エピソード1.5:Before the Dawn
これはまだ、彼が『佐藤政宗』になる前のお話。
元々、彼は、母親から必要とされていない子どもだった。
東京23区内にある、単身者用とも思えるワンルームのマンションの一室。そこが、彼の居場所であり、牢獄でもあったから。
彼の父親は、母親が彼を妊娠中に不慮の事故で他界している。妊娠という幸せの絶頂から、一気に失意のどん底まで突き落とされた彼の母親は、茫然自失のまま、ただ、生理的に彼を出産した。そして、本当は女の子が欲しかった彼女のもとに生まれた男の子は、亡き夫の影をちらつかせ……それがより、彼女を追い詰めていくという皮肉な結果をもたらす。
彼は非常に中性的な、近年はどちらかといえば女性的な名前を与えられて、誰もいない部屋の中、1人で過ごすことがほとんどだった。
寝る間も惜しんで子どものために働く母親、といえば聞こえは良いかもしれないが……実際は家で彼と2人きりになるのが嫌で、仕事を無理に詰め込んでいたという方が正しいと思っている。
世間では『児童虐待』という言葉が既に浸透していたこと、また、外面の良さを異様なまでに気にする人物だったため、物理的に不自由することはなかった。
両実家とは一切関わりが無かったため、彼は祖父母の顔を知らないし、当然ながら誰かが母親代わりになってくれたわけでもない。母親は認可外の保育所などを駆使して働き続け、小学生になったら、彼に鍵を持たせて家から出ないように言いつけた。もしも出かけた先で怪我をしたり、他人に迷惑をかけてしまうと……自分が対処しなければならないからだ。
かろうじて食事を用意してくれていることもあったが、その全てがレトルトで……置いてあるのは500円玉だけ。それで、夕食と朝食を賄う。この金銭のやり取りだけが、彼と母親との繋がりだった。ちなみに、お釣りやレシートを請求されたことはない。母親にとっては、そんなはした金を受け取ったところで、何も変わらないのだから。
彼は母の手料理の味を知らないし、家族揃って食事をした記憶などない。
誰もが当たり前に持っているような思い出は、何も、ない。
不幸と呼ぶにはあまりにも残酷な偶然が重なり、彼の母親が仕事に逃げたことは、しょうがないのかもしれない。
でも、そのしわ寄せが全て子どもに向かうのは違う、と……誰も彼女に指摘する人がいなかったのだ。
母親に褒めてほしくて、彼なりに色々なことを頑張った。重ねてになるが外面の良さを気にする人物だったため、手がかからない、勉強も運動も出来る彼のことを、家の外では――例えば、入学式などでどうしても一緒に行動しなければならない時――謙遜しつつ自慢していたのだ。
家の中では一度も、顔を真っ直ぐ見てくれたことも、褒めてくれたこともないけれど。
そんな中、彼が小学校1年生の秋――母親が他界した。体調不良を放置して機械的に働き続けた結果、手遅れになってしまったのだ。まだ若かったこともあってあっという間に進行した病気が、彼から唯一の家族を奪い去る。
ただ、彼が『それ』を悲しいと思うことは、なかった。
葬儀の場で初めて顔を合わせるような親族が、彼を遠巻きに見つめて……「両親がこんなに早く死ぬなんて、あの子は死神なんじゃないのか」なんてことを呟いていたのが聞こえてしまった時は、思わず笑いそうになってしまったけれど。
死神――生きている人間の命を奪い、死に誘う存在。確かにそうかもしれない。
しかし、死神は非日常的な存在だ。自分とは違う。
これは誰にも言っていないけれど、彼にとって、母親がいなくなったことは、日常の延長線上でしかなかった。
だって、家にはいつも……自分しか、いなかったのだから。
天涯孤独になってしまった、そう思ったのもつかの間、彼を引き取りたいと言う男性が現れた。
亡き父親の兄だと名乗ったその男性――佐藤彰彦は、当時38歳。血のつながりのある甥っ子を、ずっと探していたという。
