エピソード4.5:星の見えない夜だから
木曜日の夜、時刻は22時を過ぎた頃。
宮城県大和町、県のほぼ中央に位置するこの町に、聖人が主に自宅として使用している部屋がある。
その部屋のリビングで、聖人と彩衣は向かい合い、今日の報告と、明日への引き継ぎを実施していた。
12畳ほどの室内には座卓用のテーブルと三段ボックスが1つあるだけ、簡素な空間。液晶テレビが壁にかかっており、その画面が黒く室内を映し出している。
彩衣は手元に持ったバインダーに視線を落とし、そこに記載している、今日のユカの状態を読み上げた。
「山本さんですが、既に熱は下がり、体調も落ち着いています。恐らく明日か明後日には完全に回復するかと」
「じゃあ、『例の症状』はどうだった?」
対する聖人はバインダーに挟んだ紙に彩衣から聞きとった内容を記載しつつ、テーブルの向こうにいる彼女の顔色を観察する。元々色白で表情変化に乏しい彼女だが、特に調子が悪そうな気配はない。
尋ねられた彩衣は、淡々と返答した。
「今日はほとんど感じませんでした。彼女の回復に伴って、症状は改善されていくものと思われます」
「だろうね……いやー、初日は本当にキツかったよ。統治君は相変わらずみたいだけど……彼は名杙直系だし、そもそも、あの『死臭』にあそこまで耐性がある人間の方が珍しいから、政宗君が異常なんだけど」
聖人はそう言って、ペンの動きを止めた。そして、ポケットからスマートフォンを取り出して手元で時間を確認すると、机の上にバインダーを伏せて置き、彼女に優しく問いかける。
「とりあえず、明日は自分が直接確認してくるよ。政宗君の反応が怖いけど……まぁ、彼も時間の問題だと思うからね。土曜日は自分も1日名杙家だし、彩衣さんが1日ユカちゃんと一緒にいなくちゃならないから、明日もこれくらいの時間に打ち合わせが出来ると嬉しいんだけど、どうかな?」
「問題ありません」
冷静に頷いた彩衣は、自分の脇に置いてある黒いトートバックにバインダー一式を片付けると、その場に立ち上がる。
聖人は座ったままで彼女を見上げ、少し目を細めてこんなことを尋ねた。
「今日は……泊まっていかなくても大丈夫?」
「はい、問題ありません」
抑揚なく返答した彩衣は、軽く会釈をしてから、静かに部屋を後にする。
1人残された聖人は……裏返しにしたバインダーをひっくり返して、改めて、これまでの事象を脳内でつなぎ合わせた。
ユカの体調不良と体の成長、記憶の断片的な忘却。
そんな彼女を支える政宗。そして、続く統治の体調不良。
そして、そんなユカの体調不良は……ほぼ、改善されている。
そこから導き出される結論は――
「……今週末で全て終わって元通り、かな。彼女……耐えられればいいけど」
聖人は1人で呟いて、一度、軽く目を閉じた。
日付が変わり、金曜日の午前1時過ぎ。
喉の渇きで目が覚めた政宗は、物音を立てないように部屋から出ると……リビングに向かい、キッチンの明かりをつけた。
冷蔵庫からペットボトルに入ったお茶を取り出し、それをマグカップに半分ほどそそぐ。中身を一気に飲み干してから……一度、重いため息をついた。
「ねぇ、政宗は……『今の』あたしのこと、好き?」
ユカの言葉が頭から離れない。あの後、ユカは政宗の口にあてていた指を離すと……床に両手をついて座り直し、政宗に苦笑いを向けた。
「アハハ……いきなり変なこと聞いてゴメン。でも、それくらい不安になったっちゃけん、明日からはもうちょっと気にしてよね?」
我に返った政宗もまた、彼女に軽く頭を下げる。
「あ、ああ……俺こそ、ごめん……」
そんな政宗に、ユカは笑顔でこんな提案をした。
「じゃあ明日、アイス食べさせてくれたら許してあげる。本当はブラックモンブランがいいっちゃけど……宮城では売ってないとよね?」
ブラックモンブラン。
あの研修で、2人で食べた九州のアイスクリーム。
ユカは政宗と食べたことを覚えていなかったけれど、それ以外でも当然のように食べ続けてきたユカにとっては馴染み深い一品である。ただ、先日、統治から宮城では売っていないことを聞いて……それはもう大きなショックを受けたばかりだった。
「売ってないな。似たようなやつならあるだろうけど」
政宗が脳内で類似品を思案すると……ユカが右手の人差指をピッとたてて、首を2回横に振った。
