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銀の追憶

作者: マヅル

   プロローグ

 


 ぼんやりと風景を眺めていた。森というほど茂ってはいない林と、ごうごうと重低音を響かせて落ちてくる巨大な滝。滝壺の周りは木が少なく、日光が強く差していた。

木に寄りかかり煙草を吸いながら飛沫を楽しむ。降ってくる水流が陽光に煌く様は、ただただ美しいとしか言いようがない。

「銀塩じゃ、これは映せないな」

 俺は小さくそうつぶやいて、煙を吐き出す。

 銀塩はあくまで、静止画だ。それでは表せない動的な美が、実は俺は好きだった。実際にこの目で見たものにこそ価値がある。本当に人間を感動させるのはその時その場所にいることだ、というのが俺の持論だ。

 目の前の滝はそう高さも水量も幅もかなりある。滝壺から散る飛沫が空気を潤していて、心地よい。絶えず響く轟音でさえも、静けさの一部のように感じられる。

 こういう場所はいい。特に、過酷な旅の中で見つけたのなら、それは神の恵みだとさえ思っていた。普段は神様など全く信じてはいないが、こういう時は少しばかり祈りと感謝をささげてもいいのかもしれない。

「つっても、いつまでもここで油を売っているわけにはいかないんだよな……」

 口に出してから、しまった、と思う。

 この仕事を始めてから、やたらと独り言が多くなってしまった。悪い癖ではないと思うが、誰かに聞かれたらさすがに恥ずかしい。

 側に転がっている背嚢からヒュウの革でできた水筒を取り出す。ここを動く前にできるだけ水を蓄えておかなければならない。

 なにせ俺の目的地は、ここから更に西へ行った先にある砂漠のど真ん中なのだから。

 


俺の名前はジグ=ウェスタ―という。銀塩家という仕事をやっている。銀塩というのは風景を切り取り保存するという魔法のような技術だ。銀塩はここ五十年で急速に改良されてきたものだが、思い出を残す、記録を残す、あるいは芸術として最近ではかなり一般的なものになっている。といっても民間の人間が銀塩を撮るための銀塩機を購入するにはまだまだ値が張る。そもそも普段銀塩を撮りたいわけではなく、何か特別な時だけという人はかなりの数いて、その代理として銀塩家という職業が成り立っているのだ。だから一般的な銀塩家というのは大都市にいて人物だけをとる。

 しかし俺の場合は、少し事情が違った。俺がやっているのは、さっき上げた中でいえば、記録を残す、という仕事になる。俺は王都という大都市の生まれだ。煉瓦造りの街が何十超杖(一超杖が一キロメートル)にも広がっていて、この辺りの国のどの街よりも人が多い。技術もかなり発達してきている。例えば王都の技術で鉄車ができて、今までは馬車で何週間もかかっていた場所に一日二日で行けるようになった。他にも、俺はよく知らないが、空を飛んだり鉄車を個人使用できるように改良したりということもやっているらしい。こういう、技術や学問の殿堂のような場所が、王都にはある。大書塔、というところだ。文字通り長大な塔であり、階数だけでも三十階以上、高さが三百杖にも上るという。

しかし、当たり前だが大書塔の真のすごさはその高さではなく、そこに集まる人間達の頭脳だ。王都のみならず、帝国内の天才たちが集まるのが大書塔なのだ。まあ、身分の壁というのはどうしても残ってしまうけれど。

俺自身は頭脳は人並みだが、銀塩家を目指して、かつ旅好きが高じて様々な場所へ足を運んでいたことが幸いした。どこで知ったのかはいまだにわからないのだが、俺の撮った銀塩を見て依頼をしたいと言われたことがきっかけだった。

 大書塔にエタ=マクスウェル、という女がいる。彼女がいわゆる俺の雇い主にあたる。マクス(と一応の親しみを込めて呼んではいる)は好奇心が旺盛な癖に外へ出ることを嫌う。だがその好奇心の及ぶ範囲はそれこそ無限であり、動植物はもちろん、地学、天文学、民族の文化や歴史、自然現象、とにかく世界中のあらゆることを知りたいというのだ。

「私はね、いつか『偉大なる書物』をこの手で書くのが夢なんだ」

 始めてマクスと会ったとき、彼女はそういっていた。

「『偉大なる書物』、知っているかい? 大昔の、私のような変人学者が唱えた空想上の書物なんだがね。そこには文字通り、何でも書いてあるんだ。この世界のすべてが。この世界が蓄えてきた知識のすべてがそこには記されている。もちろん、そんなものは現実には存在しないし、人間がどれだけ技術を発達させたとしても実現不可能だろう」

「じゃあ、やっぱりあんたにも無理なんじゃないか?」

「無理だというのと諦めることは、また別の話さ。そもそも、夢なんてものは叶わないほうがいいんだ。夢は叶えた時よりも見ていた時の方が、何百倍も楽しいじゃないか」

 それからというもの、俺はマクスの無茶ぶりに淡々と答えている。惚れてしまったのだ。夢を見続けるその姿に。どんな人間よりもかっこいいと、そう思ってしまった。きっとそれは気の迷いだ。

だから俺の仕事は、様々な場所へ行ってはマクスの興味を持ったものの銀塩を撮ることだ。「君は私の眼なんだよ」。俺が文句を言うとマクスはいつもそう返してくる。

 今回の依頼も、例に漏れず骨を折るような過酷なものだった。

「西の砂漠の真ん中にね、遺跡があるらしいんだ。しかも、今のところ誰にも手が付けられていないという。それで、生態調査的なこともしつつその遺跡を探してほしい」

 その遺跡が何の跡なのかとか、どこにあるのかとかは聞いても教えてもらえなかった。期待はしていなかったから気にしない。なにもしらないまま自分の眼で見た時の方が感動があるだろう? とマクスは言う。



ヒュウの革は少々固く加工しづらいらしいが、かなり丈夫なため長旅では特に重宝する。水筒だけではなく背嚢もヒュウの革をなめしたものを使っている。壊れないことと水がしみこまないことは特に重要だ。もともとが牛の一種で、かつ山中の盆地に生息しているヒュウは外的要因に左右されにくいように革が分厚くなったという。マクスの受け売りだ。

