いたさかい……そうか。ミコトはその張り子の虎をプレゼントする気やな」
「そう」
「ええこっちゃ」
大雑把な母はあたしの気持ちは気付いていないだろう。せいぜいご近所のよしみだと考えているに違いない。
「ええことか……。まあ、そうやねんけど」
「何や。急に暗い顔になって」
母はあたしの顔を覗き込んだ。
「この大阪張り子の虎、センセにあげるのは正解。けど、会いに行くたびにどんどん他の人にも治って欲しくなる。なんかセンセだけにあげられへん気分になってる」
「ほなみんなに配ったら?」
「うん。けど、信じてない人はこういうの迷惑だろうし置くところにも困るだろうし……」
人数分、この虎を買うことはあたしも考えた。
きっと「嬉しい」とみんな大人だから一応言ってくれるだろう。けれど、それは押しつけにならないだろうか。
それに神社の御守りは病室に飾るのは不釣り合いの感じもする。一生懸命治そうとしているお医者さんや看護師さんが見たら嫌な気にならないだろうか。神頼みとあからさまにわかるものは不愉快と思う人もいるに違いない。
そしてもうひとつ宗教問題もある。センセは別にして他の三人の信仰まで聞いていない。キリスト教の人もいるかも知れないしイスラム教かも知れない。シロさんあたりハンダラボダラ・スッテンコロリ教だったりして――これは冗談だけど。
「わからんようになってしもたわ」
あたしは畳に突っ伏した。
「センセだけでも良いかも知れんけど……けどセンセだけに渡したら、なんや他の人を見捨ててる気になるし罪悪感出てくるし」
せっかく買ったのにあげられないことにモヤモヤしている。ポン太郎なんて変なあだ名つけてゴメン。センセに貰って欲しい気持ちが暴走したんや。最初は何も考えていなかったけれど、イザとなると気がひけてしまって苦しい。
「あたし、なまじ元気やから、あかんのやわ。入院してる人の気持ちに寄り添えない」
「せやけど天野さんの息子には恩があるやないの。他の人と違って当たり前やんか。ぐちゃぐちゃ考えているんやったら、さっさとあげればええやん」
母はあたしの顔をきょとんとして見ていた。
「そんなこと言うても」
確かにセンセに〈恩〉という観点からなら他の三人よりずっと助けてもらっているけれど。
「そういえば小学二年の時に学芸会の練習の付き合いをしてもらったりしたっけ」
あたしは記憶の奥を探った。
「確かミコトの役は松の木Bやったな」
「うん」
あの時はありがたかった。
人間でもない役を振られてパニックっていたから。
「四年生には夏休みの絵の宿題も手伝ってもらったし」
「ミコトが池に落としたやつやね。あの時に限らず替わって描いてもろとったやん」
だっけ?
「カルピスの原液。ほら、絵に盛大にぶっかけたこともあったし」
「お母さん、変なこと思い出させんといてよ」
確かに天野センセには勉強以外でも迷惑はたくさんかけた気がする。
あたしは大阪張り子の鼻を指でつんとした。
ゆらゆらゆら。お祖父ちゃんが神農さんは病気で苦しんでる人を助けてくれるで、祖父ちゃんも入院したけれどお参りをもろて治ったで、と言っていた。だから今回、センセの入院に参拝を思いついたのだ。
コレラを大阪から退散させてしまった神農さん達。おまけにお祖父ちゃんの病気もやっつけてくれはった。
あたしは信心深いわけではないけど、力を貸してくれるかも知れない。そう思ってお参りしている。
けど付け焼刃は確かだし。
いきなり「よろしくお願いします」は都合が良すぎるかなあ。
あたしはまた落ち込んだ。
横で母が机の上で張り子の虎をついた。
頭が揺れる。ゆっくり揺れる。
目が合う。途端、大阪張り子が笑った気がした。
「これや!」
あたしは立ち上がった。
「どうしたんやミコト」と母がオタオタする。が、あたしは「ええこと思いついたんやっ」と握りこぶしを作って見せた。
すごいすごいすごい。あたしって天才かも。
「ちょっと買い物行って来るわ」
「はあ? 今からか?」
「うん。これや、この手があったんや」
あたしは明日の数Ⅱテストをこの時に捨てた。
「これはお正月限定 金・白銀バージョンです」
▼著者より
作品の性質上、方言を多用していますが、読みにくいのはご容赦ください