オータムンストリート
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街のカフェで頼んでいたコーヒーを飲みながら、一緒に付けてもらっていたスイーツを食べる。さすがに十月も下旬に差し掛かると、秋が深まりゆく。通りには枯葉が落ち、歩道全体が色褪せた葉っぱでいっぱいになる。その様子がカフェの店内からも見えた。取り出していたスマホをネットに繋ぎ、いろんな情報を見ながら、ゆっくりし続ける。
「草刈さん」
「はい」
「秋が深まってきましたね」
「ええ、そうね。もう暑くないし」
たまたま店のマスターでコーヒー職人の野島がやってきて、あたしに話しかけた。時折スマホから目を上げて、野島の方を見つめる。バリスタの淹れたエスプレッソは実に美味しい。こういった美味しいものを堪能するのも健康にいいのだ。普段はエスプレッソのコーヒーと言っても、インスタントタイプばかりなのだし。
「失礼だけど、このお店、流行ってるの?」
「いえ、そんなに。……ただ、固定のお客様は草刈さんぐらいでしょうね」
「確かマスター、ご病気か何か患ってらっしゃらない?」
「ええ。末期の肺ガンでもう長くないんですよ。一応人生の最後にこの店でこうやってお客様を持て成させていただくのが、せめて自分に残された使命だって思ってまして」
「そう……」
幾分言葉尻が濁ったのだが、あたしも察するところがあった。マスターは野島茂雄という名前で、昔から馴染みだ。最初この店に来たとき、互いに二十代後半だったので、それから三十年とちょっと経っている計算になる。互いに五十代で、人生の残りを楽しむことが目的だった。あたしも仕事はしているのだが、会社でも役員の地位にいて役員室で執務していた。
この店には最低でも週に二回から三回は来る。野島の淹れたエスプレッソのコーヒーを飲みながら、持っているスマホで情報を見ていた。老眼鏡を掛けている。あたしも年齢相応に老眼が入っているのだった。だけど五十代ともなれば、別に不自然じゃない。野島はずっと立ち仕事だったから、足が棒になっているようだった。文字を読むことはあまりないらしい。あたしも会社では通常のノートパソコンかタブレット式のパソコンを使っていた。まあ、仕事と言っても、そう大したことをしているわけじゃないのだけれど……。
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普段役員室にいるときは、ずっと立ち上げていたパソコンで部下たちから企画書なり、必要な書類なりをメールで送ってもらって読む。そして採用の可否を検討していた。この季節、空気が乾燥していて喉をやられる。室内に加湿器を付けていた。あたしも送られてきた文書はオンラインで見ていて、必要があればプリンターで印字する。プリントアウトした書類を持って社長室に行くことがあるのだ。
社長の木村はずっと室内でパソコンの画面に見入っていた。ドアをノックすると「はい」という声が聞こえてくる。「失礼します」と言って入っていき、中で持ってきていたものを見せた。面白いことを考え付く部下がいるのだ。これは、と思うものがあるときは木村に見せる。最終決定権は社長にあるからだ。
「草刈君」
「はい」
「君もいろいろとアンテナ張ってるんだね?」
「ええ。情報がないと、仕事ができませんし」
「今度、うちの社の人間にもいろいろやらせてみようと思う。私も社長である以上、部下たちを動かすのが仕事なのでね」
「是非そうなさってください」
木村は年齢はあたしと変わらないぐらいで、先代からこの会社を引き継いだ。やり手というわけじゃなかったのだが、頭はなかなか切れる。この会社は二代目である目の前の男の裁量によって決まるのだ。確かに社の御曹司で最高学府である東都大の経済学部に現役で合格し、卒業後、部長職から入ってきた。下積みこそしてないにしろ、十分経営能力はあると思える。
木村に書類を手渡した後、一礼し、社長室を出ていく。社にいる間はずっと仕事が続くのだが、オフになればゆっくりしていた。あたしも五十代で独身である。一度結婚した後、子供が出来ないまま、四十代で離婚した。甥や姪には子供がいるのに、あたしの方は結局授からずに終わったのである。
役員室に戻ってから、パソコンのメールボックスを見て、新着メールが入ってないかどうかチェックする。普通にこれが仕事なのだ。あたしも新しいことを始められる年齢じゃない。ただ、企画書や書類などの類は読み続けていた。部下たちは面白いことを考え付く。あたしや木村が知らないようなことも知っている。やはり弾けんばかりの若さがあるからだろう。アンテナは若手や中堅の人間たちの方がより多く張っていた。
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社内での仕事に区切りがつくと、野島の経営するカフェに行く。街の目抜き通りにある木々は早くも冬枯れていて、秋が終わることを暗示している。あたしも店に入り、野島の顔を見る。やはりガン患者とあってか、顔色は冴えない。ただ、彼は人生のラストステージを客を持て成すことに使いたいようだった。それだけ三十年ほどやってきたことに対し、愛着があるのだろう。
「草刈さん」
「何?」
「いつもご利用ありがとうございます。私も常連客であるあなたには頭が上がりません」
「そんなこと、気にしなくていいわよ。あたしだって、このカフェに凄く愛着があるの。今の会社に入ってからずっと利用してるし」