この辺りは砂漠地帯でありながら、見渡せばそれなりに水源や木の生えている場所がある。特にここはこの大きな河――現地の人曰くアカガラ河――があるおかげで砂漠とは思えない程に緑地がある。しかし砂漠の奥へ行けば行くほどそういった場所は少なくなっていく。

王都から八方へ伸びている鉄車の西行きの最終地点はハクロアという街なのだが、そこの人たちは、砂漠の向こうにある国とも多少交流があるらしく、そのため自分たちや交易相手の生命のために街の近くにある水源や緑地の手入れをかなりしっかりとやっているらしい。ハクロアの街の商人が行っていたことだからおそらく本当だろう。

ただそうはいっても、ハクロアの人々が手入れをしている水源より先に行こうとすれば、それなりの危険がある。毒を持った蛇やサソリもごろごろいる上に高温の環境、流砂も場所によっては頻繁に起こるという。

そもそも砂漠というのは方向感覚を見失いやすい。もちろん太陽の方向である程度の方角はわかるが、高温と水分不足、景色が変わらないという特徴から意識が朦朧としやすい場所なのだ。仕事を始めたばかりの時に別の砂漠地帯へ行ったことがあり、その時は辛すぎて何も考えないようにと思っているうちに全く別の方角へ歩いていたということがあった。今では方磁機をこまめに見るようにして南北を常に確認するようにしている。

 それと、今回は長旅になることが予想されたので、あらかじめハクロアの街で荷運び用にキュールという動物を借りてきていた。この動物は脚が短く太い。胴も太く長い感じで、全身が茶色い毛覆われている。顔は縦長で、全体的に猪と馬を混ぜたような生き物だ。体長は約二杖といったところだろうか。

 キュールは砂漠に生きる人間には必要不可欠な相棒だという。俺の借りたキュールは手綱を木に括り付けられてしばらくうろうろしていたが、いつの間にか寝そべっていた。警戒心というものがあまりなさそうに見える。

 俺は水筒に水を汲んでおこうと、滝壺へと近づいた。滝の両側の岩壁は上の方が赤茶けた銅の色が強いが、下に行けば行くほどいくつもの好物が混じっているかのように色鮮やかだ。なにより、まさに壁とでもいうように、まっすぐに上に伸びている。岩が積み重なっているのではなく、地層が断面図として見えている状態だ。上部はどうの赤が強いのに、下の方になると極彩色というか、妙に色鮮やかになる。これは後で撮っておいてもいいかもしれない。

 おそらくもともと何の変哲もない河だったのが隆起して滝のようになったのだろう。俺は仕事柄広く浅くという知識の吸収をしているから、隆起したことはわかっても、何の色なのかわからない。きっとマクスに聞けば嬉々として答えてくれることだろう。まあ、聞く気があるのかといえば特にないのだが。

 滝壺に近づいて腰を下ろす。ここの滝壺は大きく、飛沫に巻き込まれることはまずない。流れているところで水を汲もうとすると、万一水筒を落としたり自分が落ちたりしたときに大変なことになる。

 水筒の口を開けて、そのまま水中に入れた。

「うわっ冷た」

 悲鳴を上げる。それほどに、河の水は冷えていた。とぷとぷと中に水が溜まっていく。水筒の中身が一杯になったのを確認して、口を締めて側に置いた。

「よし……!」

 ふっと気合いを入れて、手で水を掬って、ばしゃん、と自分の顔に水をかけた。

「くうぅぅぅ! やっぱ最高だ」

 いくら木陰にいても暑いものは暑い。本当ならば服を脱いで飛び込んでしまいたい。が、まあそんなことはしない。

 もう何度かやって身体を冷やしたら移動を再開しよう。

 そう思った時だった。

 一瞬。ほんの一瞬だけ、声が聞こえた。悲鳴のような。それが上から降ってきた。

 見上げる。滝の白い飛沫の中に一点、黒い影が混じる。

 どばん! と大きな音がした。

「おいおい、もしかして今のって……!」

 急いで立ち上がる。

 もしかして今のは、子供じゃなかったか?

 浮かんでこない。水面に変化はない。

 やばい。急がないと。

だが、最悪の事態は回避されていた。

 水面でバシャバシャと小さな飛沫が上がった。

「あそこか!」

 俺は上着や靴を脱いで、子供を助けるために滝へと飛び込んだ。



 砂漠の真ん中を俺は歩いている。連れは一頭のキュールと、その背に乗っている少女だ。

 滝つぼで溺れていたのは、褐色の肌に黒髪の少女だった。年のころは十といったところだろうか。目鼻立ちははっきりしているし、体型もすらっとしている。民族衣装だと思われる、見たことのない服を着ていた。なんというか、薄い。下着の上に、絹と同じくらいに薄い長い布を袈裟のように巻いている。袈裟だけではなく、首や顔を守るための首巻も同じ素材でできていた。泥があちこちに付いてはいるが、もとはかなり繊細に織られた上質なものだったのではないだろうか。

だが、何よりも俺の眼を引き付けたのは、その赤い瞳だった。

 俺の住む王都にも様々な人間がいるが、この瞳の色は見たことがない。紅玉のようだ、と思った。この眼は写したい。

「なあ、お前、名前は?」

「うー?」

「うーって……はあ」

 この少女には言葉が通じない。なんとか俺の名前がジグだということはわかってもらえたが、他の情報については全くわからない。

 唯一救いなのは見た目に反しておとなしいというか、従順だということだろう。これで暴れたり勝手にどこかへ行かれたらたまったものではない。仮にそれで死なれたら、まあ俺に責任はないとはいえ、目醒めが悪くなる。

「とはいえ、どうしたもんかな」

 俺の行先はあくまで未発見の遺跡であり、少女のいた場所ではない。一応あの岩壁を迂回しつつ登って河に沿うように歩いてはいるが、どこから流れてきたのかわからなければどこかで放り出すしかなくなってしまう。この砂漠の遊牧民族かもしれないが、今のところそれらしい跡は見つかっていない。もしくは行きは一緒に行って帰りに探すか。それはそれで、彼女の親が可哀想だと思う。しかも俺と彼女ではまず血縁関係があるようには見えない。この状況を全く知らない人間が見たら、もしかしたら人攫いや奴隷商のように見えまいか?

