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すべての幸せをオアズケに

 最終回です。挨拶は、後書きに回します。

「何であの自販機は残っていると思う?」

 俺は話を逸らすためではないが、先程タカシが炭酸飲料を買ってきた赤い自販機を指さす。タカシは目を細め考える。みんなこんな表情で考え込んだら争いはなくなるのではないか、と思わせるほど純粋な顔だった。

「撤去するのに金がかかるからっすか?」

「あの自販機は一種類しか売ってないのだろう?このあたりに他に自販機はない。みんなそれを買うしかない。買ってもいいと思う。選択肢がなければ、それで満足する。」

「なるほど。商業の基本みたいな話っすね。」

 タカシは自分に納得させるように、何度もうなずく。確かに、商業の話にも聞こえる。しかし、俺はあの自販機からもうひとつ別の側面、善悪も利益も超えたものを見出していた。

「世の中には無駄な選択肢が増えてきた。それは人が求めるからだ。現状でも満足できるはずなのに、さらに幸福を求める。幸福が欲望を生み、欲望が不幸を呼ぶ。」

「そうっすか?俺は俺の飲みたいもの飲みたいっすけどね。」

 俺は言葉に詰まる。飲料の例では俺の言いたいことに上手く当てはまる例がないようだ。「選択肢に惑わされ、本当に欲するものが分からなくなる。それが不幸だ。」と言うこともできなくもないが、少し違う気もする。

「先輩。独身っしょ。」

 タカシが自信満々に答える。その自信はどこから来るのか、よく分からない。俺はうなずくことも首を横に振ることもしなかった。

「絶対そうっすよ。先輩はきっと、自分だけが幸せであることを受け入れない。性交ですら、罪悪感を持つ。」

「なぜ分かる?」

 俺はタカシを見る。タカシはこちらを見ない。まるで、その視線の先に自分が言うべき言葉が書かれているかのように、タカシは視線を動かさなかった。

「先輩、欲望を拒絶しないでくださいよ。欲望あってこその世の中じゃないっすか。アインシュタインも知の欲求があっただけで、原爆をつくるつもりはなかったんすよ。」

「それとこれとは訳が違う。」

 性交とアインシュタインを並べるな。

「俺もよく思いますよ。毎晩毎晩、女の子騙して何やってんだって。でも、それでいいじゃないっすか。欲望は抑えられないっすよ。その欲望を解消してあげて、何が悪いんすか?その欲望が解消されるなら、俺はどんな不幸でも被りますよ。いくらでもお世辞言いますよ。裏でゲエゲエ、吐いてやりますよ。でもそれで、また頑張れるんすよ。不幸を受け入れることができるんすよ。幸せと不幸を繰り返して、俺らは生きているんじゃないっすか。」

「違う!」

 俺は叫ぶ。ベンチの周りに漂う空気が俺の声に共振し、震える。それはあまりにも切なかった。空気が泣いていた。何を言えばいいのか、何を考えればいいのか、もはや分からなかった。

「そうじゃない。そうじゃないんだ。」

 俺は頭を抱え込む。抱え込むと、まるで炭酸の泡が缶の底から浮かび上がってくるかのように、過去の場面が頭の中に浮かび上がってきた。



 怒鳴り合う二つの声。狭いドアの隙間から暗い部屋に光の筋が入ってきているのが見える。信じられない、とか、しつこいんだよとか、ドアの向こうから聞こえてくる声は確かに聞き慣れた声であったが、こんなに感情を露わにした両親の声を聞くのは、これが初めで最後だった。

 止めるべきなのだろうか。起き上がり、部屋の外に出て泣き出せば、喧嘩は収まるのではないだろうか。俺は知っていた。いつもそうやって、喧嘩は終わっていた。ただ、その夜だけはそうしなかった。その夜に限って、そんなことをするのは卑怯だという気がしていた。俺はぎゅっと目を閉じる。

 案の定、次の日の朝、父はいなくなっていた。母は泣きそうな声で、お仕事でしばらく帰ってこないと言ってきた。俺は何も言わなかった。何を言ったところで、慰めにはならないだろう。ただ、何でそんなことになったのか、どうして、父は浮気などしたのか。それが気になった。気になったが母には聞かなかった。

 その後、母が事故で亡くなった。俺が高校を卒業した直後のことだった。父の仕送りもなく、母の稼いだ金でなんとか学校に通っていた俺は、大学への進学を諦め、気がついたら、犯罪に片足をつっこんでいた。悪運が強かったのか、警察に捕まることなく、今日までなんとか生きてこられた。

