エピソード3:優しい時間、残酷な時間②
そして、時刻は夕方の17時30分過ぎ。
3人と一誠、麻里子の5人は、研修所からほど近い場所にある、百道浜の海岸に来ていた。ちなみに瑠璃子は夕食の用意があるためお留守番である。
既に海の家の営業も終了している時間。昼間にあれだけ溢れていた人もいなくなり、時折海岸線を散歩する人が通り過ぎる程度だった。
どこまでも続いているような気がする海岸線を見つめ……ユカは一度、呼吸を整える。
これまで『痕』は見てきたし、むしろ今は見慣れている気もするくらいだけど……実際に干渉するのは初めてだ。いくらプロの付き添いがいるとはいえ、何かあったら……と、緊張してしまうのはしょうがない。
失敗をしてしまったら、また、2人と距離が開いてしまう……そんな、根拠のない不安。
そんなユカの後ろに、おもむろに統治が立った。そして、いつもの声音で声をかける。
「今の山本なら、問題ないはずだ。自信をなくすと付け込まれるぞ」
「統治……」
「俺が先にやる。見ていてくれ」
そう言って、彼がユカを追い抜いて歩き始める。戸惑うユカに追いついた政宗が彼女の背中をポンと叩いて、「ほら行くぞ」と彼女を促した。
「統治は宮城で既に経験があるんだそうだ。折角だから一番近くで、しっかり見せてもらおうぜ」
「え、あ……うん、分かった」
そしてユカも海岸の砂を蹴り、統治の背中を目指して歩き始める。
置いて行かれたくない、というよりも……追いつきたい、その気持ちのほうが強くなっていた。
海岸の一角、海と陸地の境界線近く。
そこに佇む少年の姿を見つけた統治は、ポケットに入れておいたペーパーナイフを取り出した。
夕日にさらされたシルバーの刀身が、鈍く、光を反射する。
古賀久志、15歳。
『生前調書』によると、昨年の夏の終わりの明け方に、砂浜で倒れているところを発見された。どうやら、元々夜遊びを繰り返していた少年らしく、補導歴も多い。その日も夜中に友人と集まって花火などで楽しんだ後、ハイテンションのまま暗い海に飛び込んで……そのまま溺れてしまったそうだ。飲酒をしていたのではないか、という話もあったが……結局、真実は明かされないままである。
残っているこの世界との『縁』は、左手から伸びる『関係縁』が1本。
統治達の目の前で、海を見つめて佇む少年――久志が、自分を真っ直ぐ見据えて近づいてくる統治に気づき、目を細める。
目にかかるくらいの前髪と、首を隠す程度の長さの脱色した髪の毛。半袖とTシャツにビーチサンダルという立ち姿は……その全てがぐっしょりと濡れており、前髪の隙間から見える目が、混濁した光を放つ。
最近、海岸で意味不明な罵声が聞こえたり、海の中へ足を引っ張られる事件が続いているそうだ。その原因の一端を担うのが、ここにいる彼らしい。
至近距離で『遺痕』を初めて見たユカと政宗は、予想以上にリアルな立ち姿に、身を寄せ合って息を呑んだ。そんな2人の後ろに立つ一誠が、「しっかり見ておけよ」と声をかける。
「これから2人が生きていくのは、こげな世界やけんな」
統治に向き直って彼をマジマジと見つめる久志が、砂の付いた唇で彼に問いかける。
「そげん俺ば見てから……何しよっと?」
「俺は、名杙統治。お前は……古賀久志で間違いないな」
「古賀……そういえば、そげな名前だったような気もするわ」
彼が少し考えながら返答すると、統治は更に一歩踏み込み、射程距離に入る。
そして、彼の左手から一本見える『関係縁』を掴むと、自分の方へ引き寄せた。
次の瞬間――久志の眦が極限まで釣り上がり、統治へ向けてドスの利いた声で罵声を浴びせる。
「――テメェなにしとんのか!! 俺のもんに勝手に触るんじゃなかぞ!!」
急に豹変した彼の姿に、離れた場所から見ていたユカと政宗はビクリと肩をすくませた。
しかし統治は冷静に、自分へ手を伸ばす彼の動きを見極めて回避してから……『関係縁』を握った指の隙間、親指と人差し指の間から『縁』を少しだけ出すと、輪を作った。そこにナイフをあてがい、静かに――引く。
「……消えろ」
『縁』が『切れた』瞬間――そこにいたはずの久志の姿は、跡形もなく消え去った。
わずか2分程度の時間で一仕事終えた統治に、麻里子は口笛を吹き……一誠は真顔で彼を見つめる。
「うわぁ……鮮やかに容赦ねぇ……」
そんな彼の呟きに、ユカが首だけ動かして質問をぶつける。