「ああ……めんどくせえ」

「じぐ?」

 ため息をつくと、声をかけてくる。振り返ると心配そうにこちらを見ていた。なんでもない、と笑ってやると少女も笑う。

 なんというか、天真爛漫というのがしっくりくる。

「なあ、そろそろ名前くらい教えてくれてもいいだろ?」

「?」

「あーだから……俺が、ジグ。で、お前は?」

 自分を指さして、それから少女を指さす。キュールの上で少女はそれを真似した。

「いやだからそうじゃなくて……」

「しえろ」

「えっ?」

 唐突な言葉に、俺は思わず聞き返す。

「しーえーろ!」

「し、シエロ?」

「やー、しえろ!」

「そうか、お前シエロっていうんだな……ははっ」

 やっと言葉が通じた、というのがなんとなくうれしくなって俺はシエロの側に行って頭をぐしぐしと撫でてやる。

「やあー!」

「ははは、わりいわりい」

 俺に兄弟はいないが、もし妹がいたらこんな感じなのだろうか。柄にもなくそんなことを考えた。



   二人の短くて長い夜



 砂漠は昼夜の温度差が激しい。昼間はそれこそ焼き殺されるのではないかという程に陽光が肌を刺すが、夜になると一転、太陽が熱をすべて持ち去ってしまったかのように急激に冷える。砂漠の砂は水も熱も長く保つことができない。

「こんなとこにまで人が住んでるっていうんだからすげえよな」

 誰に語り掛けるでもなく、そうつぶやいた。

 時刻はそろそろ後四ノ刻を回る頃だろう。もうすぐ日が暮れるに違いない。あの滝のところから、休み休みではあるが歩き続けているのに全く目的地がわからないせいでかなり疲労がたまってしまっている。

「野営の準備も始めなきゃな」

「やえい?」

 シエロが尋ねてくる。二人ともそこまで口数が多いわけでもないし、話しているとそれだけで口から水分が飛んでいくので話が弾んだわけではなかったが、何となくお互いに言いたいこととかがわかるようになってきた。便所に行きたいといわれた時はさすがに困ったが。

 そういえば今日ここまで来て思ったのだが、シエロの着ている服はかなり特殊らしい。というのも、一見絹のように薄く柔らかい素材でそれだけでは太陽光で火傷をしてしまうのではないかと思っていたのだが、全くそんなことはない。一度木陰で休んだ時に首巻として使っていた部分を借りてみたのだが全く内側が熱しない上に風通しがいい。こんな織物があったなんて全く知らなかった。

 些細な差が文化の差の根底にある。着ている服が違えば家事の文化が変わり、家の機能が変わり、そうして町が変わる。もしシエロの住んでいた村にたどり着けたとしたら、その時はこの生地を少し分けてもらおう。

 だがそれより先にやらなければならない事がある。日没までに少し時間はあるが、早めに準備しておくに越したことはない。

「シエロ、どこかに大きな岩や木の生えている場所があったら教えてくれ」

 そういいながら、俺はジェスチャーで岩や木を示す。最初は首をかしげていたシエロも何度か見ていると分かったらしく、「だー」といいながら辺りをきょろきょろし始めた。

 相変わらず河に沿うようにして移動しているが、もう河そのものは見えない。ああいう河は砂漠の砂の上ではなく、水を通さない岩盤の上を流れていく。あの場所は今いるとこよりもずっと下にあるようで、しかも歩いているところは少しづつ登っている。今は側にあるのはただの大きな崖だ。

 そう、崖だ。河へ行くにはこの崖の下へ行かなければならない。しかし見る限り、どう考えても降りるような場所などないし、そもそも降りたところですることがない。河の向こう側に行く方法も、おそらくないだろう。

 ではシエロは?

 この少女はいったいどこから流れてきたんだ?

 もしあの滝の側で親や知り合い等とはぐれたのならばすぐに探しに来るはずだ。それに俺だって一応探しはしている。そのうえで全く手掛かりがないのだ。

「お前、霊とか妖精とかじゃないよな?」

 つぶやいた言葉はシエロには届かない。

 こんな予定じゃなかったんだがな、と思いつつなんとなく楽しくなっている。たまには誰かと一緒に旅をするのも悪くない。

「じぐ、じぐ」

 シエロが俺を呼びながら指を差した。今俺たちがいるのは風でできた比較的大きな風紋の丘の上だが、いくつか超えた先の谷の部分に岩場が見える。距離感が掴みにくいため恐らくではあるが、そこまで遠くはない。大体千杖といったところだろうか。

「よくあんなの見つけたな」

 背嚢から砂糖漬けの干し林檎を一切れシエロに渡す。ご褒美だ。

「んんー!」

 目を輝かせてほおばる。なんというか、小動物に餌付けしている気分になる。

それにしても俺よりもはるかに目がいい。いや、そういえば何人か砂漠地帯の近くが出身だという知り合いがいるが、あいつらも軒並み目や耳がいいはずだ。

 水や日陰を見つけるだけでも一苦労するこんな場所で生きるための進化なのかもしれない。

「じゃあ、あそこで今日は野営にするか」

「だー!」

 だが、そううまくはいかない。やはり砂漠での距離感はあてにならない。

 千杖くらいで行けそうな場所にあるように見えるあの岩場へ行くのに、すでに四分刻程あるいた。全く近づいた気がしない。あるいは砂地に住むという貝の仕業だろうか。

「そんなものがいるなら撮ってやるけどな」

 結局、その岩場に着いたのは陽が沈む直前だった。風紋の谷間は既に影の中にある。

「よし、さっさと天幕を張っちまおう」

 キュールが逃げないように、岩の中の砂地を見つけそこに杭を打って手綱を括り付ける。キュールは見た目に反して臆病らしいので、できるだけすぐに外れないように固定しなければならない。

