エピソード1:雨の日の悲劇①
6月も下旬にさしかかる、宮城県仙台市。つい先日梅雨入りが発表されたことを誇示するように、雨が降り続く火曜日の18時前。
支局長である佐藤政宗は、自席に座ってパソコンを操作し、メールの返信や書類作成などの事務仕事をこなしていた。
グレーのスーツの上着を椅子のせもたれにかけて、白いワイシャツの襟元、ネクタイは少し緩めている。
左斜めの席に座っている私服姿の名杙統治は、両耳にイヤホンをつけたまま、同じくパソコンに向かって黙々と作業を続けていた。
今日はアルバイトの片倉華蓮の姿はなく、事務所内には2人きり。雨の降り続く音をBGMに、それぞれの作業に勤しんでいる。
ちなみに、政宗の右斜め前の席の主である山本結果は……現時点では不在である。
「……ケッカ、遅いな」
机上のデジタル時計を確認した政宗が、誰もいない席を見つめて呟いた。
今日のユカは16時30分過ぎから、仙台市郊外で悪影響を及ぼしている『遺痕』の対処に向かっている。天気が悪いこともあり、政宗が車を出そうとしたのだが……ユカにピシャリと断られたのだ。
「政宗、そげなことせんでよかって」
ユカが出る直前、車の鍵を持って立ち上がった政宗だったのだが……慌てて戻ってきた彼女がそんな彼を真顔で制止して、強制的に自席に座らせる。
「政宗だって週末に向けた事務仕事をためこんどるやろ? 今日は片倉さんも休みやけん、今のうちに進めとかんと……また、無言で蔑まれるよ」
確かに彼女の言うとおり、事務仕事が溜まっていることは否定出来ない。週末に名杙家での大切な会議が控えているため、そのための資料や確認作業がラストスパートなのだ。
そのため、資料に関して一切分からないユカに、『遺痕』対策が一任されているのもまた、この支局の現状でもあった。生きている人間同士の折衝はある程度調整出来るが、『遺痕』に関してはコチラの事情でどうすることも出来ない場合もある。心愛は先月、無事に『初級縁故』の試験をパスしたものの、まだ1人で任せられない仕事も多い。仁義や里穂の手を借りることもあるが、それでも……やはり不安なのか、ユカが率先して立ち会ったりしているのだ。
政宗はそんな彼女に書類仕事(報告書など)を任せるようにして、なるだけ座っているようにしているつもりだが、肝心の本人は締め切りをぶっちぎって華蓮に蔑まれたり、このようにまた、1人で飛び出そうとしたり……と、ちっとも落ち着いてくれない。
先月も少し無理をして、心身ともに不安定になったばかりだ。今のところ問題ないとはいえ……彼女の現状を考えると、どうしても、不安が先行してしまう。
彼女は昔から……限界を超えるまで、1人で我慢してしまうのだから。
「しかしなぁ、今日は雨も強いし、ケッカ、昨日から連続だろう? やっぱり今日は俺が――」
「だーかーらー、大丈夫だってば!!」
再び立ち上がろうとする政宗を全力で制止するユカは、どこか不満そうな表情で椅子に座っている彼を見つめ、腰に両手をあてる。
「連続の対応くらい、いつものことやろうが。何をそげん心配しとるんやか……」
ため息混じりに呟いたユカに、政宗は真顔で反論した。
「心配して何が悪いんだ」
その反応に、ユカはバツが悪そうに口ごもり……答える代わりに、握った右手を、彼の前に突き出す。
そして、口元にいつも通り、彼がよく知っている笑みを浮かべた。
「ありがと。いつも通り、チャチャっと片付けて戻ってくるけんが……いつも通り仕事しながら待っとってね、心配症の支局長さん」
こう言われると、彼女をもう止めることは出来ない。
「……気をつけてな」
観念した政宗は、握った自分の右手を彼女の手に軽く押し当て、雨の仙台へ出ていく彼女を見送ったのだった。
と、いうわけで、ユカへの帯同を分町ママ――『仙台支局』をサポートしている、『親痕』という特殊な存在――に任せ、政宗は溜め込んだ事務仕事を片っ端から処理しているのである。
しかし……遅い。今日の仕事は、仙台市郊外にある、荒井という住宅地だったはずだ。地下鉄で片道15分程度の道のり。ユカの実力や土地勘を考慮しても、1時間もあれば戻ってこられるはずなのに。
事故などで電車が遅延している情報はない。彼女が仕事終わりにどこかへ寄り道している可能性も考えたが……それにしても、遅い。