身長が180センチに届きそうな、ガタイの良い男性。はるばる宮城県からやってきた彼と、初めて都内のファミレスで顔を合わせた時、彰彦は……自分の弟に似ている彼を見て、人目もはばからず号泣してしまったのだ。
母方の性を名乗っていたこともあり、名字が異なる親族に半信半疑だったけれど……話をしていくと、むしろ名前なんかどうでもいいと思えた。それくらい、彼にとって彰彦は、人間らしくて大きな存在に思えたから。
「男2人になって申し訳ないが……俺のところでよければ、一緒に住まないか?」
特に断る理由がなかったため、彼は二つ返事で同意する。寂しい思い出しかないマンションの一室を引き払い、都会の喧騒とは真逆の海沿いの街・宮城県東松島市に引っ越しをした。
「俺のことは父親だと思わないでくれ。俺はお前のおんちゃん(伯父さん、という意)だからな」
そう言って笑う彰彦を、彼は『彰おんちゃん』と呼ぶことに決める。そう告げると、彰彦は「それでいい」と言って、大きな手で彼の頭をなでた。
オートロックもない、築30年は経過している、海が見える木造の2階建てのアパート。土方の現場監督をしていた彰彦は、会社の社長に事情を説明して自分の仕事を少しずつ調整したり、職場の若いスタッフに頼んだりして、常に彼が誰かと一緒にいる環境を作ってくれた。大人になって思い返してみても、自分の営業力はこの時に基礎が出来たのだと思っている。
様々な人の話を聞き、整理すること。これまでの経験から、他人の顔色を伺うことには長けていたため、そのスキルを生かして相手が喜ぶことを言ったり、話を整理して問題点を提示したり……元々聡明だった彼は、たちまち、家に来てくれる彰彦の職場の人から、弟分として可愛がられるようになった。
そして、母親は友達と遊ぶことを原則として禁止して、自宅で1人、勉強するよう命令していたが……彰彦は全て、快く送り出してくれた。彼の友人と一緒になって遊んでくれたことも少なくない。
ただ、羽目をはずして誰かに迷惑をかけた時は、鉄拳制裁込みで彼を本気で叱ってくれた。
1人で生きていくことしか知らなかった彼が、人と関わっていくことで……自分の知らない自分になっていくことがはっきりと分かっていた。でも、そんな自分の成長を誇らしいとさえ思えた。
そんな彰彦はお酒が大好きで、仕事が終わると必ずビールや焼酎など、何かしらのアルコールを摂取して、同じことを繰り返していたものだ。
「早く大人になれよ、俺の晩酌に付き合ってもらわないといけないからな」
「えー? 俺、彰おんちゃんの酒には付き合いきれねぇよ……」
彰彦の隣で缶ジュースを飲みながらジト目を向けると、彰彦は大体さきイカを摘んで前歯で引き裂きながら、次のような言葉を繰り返す。
「馬鹿野郎ー。俺はなぁ、お前と2人で酒を飲むのが夢なんだよ。こんな些細な夢くらいすぐにかなえられるような……デッカイ男になってくれよ」
「すぐには無理だよ、彰おんちゃん。あと……10年位は待ってもらわないと」
「ハッ、10年なんてあっという間だぞ。お前はきっと、これから弟に似ていくから……すぐに大人になって、可愛い嫁さんも見つけられるだろうな」
そう言って彼に目を細める。これが2人のいつものやり取りだった。
楽しかった。
彰彦と過ごした時間は、全て、彼にとってかけがえのない財産となっている。
そんな育ての親・彰彦が、仕事中の事故で突然に他界したのは……彼が多賀城にある私立の中学受験を突破して、授業料や諸々の学費がほぼ免除となる『優良特待生』としての入学を控えた、小学校6年生の3月だった。
その知らせを彼が聞いたのは、学校での説明会が終わった後。仕事を調整して来てくれると言っていた彰彦は学校に姿を見せず、代わりに、彰彦の職場の後輩から、代わる代わる着信が入っていたのだ。
――これを聞いたら急いで坂病院まで来て!!