 それからキュールに積ませていた荷物を下ろして、瓶に入った緑色の液体を取り出す。

 ふたを開けてそれを布の切れ端に少し染み込ませると、外套の端がくいっと引かれた。見ると、何やら目を輝かせてシエロがこっちを見ている。

「嗅ぐか?」

 そういって布をシエロの鼻に近づけてやる。くんくんと犬のように鼻をひくつかせていたが、突然びくんと跳ねて悶絶の声を出しながら逃げていった。

「ははは、相当臭いだろ。これは虫よけだからな」

 笑ってやると、恨めしそうに遠目から睨んでくる。気にせず、キュールの全身に薄くその緑の虫よけを塗っていく。夜寝るときに気にしなければならないのは毒を持った虫や蛇だ。無防備な間に攻撃されれば、当たり前だがなす術などない。だから虫の嫌がる強烈な臭いのする薬を塗ったり、見つけ次第叩き潰したりという対処をしなければならない。

「とりあえずこんなもんか……」

 次に括り付けた杭の近くの岩をひっくり返す。こういうところに蠍なんかはよくいる。

 何よりもまず注意深く確認をすること。それが過酷な空間における生存方法だ。

「もう来ていいぞ。次は天幕を張るからな」

 そういって瓶をしまうと、恐る恐るといった様子で近寄ってきた。

 たたんで円柱のようになった天幕を広げる場所を作る。四角錐のようになる型のもので、割と値は張ったが丈夫だ。生地も厚いし入口も紐でくくれるようになっているためかなり安全ではある。ただ、いかんせん重いためこういう荷馬のようなものが無ければ持っては来られない。

 まず天幕の床となる部分の石や岩をどかして、虫の嫌がる草を天幕を張る下に敷き詰める。キュールに載せていた荷物のほとんどは野営道具だ。俺の背負っていた背嚢の倍以上の荷物を持ってきているが、消耗品も多く長く旅をすればするほど身軽になる。それが良いことかどうかは場合に寄るのだが。

天幕が張れると、とりあえず食糧の入っていない荷物を中に入れて、今度は外で焚き火を起こす。食糧を中に入れないのは、まだ日が沈んで間もない時には熱が残っていて食料が傷みやすくなってしまうということと、万一肉食の動物が近寄ってきたときに天幕の中へ入ってこないようにという対策のためだ。

一度、近くで野営をし旅団の男が酔っぱらって酒や肉をを中へいれ熊に襲われたところに遭遇したことがある。何とか一命はとりとめたが、腕や腹が食いちぎられている様は、凄惨と言うほかなかった。

この辺りには枯れ木すらない。なので最低限調理をしたら火は消す。最悪夜の寒さを凌ぐための布を燃やせばよかったのだが、シエロを拾ってしまったことで若干状況が変わってしまった。

「とりあえず、寒くならないうちに飯にしよう」

 そういって、簡単な汁物と黒パンの夕食を作る。少し前は、それこそ噛めないほど固いパンと胡椒の味しかしない干し肉を何とか水で流し込んでいた。しかし最近、野菜や魚を調味料と一緒に粉末にして四角く固めたものが売られるようになった。これを湯に溶かせばそこそこの味のする汁物になる。これも大書塔の誰かが考案したものらしいが、これほどまでに深く、大書塔の人間に感謝の念を覚えたことはなかった。あとはもう少し塩味を抑えてくれると完璧なのだが。しきりにシエロが何か言っていたのは、多分美味しそうとか待てないとかそういう類の言葉だろう。特別うまいというわけでもないが、新鮮さはあるかもしれない。この地域ではパンよりも穀物を水や乳で蒸したり煮たりするものが多いと聞く。

 実際、パンをちぎってはそのまま食べたり汁に浸したりと遊ぶように食べていた。それに、誰かと食べる飯は、それだけで少し美味くなる。

「なあ」

 俺は意味が解るはずもなと思いながらシエロに聞く。

「お前、どこからきたんだ? 一人であそこまで流されてきたんだろ。しかも知らない男とどこへ行くともわからないのに一緒にいて。不安だったりしないのか?」

 最初からそうだった。シエロは、不安そうな顔や泣いた顔などを全く見せない。会ってからまだ半日程度だ。だが、無理をしているようにも見えない。俺の思い違いかもしれないが。

「親父さんとかお袋さん、心配してるだろ。大丈夫か?」

「だいじょうぶ?」

「いや、だから、えっとな……」

「だいじょーぶ!」

 両手を上げて、シエロは笑顔でそういった。

「だいじょーぶ」

「大丈夫って……ははっ」

 思わず、笑ってしまった。そうか、大丈夫か。

 なにが大丈夫なのかわからないが、きっとシエロが言うなら大丈夫なのだろう。

「ああ、そうだ」

 俺は天幕の中にしまってあった銀塩機を取り出す。

「せっかくだからな、記念に撮っておこう」

 そういえば、シエロには銀塩機を見せていなかった。あの滝の林は既に撮った後だったし、その後は特に面白いものがあったわけではない。ああ、岩壁は取り忘れてたな、と内心舌打ちをした。

 銀塩機はかなり大きい。シエロの頭くらいはある。それを担いで天幕から出てくると、驚いた顔をして、なに、と聞いてきた。

「これは、なんつーか……まあいいや」

 焚き火の反対側に座って銀塩機を向ける。中には撮られるのを嫌がる人もいるが、シエロはそんなそぶりは見せず、むしろ、触りたい! とでもいうようにそわそわしていた。

 中の映紙を巻いて、撮影の準備をする。砂埃が付かないように気を付けながら。

「よーし、とるぞー」

 三、二、一と指を折りながら数えてやって、零で遮光板を落とす。押し釦を一つ押すだけで風景が切り取られる。一瞬だけ光を通すことでその光景が映紙に焼き付く。その映紙を、丁寧に王都に持って帰って現像すれば、銀塩の出来上がりだ。理屈で理解をしていても、いまだに不思議な感覚がする。

