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私とあなたと桜

作者: 咲夜琉命

 涙さえ、流れなかった。

 人は本当に辛い事態に直面したとき、泣くことすら忘れてしまうほどに衝撃を受けてしまうのかもしれない。

 胸にぽっかりと大きな穴が空いてしまったかのように、私の心はからっぽだった。


 貴方という存在が、いつの間にか私の中で肥大化していたのだ。知らず知らずのうちに、私は貴方に依存していた。だから、貴方を失ってしまった今、私はここまで意気消沈してしまっているのだと思う。

 今まで、私はずっとずっと貴方に尽くしてきた。自分のことなど二の次にして、貴方のために生きてきた。自分のこと以上に、貴方を愛していた。貴方のためなら、たとえ世界中を敵に回しても構わなかった。

 それなのに。

 どうして、私の前から姿を消してしまうの……?

 心の中で何度問いかけてみても、貴方は答えてくれはしない。私の心に住む貴方は、いつもと変わらぬ屈託ない笑顔を浮かべているだけで、決して口を開いてくれはしない。


 貴方の笑顔は、いつも私を癒してくれた。

 私の下手な料理を、「おいしい」と言って喜んで食べてくれた。

 休日にはドライブに連れていってくれた。

 満開の桜の木が立ち並ぶ公園に言って、肩を寄せ合って美しい花びらを眺めた。

 遠くのデパートなんかに出向いて、一緒に買い物を楽しんだ。


 アルバムをめくっていくように、貴方との想い出が次々と蘇ってくる。

 ……ああ、どうしてこんな時に思い出してしまうのだろう。

 ずっと続くと思っていた、幸福な日々。幸せな時間。どれも大切な想い出のはずなのに、今思い返すと胸がずきずきと痛む。


 そうして気が付けば、私は桜の花びらが舞う大きな公園にたどり着いていた。

 あてもなくふらふらと歩いていたものだから、目立ってはいなかっただろうか。喪服姿の女性がおぼつかない足取りでさまよっている、というのは少々不気味だったかもしれない。それくらい、私は周囲に気が回らなかったのだ。