留守番電話を聞いた彼は、彰彦が担ぎ込まれた塩釜の病院へ急いだ。そして……彰彦が搬送されてすぐに亡くなったことをロビーで告げられて膝から崩れ落ち、しばらく、その場から動くことが出来なかった。
朝、普通に別れたじゃないか。
「私立中学校なんか、緊張するな」って言いながら、「頑張ってたお前のためだ、必ず行く」と言って、笑顔を向けてくれたじゃないか。
学校が終わったら、一緒に車で帰って、途中のスーパーでいつも通り、酒と刺し身を買って……家で晩酌をするのだと思っていた。
実は、これまでの養育実績などが認められて、中学校からは彰彦と同じ『佐藤』姓を名乗るための諸々の手続きを済ませていたのだ。入学に必要な書類に『佐藤』と記載する度に、どこか落ち着かないような、くすぐったいような……とても嬉しい感覚に襲われて、ニヤニヤしていたのに。
いつも通りの明日が――彰彦と2人で過ごす、いつも通りの日々が、ずっと、続くと思っていたのに。
世界が、崩れる。
思いが、願いが……隙間から、こぼれ落ちていく。
彼が夜に1人で不安だった時、ずっと手を握っていてくれた。
ただ肉を焼いただけの料理だったのが、段々と野菜が増えて……でも、どこか生っぽかったり焦げ臭かったりして、彼にいつも苦笑いを向けていた。
桜の季節は一緒に花見をして、酔いつぶれた姿にため息をついた。
彼の友達と本気で鬼ごっこをして、小さな子どもを泣かせてワタワタしたこともあった。
夕方の海岸、誰もない砂浜を競争した。
授業参観は、時間の都合をつけて、ほぼ毎回参加してくれた。後ろの方でどこか恥ずかしそうに、でも嬉しそうに見てくれている姿を見つけて、心がドキドキした。
秋の遠足では、頑張ってお弁当を作ってくれた。
運動会の親子競技では、ぶっちぎりで1位になった。
冬の寒い朝は、どっちが先に布団から出るか押し付けあって笑った。
難関私立中学に合格した時は、大喜びしてくれた。
彼の名字を名乗りたいと告げた時は、驚いた表情をした後……優しく一度、頷いてくれた。その後、学校や役所に足繁く通って、彼に不自由がないように奔走してくれた。
彼の頭に、大きくてゴツゴツした手を優しくのせて……いつも、笑顔を向けてくれた。
もっと、一緒に遊びたかった。
もっと、一緒に食事を食べたかった。
もっと、色々な世界を見せてほしかった。
いつか、一緒にお酒を飲みたかった。
いつか、一緒に旅行に行きたかった。
いつか、大好きな人を紹介して、本当の家族になりたかった。
いつか……『お父さん』と呼びたかった。
こぼれ落ちた思いは、全て『出来なかった』という後悔になる。
願いは――もう二度と、叶うことがない。
そして、思い知る。
自分と関わった人は、みんな――いなくなってしまう。
父親も、母親も、彰彦も、きっとこれからも――みんな、みんな。
自分だけが生き残って、みんな、いなくなってしまう。
思い知る。やはり……自分は死神じゃないか。
こんな自分は、もう――
そんな後悔ばかりが押し寄せて、自分でも、どうしていいのか分からなくて。
本当に、本当に衝動的に――自分も彰彦のところへ行きたいと強く思った結果、車が行き交う国道に、自分の身をなげていた。
減速できない車が、彼の体を豪快に空へと跳ね上げる。
ああ……これで、終わりなんだ。
そう思った彼は、とても幸せな顔で……目を閉じた。
今年(2017年)の父の日の題材として選んだのは、政宗と彰彦の関係でした。(http://ameblo.jp/frosupi/entry-12284800297.html)
と、いうわけで、政宗は心愛達が通う中学校のOBだということが判明します。第2幕の仕事も、そういう繋がり(OB会的な)から政宗が探し当ててきたのですな。
しかし……しかし、暗い。政宗はある意味、蓮と対極なのです。政宗には両親がいない(蓮は一応健在です、確か)、そして……自ら死を選ぶことが出来たことも含めて。(蓮も名杙に囚われた時に死のうとしましたが、それを周囲は許しませんでした)
そして、住んでいたのが東松島市(海が見える場所)ということは……彼もまた、先の災害で全ての思い出が流された存在でもあります。この辺は第4幕でもう少し掘り下げたいと思います。
でも、とりあえず暗いエピソードはここまでです。次からはもっと具体的に、10年前の研修を掘り下げていきますよ。