「んんー?」

 首をかしげながら、まだシエロはなんだろう、という感じで首をかしげている。こういう仕草が様になるなら、将来はきっとかなりの美人になるだろう。

「ちょっと、いじってみるか?」

 普段だったら、絶対に触らせない。だがまあ、壊さないようにだけ注意していればいいだろう、と思ってしまう。甘々だ。

「それが焦点を合わせるところで、そこが遮光板の落ちる速さ……ここな、そんで――」

 シエロの横に座りなおして、一通り、伝わっているのかいないのかわからないが説明をする。ふんふんとうなづいて、シエロはいきなり俺に銀塩機を向けてきた。

 カシャン、と軽い音がする。

「な、お前な!」

 シエロは声をあげて笑っている。自分が撮られるなんて、いったい何年ぶりだろうか。

 しばらくじゃれついているうちに少しづつ気温が下がってきたので寝ることにした。俺はこういった旅には慣れているが、シエロはさすがに疲れていたようで、寝袋にくるまるとすぐに眠ってしまった。

 俺はシエロを起こさないように小さく油灯を点けて、地図を広げる。

 今のところ遺跡の具体的な場所は全くわかっていない。

手元の地図を見てもそれらしい場所はない。そもそも砂漠が広大すぎて、もしそこまで規模の大きくない遺跡であれば書かれないということもある。

「にしても、手掛かりくらい書いといてほしいもんだがな」

 話を聞いたハクロアの老人はは河に沿って大体二日か三日歩けば会えるといっていた。

遺跡は、割とハクロアの人にとっては有名な場所らしい。それなのにいまだ誰も手を付けていないというのは、何か奇妙ではある。何かいわくつきなのかと思い少し聞き込みのようなものもしてみたが、誰もなにも教えてはくれなかった。単に知らないだけなのか、それとも言いたくないわけがあるのか。

そもそも会える、という表現が引っ掛かる。詩的な言い回しをしただけならいいのだが、もっと別の意味があったとしたら。神の気まぐれで現れたり消えたりする聖地、という話は各地にある。神話の世界の話だが、もしその類だった場合、本当に俺の旅は徒労に終わる。

「どうしたもんかな……」

 結局シエロの問題もまだ何も進展してはいない。今のところはこのまま一緒に連れていって、それから探そうとは思っている。おそらくシエロはそんなに気にはしないだろう。見つからなかった時のことは、まあその時だ。

「……ん?」

 いろいろと考え事をしながら地図を眺めていたら、ふと違和感を覚えた。

「ここ、もともとは平坦だったのか?」

 地図には大まかに高低差などが書かれている場合がある。今使っているものはマクスがどうやってか手に入れたものなのだが、羊皮紙が傷んでいる程度には古い。しかし土地の高低や丘の形が思いのほか詳細に書かれていた。

 だが、明らかにおかしい。というか、間違っている箇所がある。

 あの滝がないのだ。それだけではない。河の高さもかなり今より高い。いや、そもそも土地の隆起が書かれていないのだから関係ない。河の流れも若干だがずれているようだ。

「ってことは、この地図、一体いつ書かれたんだ?」

 違和感が一度こびりつくと、いろんな場所がおかしく見えてくる。特にこの地図の真ん中の方は妙に曖昧だ。描かれ方が明らかに他より慎重になっている。

 土地が隆起したかもしれないといえる場所も、他にいくつかあった。

 昔はあの河と同じくらいの高さに土地があったのかもしれない。それならばここは――

「じぐ、じぐ」

「うおっ!」

 いつの間にかシエロが起きていた。

「悪い、起こしたか?」

 眠そうに、シエロは目をこすっている。

「そうだな、明日も歩かなきゃいけないし、寝るか」

 違和感はぬぐえないまま、だが、明日考えればいいかと思い、俺の意識は闇の中へと消えていった。



 シエロとの二日目は、特に何事もなく過ぎていった。水は何とかまだ足りているし、運よく水源も見つけることができた。これはかなり運がいい。

 そのうちに、野営をしたのと似たような岩場が点々としているのを見つけた。どこも似たような大きな岩がいくつも転がっている。そう、似ているのだ。だが、調べても俺ではその関係性は見いだせなかった。仕方がないので銀塩に収めて、後はマクスに任せる子tにする。

 二日目の野営地も、その岩場の一つだった。

 ここは特に細長い岩が多く、まるで柱のようだった。盆地でもあるから、昨日の場所と近い。

 テキパキと準備を終え、昨日とは違う汁の元を溶かして晩飯にする。いくつか味があり、これはすこし辛めの味付けだった。俺はこっちの方が好きだったが、シエロは辛いのが苦手なようで少し泣きそうになりながら食べていた。

「じゃあ、火消すぞ」

 焚き火を消して天幕の中に入る。そして、シエロが寝袋にくるまったのを確認して、また俺は油灯を点けて地図を広げた。

 今日回った岩場を地図に書き記していく。その全てが、かつての、つまりこの地図に書かれている河の軌道の近くにあった。しかも、歩いているうちは気づかなかったが、一定間隔でそれらがある。

「じゃあやっぱ、似てるのは偶然じゃないのか? だとしたら」

 俺の探しているものは、これなんじゃないのか?

 いや、だとしたらおかしい。話によれば歩いて二、三日だ。会える、というのとも違う。大体こんな、遺跡だとしても風化しきってしまった巨大な岩を撮らせるためにマクスが俺を使ったとは思えない。きっと、マクスは何かしらの確信をもって、自分が知りたい、知らなければならない文明や歴史がここにあると思っているのだ。

 だから、これはきっかけだ。なにか、ここからつながる何かへの。

「じぐ」

「ああシエロ、悪い。俺ももう寝るから――」

 またシエロを起こしてしまったな、と反省する。しかし、そう言いかけて、シエロが何かを言いたそうにしていることに気づく。

「どうした?」

「あー、うー……がおー!」

「が、がおー?」

 シエロはしきりに外を指さしてが永生といっている。

がおーってなんだ? 吠え声……動物?