「アレじゃないといかんとよ、政宗。まぁ、アイスを楽しみにケッカちゃんは明日も頑張って体を休めようっ」
そう言って無邪気に笑う彼女に、政宗は肩の力を抜けないまま……顔にはりつけた愛想笑いを返すことしか出来なくて。
その後、2人して宮城のご当地アイスについて調べたり、他のスイーツについて調べていたら……あっという間に時間が過ぎてしまった。
「……今のユカが、か」
コップを水で洗い、食器用の布巾で拭いて片付けながら(片付いていないと、統治の小言がひどくなる)……政宗は、あんな時間がずっと続けばいいと思っている自分に、気づかないフリをした。
政宗が客間に戻ると、薄暗い部屋の中で、ユカがベッドの上に体を起こし……ぼんやりと、虚空を見つめていた。
彼女が起きていると思っていなかった政宗は、目を見開いて息を呑む。
「ケッカ……!?」
まさか、彼女に何か良くないことが起こったのだろうか。慌てて駆け寄った政宗は、ベッドの縁に座って、恐る恐る、その横顔に声をかけた。
「ケッカ……大丈夫か? 何かあったのか?」
「政宗……?」
ここでユカが政宗の方を向くと、彼の顔を認識して……心から安心した表情で肩をすくめた。
「良かったぁ……政宗、いなくなったのかと思って……」
どこか泣きそうな表情で呟いた彼女に、政宗もまた、肩をすくめて安堵の息をはいた。
また、もしも、彼女が何かを忘れてしまっていたらどうしよう――そんな不安が脳裏をかすめたから。
「悪い、ちょっとのどが渇いてたんだ。ケッカも何か飲むか?」
政宗の言葉に、ユカが少し考えてから……。
「うん……じゃあ、お茶が欲しい」
「分かった、ちょっと待っててくれ」
彼女の頭に軽く手をのせた後、政宗は再びキッチンへ向かう。
そして、先程洗ったばかりのマグカップに再びお茶をそそぐと、それを持ってユカのところへ戻った。
「あ、政宗おかえり、ありがとね」
ユカは少し場所を移動しており、先程の政宗のように、ベッドのヘリに座る形で、足をプラプラ動かしている。部屋は薄暗いままだが、目が慣れてしまえば彼女の姿を認識することも出来るので、政宗はとりあえず、お茶を渡すことを優先することにした。
そして、彼女の隣に座った政宗が、持っていたコップを手渡そうとした……の、だが。
「あれ。」
「うわっ!?」
2人の声が同時に響き、室内にゴトリ、と、少し重たい何かが転がる音が聞こえる。
政宗が慌てて入り口まで走り、扉近くにあるスイッチを押して室内の電気をつけると……ユカの首から太ももにかけての広範囲が、コップからこぼれたお茶でぐっしょりと濡れているのがよく分かった。先程の受け渡しの際、ちっとも息があっていなかったらしい。
現状を理解したユカが、再び泣きそうな表情で彼を見つめる。
「ご、ゴメン政宗、手が滑って……!!」
彼女のところへ戻る途中、床に転がっている空っぽのコップを拾い上げた政宗は、とりあえずそれを近くの机に置く。その上で改めて現状を確認してから……すぐに目をそらした。
「いや、俺もすぐに手を離して悪かった。とりあえずタオルだな……!!」
そう言って一旦部屋から出た後、風呂場からバスタオルとフェイスタオルを2枚持参して、急いでユカのところへ戻ってみると……。
「ケッカ……気持ちは分かるがもうちょっと待ってくれ……!!」
どうあがいても現状が気持ち悪いユカが、思いっきりパジャマのボタンを外して、上着から脱ごうと用意をしているところだった。勿論パジャマの下にはカップ付きのキャミソールを着ているが、当然のようにそれも全て濡れた状態で肌に張り付いている。急がなければ彼女はコレも邪魔だと脱ぎ捨ててしまうかもしれない。それはもう完全に色々アウトの予感しかしない。
「政宗ぇ……気持ち悪かよー!!」
三度泣きそうな声で訴えるユカに、政宗は前方不注意の状態で近づくと……とりあえず一番大きなバスタオルを渡した。そして、部屋をキョロキョロと見渡して……着替えの入った袋を探す。
以前、彩衣から場所と柄は聞いていたので、部屋の隅にあるトートバックがすぐにそれだと気付いた、が……。
「ん……?」
どうしてだろう、やたら軽い気がする。まるで必要最低限しか入っていないみたいではないか。
そういえば……今日、彩衣がこんなことを言って出ていったのではなかったか?
