エピソード4:過去の彼女を知らない彼女②
時刻は21時前、場所は変わって、政宗の部屋のリビング。
統治から支局長が直接チェックする必要がある書類を預かった政宗は、ダイニングテーブルにノートパソコンをおいて、コーヒーを片手に仕事をすすめていた。
格好は動きやすい長袖Tシャツとスウェットのズボン。既に風呂は済ませており、いつもセットしている髪の毛が、どこか自由気ままに動き始めている。
そして、パジャマ姿のユカは……ダイニングテーブルから少し離れた広い場所で、大きめのビーズクッションに体を預け、里穂からのお見舞いであるマスカット味の栄養補給ゼリーをデザート代わりに吸いながら、ダラダラとテレビを見ていた。
今日の彼女は昨日よりも体調としては悪くないらしく、食事も食べて、数値的なもの(脈拍や血圧など)もほぼ正常の範囲内。ただ、体温だけは高めなので、額には冷却シートを貼り付けている。
彩衣の判断で、午前中には彼女の協力の元、濡れたタオルで体を拭くことも出来たため……気分としてはスッキリしている、はずだった。
ただ……この少し前に、ちょっと気になることが1つ、今日も発生している。
「……ねぇ、政宗……統治、大丈夫なん?」
体を起こしたユカが政宗の方を見て尋ねると、両手に書類を持っている政宗もまた、重い表情でため息をついた。
「本当、何が起こってるんだろうな……」
今日の19時30分頃、統治が書類を持って、この部屋にやってきた。
そして、3人分の食事を作ろうとして……昨日のように見る見る顔色が悪くなっていったのだ。
この時は既にユカもリビングにいたため、動きか鈍くなる統治と、再び狼狽える政宗に、オロオロすることしか出来なくて。
そんな2人に、目にはいつもと同じ力を宿したままの統治が、しっかりした口調で言葉を返す。
「詳細は伊達先生に調べてもらうよう頼んでいるが……俺はどうやら、この部屋に長くいることが厳しいらしい」
「どうしてだよ、どうして統治がそんなことに……!?」
原因不明の奇病――そもそも病かどうかも分からないが――に、困惑するしかない政宗。そんな彼に統治はいつも通りの強い眼差しを向けると、はっきりと自分の意志を主張した。
「正直俺も訳がわからないし、この場に長くとどまれないことは、歯がゆいと思っている。ただ……何もせずに帰るのは嫌なんだ。食事を一緒に食べることは出来ないが、せめて、山本の分のおかゆくらい……今日は作らせてもらえないだろうか」
「統治……」
こう言う統治を止めることなど出来るはずもなく、政宗は素直に身を引いて……保存用のタッパーを探しに行く。
その様子を、ユカは……少し離れた場所から動けず、見守ることしか出来なかった。
「とりあえず統治からは、自宅について症状が改善されたって連絡は来た、だから心配するな、ケッカは自分のことだけ考えて欲しい」
「そうやね……あたし、何も出来んし……」
そう言って目を伏せるユカに、政宗は一度息をついてから……椅子から立ち上がり、彼女の傍に近づく。
そして、ユカの前にしゃがみこんでから、そんな彼女の肩に、自分の手を添えた。
「何も出来ないことはないぞ、ケッカ。明日、統治が来たら……統治の食事が美味しかったことを伝えてやってほしい」
「政宗……」
顔を上げたユカに、政宗は自然と笑顔を向ける。
「今もそうだけど、やっぱ、美味しそうに何かを食べてるのが……ケッカって感じがするよな。動画で撮影して統治に送ってやろうかな」
こう言われたユカは、持っていた栄養補給ゼリーを両手で握ったまま、楽しそうに笑う政宗に、頬を膨らませて抗議することにした。
「何それ、人を食いしん坊キャラにして……」
「事実そうなんだよ。よく食べてるぞー、俺の金で何度牛タンをおごったことか……」
「牛タン!?」
刹那、ユカの声にいつも以上のハリが出て、目がキラリと輝いた。そして、彼女は自分で持っていた栄養補助ゼリーを両手で強く押してしまい、中身が少しだけ、勢い良く外に飛び出る。
「うわっ!?」
そして、外に飛び出た中身の一部が、ユカの肩に添えていた政宗の手の甲にも飛んできた。ドロリと皮膚に張り付くような感覚に政宗が一瞬顔をしかめると……ユカが「ご、ゴメン……!!」と慌ててティッシュを探す。
そして、彼の手から滴るゼリーを見つめて……小さな声で、ため息混じりに呟いた。
「さすがに、今のあたしがコレを舐めるのは……大分恥ずかしいかなぁ……」
