私の愛する妻と娘へ 著者:成宮りん
娘の私が言うのはおかしいかもしれないけれど、母は綺麗な人だった。
【すっぴん】の本来の意味に沿っていたと思う。
そんな母は私の自慢だった。
5歳の頃に父と死別してから、母は女手一人で私を育ててくれた。
親子2人の生活は苦しかった。
化粧品に回す金銭的な余裕なんてなかったのだと思う。だから、母がお化粧をしておめかしをして外に出るのは、参観日の日ぐらいだった。
それでも。
ある日を境に母は、もっと綺麗になった。
恋をしたのよ、と母の友人であり職場の同僚の女性が言った。
その人がこれから私の父になるのだろうか。
母が幸せになれるのなら、それでいいと思っていた。
あの人と出会ってから母は化粧をするようになった。
素顔でも綺麗だった母は、もっと綺麗になった。
その人を私は【おじさん】と呼んでいた。
おじさんは初めの頃は時々、次第にちょくちょく、その内頻繁に母の元を訪ねてくるようになった。
いつも私や母のためにお土産を携えて。
一番嬉しかったのは習字の筆セットだ。
それは当時こそそれほど全国区で知られてはいなかったものの、今はかなり有名になった熊野の職人が作った高級な筆だった。
安芸郡熊野町。
この町で筆作りが始まった歴史について、おじさんはいろいろと教えてくれた。
四方を海抜500m前後の山々に囲まれた小さな高原盆地、広島、呉、東広島の三つの市に囲まれるように、南北に細長い形をしている広島市と呉市に挟まれた盆地で、いわゆるベッドタウン。
人口は2万3千500ぐらい。案外小さな町だということ。
人口の内約2千500人が筆産業に携わっていて、伝産法により伝統工芸士に認定された、筆づくりの名人が22人いること。
筆の原料となる動物の毛は、主に、ヤギ、馬、いたち、鹿、タヌキなどで、ほとんどを中国や北アメリカから輸入している。
筆の軸は、近くの岡山県や島根県などから仕入れており、台湾、韓国からも輸入している。
熊野町には筆の原材料となるものは何一つないのに、どうして有名になったかって言うとね……。
おじさんは笑いながら続けた。
要するに、これと言った産業のないこの町では農業が主な仕事だったんだけど、それだけじゃ生活が苦しいから。
暇な時に他の県から仕入れた筆や墨を売って商売をしていたんだよ。
それから、広島藩の工芸の推奨により、全国に筆、墨の販売先が広がって本格的に筆づくりの技術習得を目指すことになった。
村の若い人達が、村を盛り上げようって、地元に筆作りの職人を招いて研修を受けたんだとか。
昭和50年には広島県で初めて通商産業大臣により伝統的工芸品に指定を受けて、大いに盛り上がり、今に至る。
ちなみに機械で大量生産することができないから、すべてが職人の手作りなのだと。
子供だった私には値段のことなどわからなくて、母親がひたすら恐縮しているのを見ているだけだった。
なお、その時、母がおじさんからもらったのは化粧筆のセットだった。
おじさんから筆をもらった翌日、私は嬉しくて仕方なかった。
今までは習字のセットといっても、母の同僚の娘さんのお下がりを使っていたから。
家が貧しいことでバカにされたり、からかわれることがよくあった私にとって、それは本当に誇らしいことだった。
だけど。
新しい筆は心ないクラスメートに奪い取られて、折り曲げられ、使えなくなってしまったのである。
おじさんに何て言って謝ったらいいのか、気持ちが塞いだ。
その日も家に帰るとおじさんが来ていた。
そこで私が学校であったことを正直に話すと、おじさんは怒った。
私にではない、筆を折ったクラスメートにだ。
おじさんは優しいけれど、割とすぐ熱くなる人だった。
母が彼を宥め、そうして翌日には再び、新しい筆を持ってきてくれた。
今度同じことがあったら、絶対に犯人の名前を言うように。そう付け加えて。
私がすぐに新しい筆を持ってきたのを見たクラスメートはびっくりして、それ以来もう何も言わなかった。
※※※
「あれ、使わないの?」
古い化粧ブラシを使っている母に、私は言った。
「おじさんがせっかくくれたのに、まだそんな古いのを使っているの?」
おじさんからもらった化粧筆は未だ、箱に入った状態で保管されていた。
もったいなくて、と母は笑う。
それにね、と次には沈んだ顔になった。
「いろいろと……どうにもならないことがあって……そんな気になれないの」
当時は、母が何を言わんとしていたのかわからなかった。
けれど今ならわかる。
母の【恋】は、堂々と人目を憚らずに口にできることではなかったのだと。
おじさんは母を大切にしてくれる。
母もおじさんをすごく愛している。
なのに、どうして2人は未だに【恋人同士】なのだろう?
おじさんの【お嫁さん】になることができたら、その時にはきっとこれを使うわ。
母はそう言って笑った。
結局、母がその化粧筆を使うことはなかった。
おじさんとの【恋】は母の死を持って終わりを告げたから。
病床で母は私に言った。
「あなたがお嫁に行く時にこれを使って。とても品質がいいからきっと、長い間使うことができるわ」
そんなもの要らない。
元気になって。
だけど私の声は届くことがなかった。
あれから何年経っただろう。
今日これから私は、大好きな人の元へ嫁いでいく。
今、私はおじさんが母に贈った化粧筆の箱を開けている。
柄の部分に名前が彫ってある。母の名前と私の名前。
そうして筆の下に一枚の手紙。
【愛する妻と娘へ 長く大切に使って欲しい】
ありがとう、おじさん。
あなたは私の父でした。
この筆を私も大切に使おう。
もし私達に娘が産まれたら……その子にも使ってもらえるように。
私はそう心の中で念じつつ、唇に熊野筆で紅を引いた。
▼著者プロフィール
成宮りん
「ファザコン中年刑事とシスコン男子高校生の愉快な非日常」シリーズ
https://ncode.syosetu.com/s3504d/
など、推理小説を中心として数々の作品を手がけている。
柔らかなテイストのイラストや「小説家になろう」の活動報告での「エビ」ネタも秀逸。