 その公園は、貴方が好きだった場所。私が好きだった場所。貴方と一緒に、何度も桜を見物した公園だ。

 毎年この時期になると、この公園は桃色の花びらで満たされる。

 時折風が吹いて梢を揺らすたびに、花弁がひらひら落ちてゆく。その様子がまた良いんだ、と貴方はいつも言っていた。

 私は、この公園に引き寄せられたのかもしれない。


 澄み渡った青空を背景に、桜の木が続く。例年通りの美しい景観。

 でも、私の心は全く例年通りではなかった。とてもじゃないけれど、今までのようにぼんやりと桜を眺めていられるような心境ではないのだ。

 桜がその役目を終えたかのように、少しずつ散っていく。人々がそれを見つめ、感動している横で静かに消えてゆくのだ。寂しく、儚く、この世からはじき出されていくのだ。


 そう考えている間にも、風の悪戯で髪に絡みついてきた花びらが、小さな輪を描きながら地面へと落ちてゆく。

 ふと。

 落ちていく花びらが、貴方と重なった。

 どんなに愛していても、好きでいても――去っていってしまう。やがて、散ってしまうのだ。


 じわじわと、こみ上げてきた。――貴方が居なくなってから、ずっと流れることのなかった涙が。

 まずい、と思ったときにはもう、遅かった。一筋の涙が頬を伝って、花びらの上にぽたりとこぼれ落ちた。

 この場所に来るのは、いつも貴方と一緒だった。腕を組んだり、手を握ったりして貴方の肌のぬくもり感じながら、共に桜を眺めていた。

 ――今、私は一人で桜を見つめている。

 それが、心のなかで未だ信じきれずにいた現実を加速させた。より一層孤独を感じてしまう。


 堰を切ったように、両の目からどんどん液体が押し寄せてくる。堪えようと唇をかみしめてみても、駄目だった。

 限界まで溜め込んでいたものが一気に爆発したように、滝のように。私ははらはらと涙を流した。


 あの花びらのように、貴方は散ってしまった。

 辛いことがあっても、時間が傷を癒してくれる、なんてどこかで聞いたことがある。どこのペテン師の台詞だろうか。そんなもの、間違っている。

 どれだけの時間が経とうとも、貴方は決して返ってこないのだから。


「今年も、桜が飛んでいくわね」


 突然、背後から声がした。そこにいたのは、同じく喪服姿の女性。それは紛れも無く、お義母さんだった。ふらふらと去っていく私を追いかけてきたのだろう。彼女はいつも私を気にかけてくれていて、本当に、私にもったいないくらいの優しくて素敵な人だ。

 

「ーー飛んでいく? 散る、とか落ちるではないのですか?」


 飛んでいく。

 その表現に、私は妙な違和感を覚えずにはいられなかった。花びらは、どう見ても地面へと落下していくではないか。


「いいえ、飛んでいくのよ」


 しかし返ってきたのは、否定。断固たる強い意思をもってその表現を用いているのだろうか、彼女は。


「希望を持って飛び立っていくーーそう考えた方が幸せではないかしら? だから、また春が来たとき、素敵な花を咲かせるのよ」


確かに、そうかもしれない。

その考えはとても美しいように思えた。


「あの子だって、飛んでいったのよ」


その声は震えていた。

私にはその言葉をすぐに受け入れられそうにない。けれど、反論できるわけでもなくて。


涙がひたひたと地面に滴り落ちる。


「そう……飛び立っていったのよ」


お義母さんは繰り返す。

それは私だけではなく、自分自身にも言い聞かせているようでもあった。


「……あなたも見ていたでしょう?」


何を、と具体的に示されなくとも、私はその言葉の意味を理解した。涙でくしゃくしゃになった顔で、ゆっくり頷く。


ーーその報せを聞いて病院に駆け込んだとき、貴方にはまだ意識があった。現実を受け入れられずにただ呆然としていた私を見て、あろうことか、貴方は笑っていた。衰弱しきった手で私の掌を優しく握りしめ、微笑んでくれたのだ、貴方は。

貴方の方が、私よりもずっと冷静だった。


「あの子が逝くとき、確かに笑っていたわ。あれは……希望に満ちた表情だった」


「そう……かもしれませんね」


「そうよ。あの子は、空の向こうへと飛び立っていったの。だから、きっと……きっと、私たちを見守ってくれているわ」


ーーだから、もう泣かないで。

お義母さんはそう諭してくれた。

自分だって泣きたいだろうに。私なんか放っておいて、泣き叫んでも誰にも咎められないだろうに。


辛いのは私だけではないのだ。

悲劇のヒロインを気取って、周りに気が回らなかった。

お義母さんは、苦しいのをこらえて、私を元気付けてくれたのだ。私には、まだこんなに想ってくれる人がいる。こんなに心配してくれる人がいる。

ーー今になってようやく、気付かされた。

私は今までずっと貴方に寄りかかるようにして生きてきたけれど、そうじゃない生き方だってある。


ねぇ……。

貴方は、あの空から私を見守ってくれているの?


私から見ることが出来ないだけで、確かに貴方はいる。私を見ていてくれている。

そう思うと、少し楽になれた。

貴方を失ったからといって、貴方との思い出まで失うわけではないから。貴方と過ごした時間は、確かにあったのだ。それをなかったことにしてこれから生きていくなんて、悲しすぎる。それはきっと、貴方という愛しい人を否定することだろうから。

だから私は、この現実を受け入れて生きていこう。

私の心には、貴方がたくさん溢れている。私と貴女の愛の形が、数えきれないほど眠っている。


貴方は、心配していただろうか。疲弊しきって、抜け殻のようになってしまった私を。

だとしたら、こう言ってあげよう。


「もう、心配しなくていいよ」



桜が風に乗って飛んで行く。

桃色の花びらたちが、心なしか笑っているような気がした。

来年も、お義母さんと一緒にここに来よう。

ーーそう、桜の咲くころに。





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