「ど、どの辺が『鮮やかに容赦ねぇ』とですか……?」
「俺たち普通の『縁故』は、『痕』や『遺痕』に限らず、『縁』に干渉すると、それなりにストレスが蓄積されていくんだ。だから間に道具を挟んで直接触らないようにしたり、連続で切らないように……そして、相手を穏やかな気分にさせて『縁』を切ること、これが望ましいとされていることは、この間説明したな」
「う、うん」
「名杙君はトップオブ例外の1人だが、『縁故』の仕事は相手の名前を告げて認めさせて、自分優位の環境を作るところから始める。そして、『遺痕』がここに留まっている理由を尋ね、同調することで、相手をより穏やかな気分にさせたところで――切る。これが大原則なんだが……」
一誠はここまで言ってから、数m先で涼しい横顔を見せる統治に、改めて舌を巻く。
「さっきみたいに激高した相手の『縁』を切るのは、初心者においそれと出来ることじゃない。勿論、これまでにも『縁切り』の経験があることは知っているが……名杙は彼の才能を叩き潰すつもりだったのか? 俺でもあそこまで冷静に対処出来るかどうか……あんま自信ねぇぞ」
そう言っている4人のところに、統治が真顔で戻ってきた。そして、麻里子以外の3人が自分を凝視していることに気付き……顔をしかめる。
「……どうしてそんな顔になる」
アハハと一際大きな笑い声を出した政宗が、統治に向けて苦笑いを継続したまま……心のなかにある弱音を吐き出した。
「い、いや、統治の仕事があまりにも鮮やかで……俺、絶対無理じゃないかってさー」
そんな彼に、統治が真顔で言い返した。
「俺だって、最初から出来たわけじゃない。初めてでそう簡単にうまくいくわけないだろう」
「そうだよな、おう、俺も頑張るぜ!!」
こう言って笑顔を作る政宗を、統治がどこか怪訝そうな表情で見つめた……次の瞬間。
「――おい、次がお出ましだぞ。どっちが行くんだ?」
一誠の声に我に返った3人は、視線を同じ方向に向けた。
夕日に照らされて海岸線を歩いてくる少女が1人。下の方で2つに結った髪は肩の下に届く程度、学校指定の紺色水着と、足にはビーチサンダルを履いており……やはり、全身がぐっしょりと濡れた状態で、フラフラとコチラに向かってくる。
統治と政宗が、ユカを見つめた。
ユカ自身も分かっていることだ、今回の対象となっている3人の中で、唯一の女の子。
彼女――田中美鳥が、自分が『縁』を『切る』最初の相手になることが。
その両手にハサミを持って、唇を噛みしめるユカ。そんな彼女の後ろに立つ一誠が、両肩にポンと手を添える。
「俺も一緒に行く。今の山本ちゃんなら大丈夫だから、冷静にな」
「は、はいっ……!!」
一誠に促される形で、ユカはそっと、美鳥の方へ近づいていった。近づくことで、彼女の右手に『生命縁』が1本、残っていることがはっきり分かる。距離としては、5メートル程度。
ユカ達の動きに気付いた美鳥もまた足を止めて、自分と同じ年齢くらいのユカを見つけると……顔を上げ、その口元に、ニタリと、醜悪な笑みを浮かべる。
ペタリと張り付いた髪の毛と相まって、しばらく夢に見そうな……そんな、オカルティックな光景。
特に小さな子どもを狙って海へ引きずりこもうとする……そんな、『遺痕』。
「……ねぇ、一緒に……遊ぼう?」
「っ!!」
ユカの体が萎縮した次の瞬間、一誠が肩に置いた手に力を込める。
そして、ユカの耳元に口を近づけて――改めて、手順を繰り返した。
「落ち着いて、深呼吸」
「――っ……」
「最初に、相手の名前を尋ねる」
「あなっ……あなた、田中美鳥、ちゃん……ですか……?」
ユカの声に、美鳥が嬉しそうな声で返答した。
「えっ!? 美鳥のこと知ってるんだ!! 遊ぼう、一緒に遊ぼうよ」
そう言って更に一歩近づいてくる美鳥。しかし、ユカの後退りは一誠が許さない。
「次に、彼女がどうしてここにいるのか、尋ねる」
「えっ、と……美鳥ちゃんは、どうしてこんなところにいるの?」
「美鳥はね、お父さんとお母さんとお兄ちゃんと一緒に、海に遊びに来たんだよ!! お父さんが仕事のお休みをとって、連れてきてくれたんだ!! 優しいでしょー……あれ、そういえば、知らないお兄さんから一緒に遊ぼうって誘われて……あれ……?」
「……」
ユカを含むここにいる全員は、『生前調書』で、彼女が命を落とした理由を知っている。