「え……?」
その独白をしっかり聞き取れなかった政宗が尋ね返すが、ユカは既に思考を切り替え、キッチンにあるティッシュの箱を指差した。
「ほら政宗、ティッシュあそこだ。っていうか……手、洗ってきた方がいいっちゃなかと?」
「あ、ああ……全く、気をつけてくれよ」
ユカにそう言ってジト目を向けながら、政宗は一度立ち上がってキッチンヘ移動する。
先程聞こえたような気がするユカの言葉について、自分から聞き出せないままで。
手を洗って戻ってきた政宗に、ユカが改めて、苦笑いを向けた。
「いやーゴメンね政宗。ちょっと牛タンに興奮して……」
改めて彼女の前に腰を下ろした政宗は、苦笑いで誤魔化そうとするユカに、容赦のないジト目を向ける。
「どうしてケッカが興奮するんだよ。俺の金で散々食べてるくせに」
「そげなこと言われても、覚えとらんもん。それに、牛タンを何回かおごってくれたくらいで、そげな大袈裟に言われてもねぇ……」
「牛タンだけじゃねぇよ!! 仙台味噌のラーメンとか、ずんだ餅とか、喜久福っていうスイーツとか、色々食べさせてるだろうがっ!!」
「ラーメンにずんだ餅にスイーツ!?」
刹那、ユカの声に更なるハリが出て、目がキラリと輝いた。そして……2人で顔を見合わせて吹き出し、苦笑いを交換する。
「ほらみろ、やっぱり食いしん坊キャラだろうが」
「そ、それは……だって、牛タンもずんだ餅も食べたこと無いけんがっ……!!」
「だから、俺の金で何度もおごったって言ってるだろう。ケッカはいつも遠慮しないで……」
こう言って――政宗は、我に返る。
10年間の記憶がない彼女は、自分の知っている『山本結果』ではないと思っていた。
ただ、今、こうして話をしてみると……違和感がほとんどないのだ。昨日感じていた認識の齟齬もほぼ解消されているため、普通に話をしていると、いつものノリで、楽しく話すことが出来る。
たった24時間程度でこうも変わってしまうのかと彼自身も大きく戸惑っているが、それだけ、目まぐるしく変化を続けながら過ぎていった24時間だった。
過去の彼女を知らない彼女。
その存在が、政宗を更に惑わせ、迷わせる。
「政宗?」
急に黙り込んだ政宗を、ユカが訝しげな表情で見つめた。改めて彼女を至近距離で見つめると、幼いころの印象を上手く引き伸ばし、大人にしたような……そんな、よく知っている気がする顔つき。しかし、長いまつげや膨らみを増した唇など、パーツごとに見ていくと異なるところがあるため、余計に混乱してしまう。
例えば、このまま抱きしめたら……彼女はどんな反応をするだろうか?
今の彼女なら、もしかしたら――
「政宗……どげんかしたと?」
「あ、いや……そろそろ寝なくていいのか? 昨日みたく口を綺麗にしてから、ベッドまで運ぶか?」
反射的に伸ばしてしまった手を引っ込つつ、政宗は慌てて話題を変えてユカに尋ねる。彼女はその場で少し考え込んで……彼を上目遣いで見つめた。
「えっと……じゃあテーブルの椅子で、政宗の隣に座っても、よか?」
「はっ!?」
予想外すぎる方向から飛んできた答えに、政宗は、素で、変な声を出した。
そんな彼の反応に苦笑いを浮かべるユカが、どこか諦めたような表情でこんなことを言う。
「……やっぱ、邪魔やろか」
「あ、いや、その……こういうことか?」
政宗はそう言って一旦立ち上がると、いつもは向い合せで使っているダイニングテーブルの椅子を引っ張り出し、先程まで自分が仕事をしていた隣に置いた。そして、ユカの方を見ると……彼女が「そうそう」と言わんばかりに頷いていることがわかる。
彼はユカのところまで戻ってから、聞き違いかもしれないので、念のために確認をした。
「俺の隣に座りたい、ってことで……いいのか?」
この問いかけに、彼女が笑顔で何度も頷くから。
政宗はユカの真意を見極められないまま、とりあえず要望通り、彼女を抱えて椅子まで運んだ。そして、自分はその隣に腰を下ろし、再びパソコンと相対するものの……横からの視線が、痛い。
「あ、あのー……ケッカ、どうかしたのか? 俺、何か変か?」
もしかしたら、自分の顔に何か面白いものでもついているのかもしれない。そんな彼の的はずれな心配を「違うよ」と否定したユカは、一度、言葉を区切ってから……はにかんだ笑顔でこんなことを言うのだ。