政宗が一度電話をしてみようかと思って、自身のスマートフォンを手に取った次の瞬間――
「――政宗君、統治君!!」
壁をぶちぬき、一足早く分町ママが戻ってくる。珍しくその両手には酒を持っておらず、また……目に見える焦りが感じられた。
ダイヤルをする手をとめた政宗が、表情を引き締めて立ち上がる。統治も手を止めてイヤホンを外し、彼女の言葉に耳を傾ける。
「分町ママ、ケッカに……何かあったんですか?」
「ケッカちゃん、ちょっと……ううん、大分具合が悪いみたいなの。一応、地下鉄の仙台駅までは戻ってきたんだけど、改札を抜けたところで動けなくなっちゃって、今、地下鉄の医務室で休ませてもらっているのよ」
「っ!?」
刹那、政宗が持っていたスマートフォンを取り落とす。机の上に鈍い音を立てて落ちたそれを拾うこともなく、次の瞬間、彼は部屋から飛び出してしまった。
「ちょっ……政宗君!? 案内するから待ちなさい!! 統治君、悪いけど伊達君に連絡をしておいてもらえる? ちょっと……彼女、様子がおかしいのよ」
「分かりました。2人を、宜しくお願いします」
そう言って頭を下げる統治に手を降って、分町ママは再び壁の向こうへ消える。
外では、雨が……降り続けていた。
「――ご迷惑をおかけしました」
知らせを聞いてから20分後、ユカを背負った政宗はそう言って、医務室にいたスタッフに頭を下げる。
仙台市営地下鉄、仙台駅構内にある医務室にて。追いついた分町ママに案内された政宗は、その場に居合わせた医務室のスタッフに、自分が彼女の保護者代わりであること、別スタッフから連絡を受けて、彼女を迎えに来たことを説明した。
とはいえ、名字も違えば外見年齢も大きく異なり、顔も似ていない2人である。医務室にいたスタッフからの視線も地味に痛い。
困りきった政宗は……ふと、自分が首からぶら下げている、仙台支局の入館証に気付いた。そして、それと同じものをユカの荷物から発見し、所属している組織が一致していることを証明して、何とかユカを引き取ることが出来たのだ。不明点は名杙に確認してもらって構わない、と、連絡先を付け加えて。
先月もちょっと色々あって、彼女を背負う時間があった。その時は軽くて暖かい、そんな体温を感じることが出来たのに。
朦朧とした意識で、時折荒い呼吸を繰り返すユカは、雨で少し濡れているにしても……体全体が、完全に冷え切っていた。
「ケッカ、大丈夫か?」
「……う……け……」
地下道を歩きながら、政宗がユカに声をかける。丁度帰宅ラッシュの時間でもあるので、道を行き交う人も多く、小声で何か呟くユカの言葉が、政宗には一度で聞き取れなかった。
「とりあえず仙台支局に戻るからな。出来るだけつかまっていてくれ」
ユカに目的地を告げると、背中にいる彼女が首を縦に動かしたことが分かった。政宗はユカを落とさないように注意しながら足を早め、目的の場所を目指す。
ひどく冷たい彼女の体、これが何を意味しているのか……最悪の事態だけは、考えないようにして。
そして、支局が入っているビルの入口で……政宗の荷物一式を持っている統治が待っていた。
「統治!!」
駆け寄る政宗を先導するように、統治は駐車場へ向けて歩き始める。そして社用車の前に立つとロックを解除し、助手席に政宗の荷物を置いた。
「佐藤の荷物はこれだけのはずだ。とりあえず……車で山本を連れて、佐藤の部屋に向かってくれ。伊達先生にもそう伝えている」
「分かった」
「俺は事務所の施錠をしてから電車で移動する。何か必要なものがあれば途中で購入するから、連絡して欲しい。山本は、熱でもあるのか?」
そう言って何となくユカの額に触れた統治は……氷のように冷たい彼女に、驚き、伸ばした手を引っ込めた。
そして……目を見開いて、政宗を見る。
「佐藤……山本に、何があったんだ?」
「分からねぇんだ……俺も、何が何だか……」
一瞬、重苦しい沈黙が空間を支配した。しかし、統治は表情を戻して後部座席の扉を開き、政宗の後ろに立つ。
「俺が一旦山本を引き受ける。佐藤は出発の準備をしてくれ」
「分かった」
そう言って政宗は一度膝をつき、ほとんど意識のないユカの体を統治に渡した。何とか立ち上がろうとするユカを支えて車内に誘導した統治は、靴を脱いで後部座席で横になる彼女に、自分の上着をかける。