彼女は今年の夏休み初日、その日偶然居合わせた暴漢に襲われ、首を絞められて気絶したところを海に遺棄されたのだ。その後意識が戻り、溺死した……という検死結果が出ている。
犯人はすぐに逮捕され、現在、取り調べが行われている。しかし、意味不明な言動も多いようで長引きそうだ、と、福岡のローカルニュースで報道していた。
「あれ、美鳥……どうして、お父さんたちと一緒じゃないんだろう……」
しかし、当の本人は、自分がどうして死んだのか、何も理解していないようだ。
一誠が動揺しているユカの肩を一度叩き、冷静に指示を出した。
「山本ちゃん、彼女の楽しい思い出に現在形で同調してあげて。楽しそうだね、って……」
「あっ……えと、その……っ……」
「じゃあ、俺の言ったことを繰り返して。『海で遊べて、楽しそうだね』って」
「う、海で一緒に遊べて……美鳥ちゃんは、楽しそう、だね」
ユカの言葉に、彼女はとても楽しそうに首肯した。
「うん!! すっごく楽しいよ!! 次は何をして遊ぼうかなー?」
一誠が静かに、ユカの体を前に押し出した。
「左手で、彼女の『縁』を掴んで」
美鳥へ更に近づいたユカの左手が、宙に漂っている彼女の『関係縁』を掴む。
握った瞬間――この『縁』が誰とつながっているのか、ユカには何となく分かったような気がした。
一瞬困惑する心。でも、右手に握ったハサミを見て――思い出す。
このハサミを一緒に選んで、一緒にここに来た――仲間のことを。
――追いつきたい。
そう思ったら……ざわついていた心が、少しだけ、穏やかになった。
「――そして、切る」
一誠の声に従って、ユカは無意識の内に息を止めて、左手に持った『関係縁』を、右手に持ったハサミで……静かに、切った。
次の瞬間、自分の目の前にいたはずの少女が……跡形もなく、消える。
全て終わったことを確認したユカは、気が抜けたのか……砂浜の上にへたり込んでしまった。
ハサミを取り落としそうになり、慌てて強く握りしめる。
「山本ちゃん、よく頑張った。体の具合が悪いところはない?」
「ない、です……」
とはいえ、体の震えが止まらないユカに、しゃがみこんだ一誠が心配そうな眼差しを向ける。
「……誰とつながっていたのか、感じた?」
彼の言葉に、ユカがコクリと首を縦に動かす。
「多分……あの子のお父さん、だと、思います……凄く喜んでいたし、優しいって……」
そこから先は、言葉にならなかった。
『縁』に干渉すると、ストレスが蓄積されていく。先程左手で他人の『関係縁』を初めて掴んだユカは、『縁』を通じて微かに流れ込んできた情報で、美鳥の生前の思いを、より深く感じ取ってしまったのだ。
楽しいはずの夏休み。大好きな家族と一緒に、思い出を作るはずだった。
それを台無しにされて、それでも……彼女は、何も知らなくて。
ユカには、そんな思い出を作ってくれる家族はいないから、彼女の気持ちは理解出来ないと思っていた。それなのに……どうしてこんなに楽しくて、その楽しさに、泣きそうになってしまうんだろう。
「山本ちゃん、辛いかもしれないけど……あの子はここにいても、もう二度と、家族と遊ぶことは出来ないんだ」
一誠の言葉に、ユカは静かに頷いて立ち上がる。
そして、彼の方へ向き直り……ペコリと軽く頭を下げた。
「分かってます……すいません」
確かに、『縁』に直接触れた時は、初めてのことということもあり、覚悟していた以上に動揺してしまったけれど。
でも……これを乗り越えなければ、政宗や統治とともに並び立つことなど、出来るわけがない。ましてや一緒に働くなんて、夢のまた夢だ。
だから、今は辛くても……涙は流さない。歯を食いしばって乗り越えるんだ。
ユカは右手に持ったハサミを、もう一度、強く握りしめた。
追いつきたい、そして――追い越したい。
こんなところで、立ち止まりたくはない。
「……もう、大丈夫です」
そう言って顔を上げたユカには、これまで以上に強い決意が宿っているように感じられて。一誠は彼女の今後が末恐ろしくなるのだった。
そして――夕日が沈み始める数分後、本日最後の『遺痕』が、3人の前に姿を現す。
鷲尾響、13歳の男の子。
1人残った政宗が、右手にハサミを持って、どこか緊張した面持ちで、3人から一歩前に踏み出した。その後ろには先程と同じように、一誠がサポートに立つ。