先日栗色にカラーリングした髪にも、すでに白髪が混じり掛けていることは自分でも分かっていた。コーヒーを一杯頼み、ふっと外を見る。秋の街は冷え込んでいるから、通りを歩く人たちは皆、長袖のシャツを重ね着したり、コートを羽織ったりして寒気を凌いでいた。あたしも基本はスーツなのだが、コートも持っている。
コーヒーを一杯エスプレッソで頼んだ。そしてまた通りを眺め続ける。人は絶えず行き来していて、街が動き続けているのが手に取るように分かった。店内で寛ぎ続ける。会社ではいくら個室でも幾分テンションが挙がってしまって気持ちが落ち着かない。だけどこれが現実なのだった。いくら会社役員という立ち位置にいたとしても。
コーヒーがテーブルに届くと「ありがとう」と一言言って軽く啜り、スマホを弄りながら、いろんなサイトを見続ける。あたしもパソコンだけでなく、スマホに関しても依存症だ。だけどこれぐらい高度なIT社会になれば、情報機器として使わざるを得ない。別に戸惑いはなかった。ちゃんとショップなどで基本的な使い方を教えてもらっていたからである。
砂糖やミルクを入れずに、ブラックのままコーヒーを啜り取りながら、合間に付いていた洋菓子を食べる。別に贅沢じゃなかった。もちろん料金は自腹なのだが、これぐらいの食事はそうお金が掛かるわけじゃない。あくまで息抜きだ。食べ終わってから、コーヒーを飲み干してしまうと、レジで会計を済ませて、野島に一言「また来るわ」と言い、店外へと歩き出す。通りはすっかり冬枯れていたので、街路樹から落ちた葉を踏みしめながら歩いていく。
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社に戻り、役員室で仕事を再開した。ずっとパソコンに向かいながら、部下たちが作っていた文書等を読み続ける。それがあたしの任務だ。下の人間たちはよく働いてくれる。あたしも感謝していた。部下たちは実に働き蜂のように動いてくれるのである。もちろん知恵の出し合いだろうが……。
社での一日の業務が終わると、帰りに近くのスーパーに寄ってタイムセールの割引のお弁当を一つとアルコールフリーの缶ビールを一缶買った。そしていつも利用するローカルバスに乗り、自宅に直帰してゆっくりし始める。今住んでいるマンションは古い。だけどそれでも構わなかった。別に今の部屋から他の場所に引っ越す気はないのだし。
夕食を取り終わり、風呂場のバスタブにお湯を張って浸かる。あたしもずっと同じことばかりが続いていたので倦怠感が抜けない。でも家に帰れば自分の時間だ。ゆっくりし続ける。外で気に障ることがあったとしても別に気に掛けてない。ブログを持っていて、眠る前に日記を書く。一日の出来事を淡々と書き綴る。そしてパソコンを閉じ、ベッドに入って休む。朝まで熟睡だった。眠るのは大概午前零時前だったのだから……。
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朝は午前七時頃に自然と目が覚めて起き出す。ベッドから起き上がり軽く体操する。五十代のあたしにとって、こういったことが一番大事なのだ。そしてキッチンへと歩き出す。さすがに朝は出勤時間帯なので、濃い目のコーヒーを飲みながらトーストを二枚齧る。朝食は割としっかり取る方だった。一日の始まりなので気が抜けないのだ。
データの詰まったフラッシュメモリや必要な書類などをカバンに入れ、玄関のキーを持ち、扉にロックを掛ける。そして歩き出した。通勤時には常にバスを使う。もう二十年以上乗り続けていた。あたしも車内でスマホを使いながら、ネットで情報を仕入れる。稀にタブレット型のパソコンを使うこともあるのだが、ケースバイケースだ。
会社の最寄りのバス停で降りて社へと向かう。あたしも慣れていた。秋が深まり、冷え出すこういった季節、余裕を持って会社へ行き、正面玄関から入っていく。そして役員室へと向かった。確かに季節が変わる頃だから風邪などを引きやすい。現にあたしも風邪気味の時は市販の風邪薬の入ったビンを携帯していた。症状が出れば、すぐに飲むのである。風邪薬は切らさないようにしていた。もちろん病院に駆け込むのも手だったが……。
役員室でパソコンを立ち上げ、大事なメールなどが届いてないかどうかチェックし、返信すべきには返信する。朝一でそれをやっていた。そして昼食を取り終わった後、午後三時ぐらいに野島のいるカフェへと向かうのだ。今日もいつもの時間に行くと、席が空いていた。ほぼ貸切状態の店内で椅子に座り、オーダーを取りにやってきた野島に、
「いつものコーヒーお願い。あと、お菓子も」
と言った。
「かしこまりました」
野島が一礼し、ゆっくりと厨房奥へ歩き出す。後ろ姿を見ると、頭の毛がかなり抜け落ちていて、残った部分も白髪になっていた。察するところがある。末期の肺ガンなら辛いだろうに、よく客を持て成す仕事に精を出すんだなと。野島はもしかすると、自分の命をバリスタという職業に投げ打つつもりなのかもしれない。たとえ儲けにならなくても。だけどそれも人生である。勝算のない戦いをし続けるのも。
そして今日もエスプレッソのコーヒーを飲みながら洋菓子を食べ、優雅にお茶の時間を過ごせる。別に違和感はなかった。いつもと同じだ。ゆっくりと歩み続ける。会社などでも左団扇で仕事が出来るのだ。会社役員などと言っても、代わりなどいくらでもいるのだし……。それに時を惜しむような感じで、残りの人生を送るつもりでいた。五十代のあたしも若い男性がいれば現役で性交などするかもしれないのだが、その手のことに関してはかなりご無沙汰だった。まあ、それはそれで別にどうでもいい話なのだけれど……。
秋の枯れ葉が飛んできて、積もった通りを見つめながら、お茶の時間を楽しむ。ゆっくりとした感じで。
(了)