「雨のせいで洗濯物の乾きが不十分なので、コインランドリーの乾燥機で乾かしてから、明日の朝にお持ちします。予備の下着しかありませんので、あまりにも汗をかいたりした場合は、お手数ですが佐藤さんのTシャツなどで代用してください」
「あぁぁぁぁ……!!」
政宗は雨を呪いながらその場に崩れ落ちた。
そして、とりあえず下着類の入ったトートバックを持って、早く何とかして欲しいと訴えるユカの元に戻る。
「悪い、ケッカ……富沢さんが今日、洋服はコインランドリーに持っていってるんだ」
「あ……」
それを思い出したユカもまた、なんとも言えない表情で……ガクリと項垂れた。
「じゃあ、あたしのパジャマ……一晩この状態なん……?」
「ドライヤーで乾かしてもいいんだが、早く洗わないとシミになりそうだよな……だから、俺のTシャツとジャージを持ってくる。悪いけど、今日はそれで勘弁してくれないか?」
「へっ!?」
刹那、ユカが目を見開いて彼を凝視した。それを拒絶だと判断した政宗は、何とか彼女を納得させようと、必死で知恵を絞り出す。
「い、嫌だとは思うけど、緊急事態だからな!!」
知恵を絞り出した割には大したことも言えていないが、ユカはそんな彼を否定するように、首を大きく横にふった。
「違うよ!! あの、出来ればTシャツじゃなくて……政宗が仕事で着とる、あの白いシャツがいい!!」
「……はい?」
ユカの言葉を一旦飲み込んだ政宗だったが……一度で理解出来ず、間の抜けた声を吐き出す。
この子は一体、何を言っているんだ。そもそも俺、今のユカの前でワイシャツなんか着たこと……あったっけ?
考えても答えが出てこない政宗に、ユカがどこか気恥ずかしそうに、その理由を告げた。
「その……ほら、あたしが倒れて最初に政宗と会った時、政宗、そういうシャツ着とったんよ。ああいう白い襟のパリッとしたシャツって、大人じゃないと着れないから……政宗、大人になったんだなぁって思って。今のあたしも大人みたいになったから、ちょっと着てみたかったんだ」
「そ、そうか……」
「あと、富沢さんが、『この家で一番綺麗な洋服は、政宗が仕事で着てるシャツだ』って言いよったけんが……ちょっとよく意味は分からないけどね」
「……」
暗に、『お前の仕事以外の洋服は汚い』と言われたような気もするが……半分くらい事実なので何も言い返せず。
そして、自分に向けてキラキラした眼差しを向けているユカから、逃げられるはずもなく。
全てを諦めた政宗は、覚悟を決めて……自分の着替えを置いている部屋へと歩きだすのだった。
部屋のクローゼットから、一番最近洗濯をした、形状記憶のワイシャツを引っ張り出す。自分が着るわけではないのに手にとるというこの状況を、深く考えたら負けだと思った。そして、その下にある引き出しから、高校時代のジャージのズボンも一緒に引っ張りだして、再び、ユカの元へ戻った。
「ケッカ、入っても大丈夫か?」
念のために扉の前で確認をすると、中からいつもの声が返ってくる。
「うん、よかよー」
その声に安心した政宗は、扉を開いて中に足を踏み入れて――
「――ちっとも大丈夫じゃねぇよ!!」
思わず叫んで後ろを向いた。
部屋に入った瞬間、目に入ってきたユカは、濡れたパジャマを脱ぎ捨てており、濡れた下着も交換して、それはもう気持ちよさそうにベッドの上でゴロゴロと寛いでいらっしゃったのだ。
要するに、下着姿の彼女がベッドの上にいたのである。無防備が服を着ていない。せめて布団に入ってくれればいいのに、それさえもしていない。