 はっと気づく。

「シエロ、ちょっとここで待ってろ」

 急いで油灯を消して天幕の入り口を開けた。隙間から覗き込むようにして外を見る。

 キャーロは静かに眠っているし、特に変わったところもない。

 ただ、なにか胸騒ぎがした。

 とりあえず外に出る。一応小刀を持ち出した。やはり、変わったことはなさそうに見える。だが嫌な予感というか、気味の悪い空気はぬぐえない。

「上に行くのは危険か……でも状況を把握しておきたいしな」

 どうにか安全に砂丘の向こうを見れないかと辺りを見まわす。ここの岩場はどういうわけか柱状というか、上にまっすぐ伸びているものが多い。横になっているものや斜めになっているものも、もとは直立していたのだろう。

 うまく伝っていけば登れるかもしれない。

「じぐ?」

 シエロが天幕の中から心配そうにこっちを見てくる。

「大丈夫だ」

 そういってやると、こくんとうなづいた。

 低いところから少しづつ上がっていく。うまく削れて窪みになっているようなところに手をかけるが、表面に砂がついていてかなり滑りそうになる。

「これ、落ちたら終わりだな」

三十杖くらいある高さの岩をどうにかこうにか登りきる。もう昼間の暑さはなくなり肌寒いほどになってきているのにもかかわらず、汗が出てきていた。

息を整えて、慎重に立ち上がる。風にあおられて落ちでもしたらそれこそ即死だ。

「うおっ……」

 そこからの眺めは、なんというか、そう、素晴らしいとしか言いようがなかった。

 空には月と星だけ。真っ暗なのに、その明かりだけで砂の上に影ができている。見渡す限りの砂。何もないことが、こんなに美しいなんて……。

 はっと現実に意識を戻して、下を見下ろす。

「この景色はやばいな」

 さすがに、足がすくむ。地面が遠い。

「やっぱなにもない、か?」

 そう思った瞬間、きらりと砂の中に光が見えた。

「あれは……」

 一つだけではない。二つが同時に動いている。そして、その少し後ろにも六対。

「くそ、ガラライか!」

 ガラライは別名砂漠狼と呼ばれ、砂漠地帯に多く生息している。体毛は砂に紛れる薄茶色で、耳が大きく顔が長い。砂漠という不毛地帯で生き抜くために嗅覚と聴覚が発達しているらしい。

昼間は陽の当たらない場所にいて、夜になると活動を始める夜行性だ。様々な毒に対して抵抗を持っているらしく、普段は蛇や蠍、もしくは死肉を食っている。

 狼という割には体が小柄でそこまで攻撃的でもない。自分より体の大きい相手を餌にしようとすることはあまりないはずだ。あるとすれば、縄張りに入られた時だけ。

 正直、気が緩んでいた。こういうところはガラライの縄張りになりやすい。それでも足跡やふんなどが落ちていなかったから大丈夫だろうと思っていたのだが。

「あそこからだと……やばいな、すぐに移動しないと……!」

 ちっ、と舌打ちが漏れる。

「シエロ、逃げるぞ!」

 ちらりと天幕から顔を出していたシエロに向かって叫ぶ。俺の切羽詰まった声に何かを察して天幕に引っ込む。頭は悪くないし手先も器用だ。俺が降りる頃には最低限の荷物はまとめておいてくれるだろう。天幕は残念だが置いていくしかない。帰りに回収できればいいが。

 滑落しないように気を付けながら、できるだけ早く下へ降りる。来た時と同じ経路をたどればいい。そう、それだけだ。

 あと少し。そこで、焦った。いや、油断した。

「あと四杖……三杖……二杖、よしっ」

 いける、そう思って笑った。瞬間、ずざっと音がして、足が滑った。いきなり指先に全体重がかかる。

 耐えきれず、手を離した。一瞬の浮遊感の後に、足に衝撃が走る。そのまま膝をついた。

 低いところでよかった。そう思って立ち上がろうとして、左の足首に激痛が走る。着地した時にひねったらしい。

「くそ、こんな時に」

 ここで座り込んでいる場合ではない。とにかく急いで移動しないと。

「じぐ!」

 シエロが大きな荷物を抱えて天幕から飛び出してきた。入っているのは銀塩機と寝袋だろう。壊れてなければいいが。

 そんな心配すらしている余裕はない。

「こっちにこい!」

 シエロを手招きしながら根気で立ち上がる。治療は後だ。もう足音が聞こえるところまでガラライが近づいている。

「キュールにそいつを括り付けろ!」

 指を差しながら指示をする。俺の方に駆け寄ろうかと迷った顔をしたが、すぐに従った。素直で助かる。

「後は杭を抜いて……二人であの背に乗れるか?」

 キュールも察知をして若干興奮している。天幕や食料がなくなってかなり重さは減ったが、二人で乗るには単純に面積が足りないかもしれない。

「つっても、やるしかないか……!」

 必死に策を考え、同時に手を動かす。背嚢の中には何がある? 外に出した分は? 武器になるものは?