まぁ、政宗はユカよりも落ち着いているから大丈夫だろう、と、心のなかで思っていた一誠なのだが……そういうのは大抵、良くないことへのフラグなのである。
海岸にちょこんと座って、陸の方を見ている彼――鷲尾響に……政宗と一誠は静かに近づいた。
距離としては5メートルほど離れた位置で、響が2人に気付き、顔だけを動かす。
短髪でTシャツと短パン姿の少年は、昨年の夏、沖で1人で遊んでいたところを流されて……一ヶ月ほど行方不明になった後、漁船に発見されたそうだ。生前には問題行動や意味不明な――俗に言う『中二病』的な言動も多かったことから、海岸で妙な幻聴や罵声に悩まされる人が続出しているらしい。これまでの2人と同様に、全身から水が延々と滴り落ちている。
残っている『関係縁』は、左腕から。1本。
響の状態を確認した一誠が、政宗の両肩に手をおいて、静かに指示を出し始めた。
「最初に、相手の名前を尋ねる」
「えっと……鷲尾響君、で、いいかな」
政宗の言葉に、響は混濁した瞳で彼を睨みつけたまま、どこか諦めた表情で吐き捨てる。
「出たな、死神め。崇高な僕を殺そうったって……そうはいかないからな」
「え……?」
唐突な言葉に、政宗の動きが固まる。
次の瞬間、一誠が彼の肩を握って現実に引き戻した。
「佐藤君、落ち着いて。相手の挑発にのる必要はない。名前を認めさせるまで、何度か尋ねてみて」
落ち着いた一誠の声に自分を奮いたたせる政宗は、唇を噛み締め、何かをこらえる。
「その……えっと、鷲尾響君だよね? 自分の名前、分かる?」
狼狽えつつも立て直そうとする政宗を、立ち上がった響が真正面から見据えて……。
「僕には分かるんだ。お前は既に何人か殺しているだろう? なんたって、僕を殺す死神なんだからな」
「……死神……」
忘れたつもりだった。
少なくとも今までは、忘れられてたのに。
どうして、思い出してしまったんだろう。
……どうして、忘れたと思っていたんだろう。
「お前はきっと、これからも誰かを殺すぞ。だって、神に選ばれた僕を殺すために漆黒の世界からやってきた、残酷な死神なんだからな!!」
彼は声高らかにそう言って、張り付いた前髪の隙間から、背筋がゾクリとする強い眼差しを向けた。
一誠は内心、「さっきから何を訳の分からないことを……そもそも君はもう死んでるんだよ」と、ため息を付きながら軽く考えていたが……一誠の前にいる政宗の様子がおかしいことに気付いて、そっと、横から彼の顔を覗き込む。
「佐藤君、気を取り直してもう一度彼の名前を――」
そして、顔を白くして立ち尽くしている政宗に気付き――直感でこれはヤバイと頭を切り替える。
「――麻里子さん、佐藤君を『遺痕』から引き離します、対処をお願いします!!」
政宗の手を引いてその場から離れる一誠とすれ違った麻里子は、ものの数十秒で、『遺痕』の処理を完了させた。
そして、少し離れた場所にいる4人と合流して……政宗の様子を確認し、表情を引き締める。
思い出してしまう。
忘れていたつもりだったのに。
忘れられるわけがないのに。
無理やりフタをした過去は、こんな、直接関係のない、本当に些細なキッカケで……彼の中に再びどす黒く溢れ出す。
自分の周囲にいた人々が、次々と死んでいった――決して変えられない過去。
もしも、もしも……自分がここで失敗して、ここにいる2人が、同じことになってしまったら――
心が、乱れる。
全てが、崩れる。
「――っ!!」
政宗は目を見開き、何かを否定するように必死で首を横に振った。
でも、その程度で晴れるような闇ではない。
彼の心は、ずっと――暗闇の中で、夜明けを待ち続けている。
「佐藤、おい佐藤、一体どうしたんだ?」
「政宗……ちょっと政宗?」
2人に代わる代わる話しかけられた政宗は、ここでようやく我に返り……2人を見つめて、静かに問いかけた。
「なぁ……俺ってやっぱり、『死神』なのかな……」
唐突な問いかけに、何を言っているのかと顔をしかめた2人だったが……政宗の目から涙がとめどなく流れていることに気付き、何も言えなくなってしまった。
いよいよ3人の実地訓練です。夏の海は……多いのです。
ここでユカは完全に「2人に追いつきたい(むしろ追い越したい)」と前向き思考にシフトするのですが、対する彼が……ちょっとしたことで大きく躓きましたね。さて、これまで率先して引っ張ってくれた彼を、2人はどうやって引っ張り上げるのでしょうか。