上着を握りしめたユカの手は、見て分かるほど小刻みに震えていた。
「まだ寒いか?」
「う、ん……少し……」
「佐藤、お前の上着も借りるぞ。あと、少し車の温度をあげてくれ」
助手席に置いてある政宗の上着を手に取った統治は、広げて、そっと、ユカの上にかけた。
そして、静かに車から降りて扉を閉めると、運転席の横に立って、一度頷く。
統治の姿を確認した政宗は車のエンジンをかけ、雨の降る街中へと滑り出していった。
普段ならば15分程度で到着する道のりなのだが、帰宅ラッシュの時間帯と重なってしまったこともあり、政宗の部屋に到着するまでに、30分程度かかってしまった。
自身が借りているマンションの「来客用」駐車場に車を停めた政宗は、なるだけユカを雨で濡らさないよう注意しながら――と、言っても、屋根のない駐車場なので、髪の毛や衣服が湿る程度には濡れてしまったけれど――ユカをいわゆるお姫様抱っこで抱きかかえ、濡れている地面を蹴り、自分の部屋へと急ぐ。
「……さ、む、ね……」
かすれた声のユカが焦点のあっていない目で、かろうじて政宗を見上げた。マンションの入口、ようやく屋根のあるところまで移動してきた政宗は息を切らせつつ、努めて明るい声でユカに話しかける。
「ったく……大丈夫か? だから今日はやめておけって言っただろうが」
「ごめ……」
申し訳なさそうに謝罪しようとした彼女に、オートロックを解除してエレベーターのボタンを押した彼が、首を横に振った。
「いや、気付けなかった俺が大馬鹿なんだよな。本当に申し訳ない」
「……」
ユカは何も言わず、ただ、政宗に運ばれることしか出来ない。
政宗もまた、それ以上何も言わずに……ただ今は、自分の部屋を目指す。
今、自分の行動を振り返ると……後悔に支配されて、何もできなくなってしまいそうだったから。
ようやくたどり着いた自室の鍵をあけ、政宗は自分の靴を脱いだ。ユカはとりあえず土足のままで、玄関の脇にある客間の扉を開く。客間――統治が泊まる時などに利用している部屋――のベッドに彼女を横たえた政宗は、とりあえず、泥で汚れている靴を脱がせた。そして帽子も外して、出来れば彼女の濡れた服も何とかしたいのだが、そもそも着替えすら無いこの部屋で、どうしたものかと思案する。
ここでユカがぼんやりと目を開き、視線の先で困惑する彼の名前を呟いた。
「……政宗……」
「ああケッカ、どうした? 何か欲しいものでも――」
「――あっ……うわぁぁぁぁっ!!」
次の瞬間、聞いたことのないユカの絶叫が室内に響いた。そして、ベッドの上で身をよじり、必死で何かを我慢するように目を見開いて歯を食いしばる。
「いたっ……体が、痛い……な、これっ……痛い、痛い、痛い痛い痛いい、たっ……あ、あああああぁっ!!」
「ケッカ!?」
ユカは小さな背中を丸め、痛いと叫び続ける。普段は自分に関する苦痛をほとんど口にしないユカの理性をたやすく吹き飛ばすほどの痛みがどれほどのものなのか……今の政宗には、想像する余裕などない。
「い、たい……政宗、痛いっ……!!」
布団を握りしめ、固く閉じられた彼女の目尻には、涙が滲んでいた。
これまで決して泣き顔を見せなかったユカが耐えられないほどの苦痛。目に見えない異常が、彼女の身に発生していることは分かる。
ただ、今の政宗には……何も出来ない。
「ケッカ、おい……ケッカ!!」
「だ、め……政宗、あたしに……さわっ……!!」
「ケッカ!!」
政宗がユカに触れた次の瞬間――世界を反転させるような、そんな凄まじい目眩が、彼に襲いかかった。
感覚が全て歪み、バランスを保てない。大の大人の体が、いとも簡単に床に転がり落ちる。
立ち上がれない、体を自分の意志で動かせない。
気を抜くと――全て、持って行かれそうになる。
「な、っ……!?」
政宗は、一瞬失った意識を必死でつなぎとめ……必死に、手を伸ばした。
手が、届かない。
視界が、ぼやける。
手が、届かない。
意識が、沈む。
それだけはダメだ、せめて、せめて――
「……ユ、カ……」
抗いきれない力によって、強制的に薄れ行く意識の中、だらりとベッドからしなだれたユカの右手を何とか握りしめて……政宗は、そのまま気を失った。
仙台支局の入館証は、顔写真付きです。
……どうでもいいですね。始まりからこんな展開でスイマセン、もうちょっとお付き合いください。