使えそうなものをすぐに取り出せるところに入れて、急いで杭を抜いて手綱を握る。

「どうどうどう」

 暴れそうになるキャーロをなだめながら、まずシエロを乗せて、その後に俺飛び乗る。

「いいか、これ絶対に離すんじゃないぞ」

 鞍についている騎乗用の革紐をしっかりと持たせ、シエロを守るように両手を回し手綱を握る。

 ヴォン! と鳴き声がした。砂丘をすでに下ってきている。正面に三頭、左右に二頭ずつ展開している。完全に狩りのつもりだ。

「いくぞ!」

「やー!」

 力の限りキャーロの腹を蹴る。弾丸のようにキャーロが飛び出した。

「ひゃあああああ!」

 シエロが叫んでいる。楽しいのか怖がっているのかよくわからない。

 フロウはいきなり飛び出した俺たちに一瞬動きを止める。正面にいる三頭の中の一頭が群れの長だろう。

野生動物に遭遇した時の対処法は二つ。逃げることと、ビビらせることだ。

 後ろは岩壁で逃げられず、前三方にはフロウがいる。ならば奇襲を仕掛けて巻くしかない。

「うおおおおおおおお!」

 腹の底から声を出す。

「おおおおーーーー!」

 真似してか、シエロも加わった。

 まずは音で、敵の勢いを殺す。これだけで追い返せる場合もあるが、さすがに縄張りの中で追い返すのは難しいか。

 だが、怯んだ。その間に、キュールは距離を詰めている。おそらくこちらの方が速度は上だ。

「突っ切るぞ!」

 このままだと、いくらこちらが速くても囲まれる。しかし、奴らには十分すぎるほどの弱点がある。

勝機はある。

「この臭いはたまんないだろ」

 外套のポケットから小瓶を取り出す。例の虫よけ。片手で瓶を開けてそれを真正面に投げつけた。

 キャン! と悲鳴が上がる。あれは人間ですら逃げるほどの臭いだ。奴らにとっては劇薬に等しい。

 案の定前の三匹はがら空きになった。

 だが左右からくるのは止まらない。

 どん! とキュールの腹を蹴る。速度が上がる。右の一頭が斜め前からくる。右手で小刀を抜いて振った。ガラライの鼻を軽く切る。赤黒い血が少しだけ刃先から散った。爪がキャーロの毛に少しだけ引っかかるがすぐにはがれる。横三頭は引きはがせる。前の一頭が素早く立ち直る。群れの長だ。あれを止めれば抜けられる。

 小刀を投げつける。当たらない。素早く横にずれ、そこから飛びかかってくる。巧い。確実に進路をふさいできている。避けるか、それとも突っ込むか?

 右化、左か。一瞬迷い。くっと手綱が左に引かれる。

「な、おい!」

 シエロが手綱をひいている。キャーロが左へと曲がった。同時にフロウが俺たちの右側へと飛びかかる。

 ヴァウ!

ガラライの真横をすれ違う。読みを外したのだ。いまだ臭いから立ち直れていないガラライ二頭を避けながら、そのまま速度を上げる。後ろでフロウたちの鳴き声がしたが、もう鳴き声はしなかった。



   到達

 


 無心で手綱を握っていた。

 荒野をただ駆け抜ける。

 その時の俺に意志などなかった。シエロが指をさすがままに、手綱を引いた。

 キュールも明らかに限界を超えてるが、歩をゆるめようとは決してしない。

 満月が、目の前にあった。

 月に惑う。あるいは、月に狂う。そういう言葉がある。古来から月は魔の象徴だ。

 風と、自分たちの足音だけ。全ては砂に飲み込まれ消えていく。静寂。

 そうして、どれ程走ったのだろう。半刻か、一刻か、それとも……。

 軽く、手綱が引かれた。シエロだった。

 キュールがよたよたと速度を落とし、止まる。ぴょん、とシエロが飛び降りて駆けていった。

「じぐ」

「……ああ」

 俺もつられて降りる。そしてようやく気付いた。目の前にあるものに。

「これは……遺跡か?」

 巨大な、そう、あまりに巨大な石柱がそこにあった。一本だけではない。四本の石柱が円になるように置かれている。ただの岩塊にも見えるが、それでも、人工的に作られたものだと分かる。輪郭が、窪みが、傷が、石柱を存在させるために在った。

 その円の真ん中にシエロは立っていた。笑っている。見たことのない笑顔。無邪気な子供のものではない。例えばそれは、月のように妖艶で。

「シエロ? お前、お前は……なんだ?」

 すっ、とシエロの右手が上がる。なめらかに。指先が跳ねる。腕は肩の高さで止まる。横に振られる。その勢いで、上半身が、それから下半身が回る。片足を軸にして回転し、勢いのまま飛ぶ。

 踊りだ。何のための?

 わからない。ただ、美しかった。回る、回る、回る。そして、跳ねる。踊り子の踊りではない。もっと、動きは激しいが、神楽に近いもの。そうだ、これは。そう、これは写さなければ。本当に? それは善い行為か? 触れてはいけないのではないのか? なあ……。

「もし」

 突然、後ろから呼びかけられた。飛び上がるかと思う程に驚く。

「あなたが、お客様かしら?」

 いつから居たのだろう。そこにいたのは美しい女だった。やはりというか、褐色の肌に黒い髪。だが瞳の色は青だった。彼女もまた、シエロと同じような服を身に纏っている。

 ほんの少し発音に違和感があるが、俺の使っている言語だ。

「あんたは……?」

「あの子の、まあ、保護者みたいなでしょうか。あなたをお待ちしておりました。あなたと、あの子を」

「ちょっと待て、話が見えないぞ。あんたがシエロの保護者なのはわかったが、そもそもなぜ俺のことを知っている?」

「ふふっ」

 笑われた。この女実はかなり失礼な奴なのだろうか。

「いえ、ごめんなさいね。そう、あの子はあなたには何も言わなかったのですね」

「言わなかったというより、言えないだろ。シエロは俺の言葉をしゃべれない」

 いまだに踊り狂っているシエロを指さして俺はそういう。

「それでは、私が説明します。歩きながら、ね。砂漠の夜は長いようで、すぐに明けてしまいますから」

 しえろ、と女が呼ぶと、ぴたりと動きが止まって戻ってきた。

「行きましょう。キュールも連れてきてくださいね」

 女はそういってすたすたと歩き出す。シエロもそれについていった。

「なんなんだ、一体……」

女の後をただただついていく。遺跡の裏手にも岩塊がいくつか置いてあった。それが砂丘へと続いている。

「あれは……?」

「わかりますか?」

 楽しそうに女は聞いてくる。

「わかるって……。あれも、遺跡の一部なのか? 明らかに風紋でできたものじゃないだろ」

「正解です」

 砂丘の麓まで行くと、かなり大きな窪みがあった。窪みの奥は……階段になっているのか?