「仕事しよる政宗、初めてちゃんと見て……なんか、カッコイイなぁって思って。だから、もうちょっとだけ、邪魔にならんように、ちょっと近くで見てたいんやけど……ダメかな?」
「っ!?」
刹那、政宗の顔が一瞬で赤くなった。その変化を目の当たりにしたユカは、不思議そうに首を傾げる。
「政宗……さっきから忙しかねぇ。どげんかしたと?」
「い、いや……こんなの、見てて楽しいか?」
視線を慌ててユカからパソコン画面へそらしつつ尋ねると、ユカは笑顔でコクリと頷く。
「うん、楽しいよ。頑張ってね佐藤支局長っ!!」
努めて明るい声でそう言ったユカは、残っていた栄養補給ゼリーを最後まで飲みきり、空っぽになったパッケージをマジマジと見つめた。
「そういえば、コレをくれた、えっと……名前……」
「里穂ちゃんと仁義君のことか?」
「そう、その2人!! わざわざ学校帰りに寄って、統治にあずけてくれるげな、本当に優しいねぇ……兄妹か何かなん?」
当然のように里穂や仁義のことを知らないユカに、政宗はキーボードを叩く手を一度とめてから……嘘をついてもしょうがないので、事実をありのままに告げることにした。
「2人は……その、許嫁だ」
次の瞬間、ユカが持っていたゼリーのパッケージをテーブルの上に取り落とした。
「いっ、許婚!? はー……」
そして、何度となく「そうなんだ……」と繰り返した後、再び作業を再開した政宗に、普段よりワントーン低い声で……静かに問いかける。
「政宗には……そげな人、おると?」
「へっ!?」
再びぶっこまれた質問に、政宗はパソコン画面を凝視したまま、素で、変な声を出した。
普段ならば「そんな人がいれば、こんなに仕事ばっかりしてねぇよ」と、毒を吐くところだ。現に彼もそう言おうとしてユカにジト目を向け……彼女が、自分を真剣な眼差しで見ていることに気付く。
動揺した。
自分が今、一番大切に思っているのは……目の前の君じゃない。
そう思っている本心を、見透かされたような気がして。
政宗は動揺を必死に隠し、引き締めた口元に苦笑いを浮かべて、言い慣れた定型句を口にする。
「あのなぁケッカ、俺にそんな女性がいるように見えるか? ご覧の通り、仕事が恋人みたいなもんだ」
そう言っていつも通り肩をすくめる政宗に、ユカはどこか気落ちした声で問いかけた。
「仕事……そげん忙しかと?」
「ちょっと今は立て込んでるかな。でも……これが、俺の生きる理由だから」
「生きる……理由?」
意味がわからない、と、目線で訴えるユカに、政宗は静かに右手を握りしめて、それを、彼女の前に突き出す。
「覚えてるよな、あの研修中……3人で約束したこと」
「……うん、勿論」
それは、3人で過ごしたかけがえのない時間。
「約束の証だ。いつか一緒に働くことと……まずはいつか2人で、ケッカに宮城を案内するって」
政宗の言葉に呼応するように、3人で握った手をあわせて、未来へ約束した。
その約束をしっかり果たしている政宗は、ユカに、あの時と同じ笑顔を向ける。
「俺は……ケッカや統治と一緒に働きたくて、『仙台支局』を作った。この居場所を守ること、これが……今の俺が生きる理由なんだ」
そう、力強く告げる政宗に見惚れたユカは……肩をすくめて、一度、息をつく。
そして、そこにある彼の手に、握った自分の右手を軽くぶつけて……笑顔を作った。
「政宗は……大人になったねー……」
「ケッカ……」
そう言われてどこか戸惑っている政宗に、優しい笑顔を向けていたユカだが……その表情を少しだけ曇らせて、ポツリポツリと、頭のなかにあるパズルを組み立てるように……言葉を続けた。
「やっぱり、政宗も統治も、2人とも大人になったなぁって思うことが多いよ。何というか……今まで横並びで一緒に歩いとるつもりやったけど、いつの間にか前にいて……あたし、このまま置いて行かれるんじゃないかって……」
「……」
似たような会話をしたことが、あるような気がする。
どこか不安げな表情だったユカだが、次の瞬間、気持ちを切り替えたのか……口元にニヤリと、先ほどとは違う種類の笑みを浮かべた。
「でも、体が治ったらあたしだって負けんよ。それに……ケッカちゃんは安心したと。政宗がちゃーんと、偉い人としての役目を果たせる大人になっとったけんね」
「……」
似たような会話をしたことが、そう遠くない過去に、あるような気がして。
政宗の視線の先にいるユカは、どこまでも無邪気に笑っている。そんな彼女に……どう接すればいいのか、分からなくなりそうだった。