「ケッカ、頼むからもう少し恥じらいとか節度とか常識とかを身につけて俺と接してくれ……」
赤面して苦悩する政宗に、ユカが普通に問いかける。
「あれ、政宗、着替えはー?」
「着替えはー? じゃありません!! いいから早く一度布団に入れこの人工成熟幼女がっ!!」
さすがにブチ切れた政宗の怒号に、ユカは首を傾げながら布団の中に潜った、そして、顔だけを出して「これでよかー?」と声をかける。
恐る恐る振り向いた政宗は……今度こそ完全に安心して、ユカのもとへ近づいた。そして、ベッドの上に着替えを放り投げると、努めて事務的に声をかける。
「いいか、ケッカ。これを上下完璧に着るまで俺を呼ぶな。勿論ボタンは全部とめること。いいな?」
「は、はい……分かりました……」
コクコクと頷くユカの様子を確認してから、背筋をピンとのばした政宗は踵を返して部屋を後にして……静かに扉を閉めた後、廊下で崩れ落ちたのだった。
5分後。
「政宗ー、今度こそ大丈夫だよー」
というユカの声を信じつつ、恐る恐る扉を開き、その隙間から中を伺う。
そして、ベッドに座っている彼女が、上は白いワイシャツ、下は紺色のジャージを着用していることを確認して……政宗はようやく、部屋の中へ足を踏み入れた。
その手には、先ほどとは別のマグカップを持っている。
ユカの隣に腰を下ろした彼は、中身が半分ほど入っているそのカップを手渡して、彼女が完全に受け取ったことを確認してから、自分の手を離した。
そして……深く、深くため息をつく。
一方、ようやくお茶にありつけたユカは、それはもう幸せそうな表情でカップを口に近づけた。
中身を半分ほど飲み干したところで、カップを口から離して……一度、息を吐く。
「ふぁーやっと飲めた……政宗、色々ゴメンね」
「全くだ……ケッカ、お前、研修の時はもうちょっと普通に恥じらいとかあっただろうが。どうしてこうなった」
ジト目で尋ねる政宗に、ユカは苦笑いを浮かべつつ……。
「アハハ……確かにそうやね。なんか、政宗の前だと細かいことは気にしなくていいかなーって」
あっけらかんと言い放つ彼女に、政宗は再度、深いため息を付いた。
「気にしてくれ……頼むから誰の前であっても気にしてくれ」
「分かった分かった、ゴメンってば。今度からちゃんとするけんが」
そう言ってから残りを飲み干すと、空っぽになったカップを政宗へ手渡す。彼はそれをテーブルの上に置いてから……改めて、シーツなどで濡れているところがないかどうか確認した。
「奇跡的に布団は大丈夫だったんだな……」
「そうみたいやね。おかげで……あたしのパジャマはだめになったけど」
ユカはそう言って、目線の先で転がっているパジャマを見つめ……それでもどこか嬉しそうに、自分の両手を見つめた。
当然ながら着ているワイシャツはサイズが大きいので、袖から完全に手のひらが出ていない状態である。
「政宗……大人になったんやね」
「ケッカ……?」
隣に座った政宗が、彼女の方を見て首を傾げた。
「服を借りてみてね、あー、本当に政宗は大人になったんだな、って……なんか改めて思ったと。当たり前なんだけど」
そう言って、彼女が彼を見上げる。
「ちゃんと大人になれて……羨ましいな。あたしも頑張らなきゃ」
その言葉に、胸が傷んだ。
君を大人にすることが出来なかったのは、自分だ。
『今の』君に成長させられなかった、その一端を担ったのは……自分なのだから
彼シャツを着せたかっただけです。ユカが何を考えているのか分かりませんでした。(ヲイ)
……え? 前半の伊達先生と彩衣のやりとりについて? そんなのまだ何も言えません。