「ここがね、入口なんです」

 そういって二人は降りていった。俺もそれに続く。

 中は意外に明るかった。壁に油灯が吊り下げられている。

「足、滑らせないでくださいね。危ないですから」

 その階段はかなり複雑に作られていた。組み方が、ではなく、構造が。ぐるぐると螺旋のように降りていったと思えばいきなり明後日の方向に曲がる。降りていたと思ったらいきなり上ってまた下る。道が分かれているところもあった。

 これははぐれでもしたら一生外には出られないだろ。

 もう方向感覚が全く効かなくなってきたころに、ようやく広い空間に出た。

 そこは鍾乳洞のように冷えて、石のつららが何本も伸びている。石をくりぬいて作ったあの階段とは明らかに違う、自然の作った空間。だが、明らかに異質なものがあった。

「これは、門か?」

 鉄か、あるいは青銅か。十杖は優にあろうかという巨大な門がそこにはあった。至る所に装飾がなされている。描かれているのは、歴史、だろうか。河の氾濫や、地割れ、旱魃。そして人々。それだが、まるで天に昇るように上へと描かれる。そして、その先は、門の最上には満月を模した鏡が鎮座していた。

「はい、そうです。それでは開けてもらいましょうか」

 女が、門についている打環を叩く。

「少し下がっていてくださいね」

 ごごごごご、と、地割れのような音がした。

 門が、少しずつ、こちらに開き始める。隙間から光が漏れる。明るい。

「ああ……」

 逆光の中を、女が歩いていく。門が開ききった。女の側にはシエロが、無邪気に俺を見て笑っていた。

「ようこそ、私達の街ハクロアへ。ジグ=ウェスタ―さん、私達はあなたを歓迎します」



 地底都市ハクロア。それがマクスが真に見つけさせたかったものなのだろう。

 巨大なアリの巣のように縦横無尽に張り巡らされた地下道と地下空間が、彼らの生きる世界だった。

 女は俺を自分の屋敷へと連れて行った。

「私はハクロアの使節を務めさせていただいています、テルリムと申します」

「使節?」 

「簡単に言ってしまえば、外の世界との接触を許された数少ない人間ということです」

「なるほどな」

 地底都市の光景は、俺が見てきたどんな都市とも似ていなかった。

 光は地上に続いている穴と、光るコケのみ。それをうまく工夫して全体に光がとおるようになっている。水は、あの河の側に出る穴があるらしく、そこには橋もかかっているという。対岸にまで地下世界が広がっているらしい。家も、岩をくりぬいたものから組み立てたものまで様々だ。

 そしてなにより、生き物が違う。地上の生き物の系統には含まれるのだろうが、どこかが違う。

「元々、ハクロアは地上にあったんです。あなたも見てきたと思うのですが」

「あの岩場の事か? やはりあれは遺跡だったんだな」

「はい。私達は、今も昔も、どちらかといえば岩をくりぬいた建物を好むんです。あれは、それの名残です」

「それがなんで、こんな地下に住んでいるんだ?」

「地震です」

 やはりな、と俺は確信する。

 俺とシエロが出会ったあの場所。あの断層が示しているように、大昔ここで大規模な地震があったのだろう。そして、隆起した土地と陥没した土地ができた。

「運がよかったんでしょう。私たちの先祖は偶然、地下の空洞の中に放り込まれてしまいましたが、それでも生きていました」

 そうして、地下で生きるという運命を背負った。地上で生き残った者たちは、地上に新たなハクロアの街を作り、新たな生活を始めたのだ。

「それはわかった。だが他にも聞きたいことが山ほどある」

「ではまず、シエロの事から話しましょうか。私達はハクリオと呼んでいるのですが、このシエロのように月の力を借りて未来を見ることができる、そういう能力を持って生まれてくる子供がいるんです。そういう子はハクリオとして、そちらの言葉でいうなら巫女として奉られるんです」

 数日前、シエロは俺がこの地に来ることを知ったという。いわゆる予知夢や白昼夢のような形で見えるらしい。

「驚きました。ここは、今では限られた人間しか外に出ようとはしませんし、外のことに関心を払う人もいません。外のハクロアの街との交流はいわば親戚付き合いのようなものでしかありません。この街を誰かに知ってもらいたいとすら思わないのです。それでも、シエロはあなたを迎えたいと言ったんです」

「だとしても、だ。なぜシエロは一人で俺に会いに来たんだ? いや、そもそも俺は溺れかけたシエロを偶然助けたんだ。もし俺があと少しあの泉を離れていたとしたらシエロは死んでいたかもしれないんだぞ?」

「それは運命なんです。本当はただ河を下って行って、ハクロアの街であなたに会うつもりでいたんです。ですが、シエロは船が転覆してしまったといっていましたが、なにかがあって偶然あなたに助けられた。結果へ向かう道筋は一つじゃないんです」

「……だったら、お前たちはいったい俺に何をさせたいんだ?」

 微笑みが、和らぐ。まるで聖母のようだ。

「記録を、そして記憶を、残してほしいんです」

「……ああ、そうか」

 俺は、大きく息を吐いた。

「反対する人たちは、まだまだ多い。けれど、私達はいつか滅んでしまいます。それは仕方のないこと。こんな生活をしているのですからね」

 自虐的なその笑みは、遠くない未来の滅亡を予見しているようだった。話してはいないが、テルリムもまたハクリオなのかもしれない。

「お願い、できますか?」

「撮った銀塩は、公開したらまずいか?」

「ええ、できれば。きっと時が来たら、今度はこの子があなたの町まで会いに行きますよ」

 だー、とシエロがこぶしを上げた。

「ははっ、そりゃあ、楽しみだ」



「それで、私には渡せないって?」

「悪いな。一応上に乗っかってる遺跡とかは撮ってきた」

 エタ=マクスウェルは机の上で盛大にため息をつく。ものすごく不機嫌そうだ。

 予想はできていたから、とりあえず他で興味深そうな銀塩を持ってきたが、全く無意味だった。

「ジグ、確かに気持ちはわからんでもないが、これでは君に給料は払えないぞ?」

「はあ!? とりあえずこれの分くらいは出してくれてもいいだろう」

「いいやだめだ。ブツもあるのに見せることすら渋る奴に給料なんて、私は出さないぞ! いいか絶対にだからな! 絶対出さないぞ。あ、でもこれは遠慮なくもらっておこう」

「あっおい!」

 なんて強欲なんだ!

「あーまあ……」

「あ?」

「楽しかったかい?」

「……ああ、楽しかったよ」

 なら、よかった。マクスはそうつぶやいて笑った。




   エピローグ



 客を待っていた。いつ来るのかもわからない客を。明日か、明後日か、一年後か、それとももっと。いつでもいい。いつだって、俺は君を歓迎する。もし会えたら、その時は酒でも飲みながら話をしよう。

 だからその時まで、また俺は旅に出る。

 土産話は、多いほうがいいだろうから。

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