 ある日、空き巣に入った家の写真が気になった。その写真を見ると、見覚えのある男性が、見知らぬ女性や子供たちと一緒に笑顔で映っていた。俺は、その男のそんな笑顔を見たことがなかった。俺たちが不幸になった代わりに、あいつが幸せになったのか。その写真を破り捨てたい衝動に駆られたが、余計なことをするのは命取りだ。そう冷静に判断し、そのまま家を出た。


そこで、我に返る。抱え込んだ手の中から頭を持ち上げる。どれくらい時間がたっただろうか。タカシはもう帰っただろうか。さりげなく、横を見る。

タカシは待っていてくれた。途方もない沈黙の中で、俺の次の言葉を待っていてくれた。その瞳の奥では一体何を思っているのか、それとも何も思っていないのか。

「過剰の幸せは不幸を呼ぶ。そして不幸は偏る。そう思わないか?」

 タカシは黙っていた。もうこれ以上言うことはない。言うことができない。

「先輩。だから、空き巣なんかしてるんすか?あんな高級マンションばかり狙って。」

 俺は黙っていた。もうこれ以上言うことはない。言うことができない。

 タカシは静かに立ち上がる。鳩が一羽、空から降りてきた。羽をしまうと首を前後に動かし歩き出した。

「飲み物、ごちそうさまでした。おいしかったっす。」

「ちょっと待て。」

 俺はタカシを呼び止める。タカシは立ち止ってくれた。

「同業者か?」

 タカシは茶色い髪をいじる。

「違いますよ。俺はただのホストっすよ。俺に先輩みたいな度胸と使命感はありませんよ。」

 ホスト、か。ホストもいろいろ考えて生きているんだな。認識を変える必要がある。

「本当に俺とおまえは会ったことはあるのか?」

 バスケとハンドボールは交わることはあるのか?部活以外で先輩後輩関係はつくられるのか?タカシは表情で笑う。

「いや、ないっすよ。初対面です。」

 時間が止まる。俺の目に映る景色にはわずかな変化さえなかった。タカシは表情一つ変えない。

「じゃあ、なんで―」

「あれ?先輩、俺より年上っすよね?俺24なんすけど。」

「23だ。」

 笑いの表情が消える。呆気にとられている。再び、表情で笑ったかと思うと、短く息が漏れた。

「まあ、いいっすよ。人生の先輩は年齢じゃないっすから。」

 タカシは声をあげて笑う。口角がつり上がるのを感じる。息が漏れる。溜息はやがて、笑い声になる。


 タカシと別れた後、俺は例の自販機の前を通った。率直に言うと、タカシは嘘をついていた。そこには色とりどりの、さまざまな飲料が並んでいた。ところどころ、「売り切れ」の赤い文字が点滅していたが、炭酸飲料以外にも選択肢はあった。俺は肩をすくめる。

「騙されたな。」

公園を出ると、俺は声をかけられた。見覚えがあると思ったら、先程まで公園でうなだれていたサラリーマンだった。その目には活気というものが見られなかった。この世の全てが信じられないというような、そんな目をしていた。中年のサラリーマンは、俺にすがるような笑みを浮かべる。

「今、あなたは幸せですか?」

 俺は少し考える。目の前で鳩が追いかけっこをしている。あと少し、というところで雌は飛び立つ。俺はサラリーマンに笑いかける。

「いいえ、別に。」

 俺はサラリーマンを置いて、目的地に急ぐ。

 すべての幸せをオアズケに。いつかそんな日が来ることを、今日も夢見ている。


 以上で、「すべての幸せをオアズケに」はおしまいです。テーマの割に、少しあっさりしていたようにも思います。

 「誰もがみんな幸せ」という状況は、まず不可能だと思います。だからといって、「世の中の不幸をなくすために、自分は幸せになってはいけない」と考える必要もないと思います。自分が納得できるように生きていけばいい。私はそう思います。

 いまの自分の行動が、将来、どんな結果を招いたとしても、「まあ、仕方ないか」と苦笑いして、次につなげることができればいいんじゃないでしょうか。あまり、自分ばかり責めなくてもいいんですよ。

 最後に、アインシュタインの言葉を引用(うろ覚えですが・・・)して、この物語はおしまいにしたいと思います。


「どうして、自分ばかり責めるのですか?必要なときに他人が責めてくれるから、いいではないですか。」

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