第7話 戦う理由
「アンジェ!」
吸血鬼の手が立ちすくんでいるアンジェリーナの首を掴み、その身体を持ち上げる。
「…ぁ、ぅ…」
アンジェリーナが表情を歪め、苦しげに呻く。
僅かな抵抗を試みるも、エリスでさえ成す術がなかった吸血鬼の力の前に、それはあまりにむなしすぎた。
捕らえた獲物が悶える様を眺めていた吸血鬼が、嗜虐的な表情でエリスを見る。
「てめぇの知り合いか? 女。こいつもなかなか美味そうだ」
「ま、待って…!」
「てめぇは逃げたきゃ逃げてもいいぜ。そん時ゃ、こっちの女をいただくだけだ。が、てめぇがその身を差し出すんだったら、こいつは見逃してやってもいいぜ?」
「なっ!?」
「まぁ、俺様はどっちでもいいんだがなぁ」
エリスの反応を楽しむように、吸血鬼は掴み上げているアンジェリーナの身体を揺さぶる。その度にアンジェリーナが苦悶の表情を浮かべる。
「やめてっ、アンジェが!」
「ああ、細い首だなぁ。思わずぽっきりいっちまいそうだぜ」
「っ!」
やめさせなければと思う。
アンジェリーナはエリスと違って特別身体が丈夫なわけでも、鍛えているわけでもない。本当に、吸血鬼が少しでも力の加減をやめたら、簡単に殺されてしまう。
そう思っているのに、エリスの足は一歩を踏み出せずにいた。
助けたくても、それを成せるだけの力が足りない。
(もう、わたしが身代わりになるしか、ない…)
それでこの吸血鬼が言葉通りにアンジェリーナを解放すればよいが、その保証はない。
けれどエリスに取れる道は、もはやそれしかなかった。
(ごめん、アンジェ。巻き込んで…)
観念したエリスの視線が、微かに吐息を漏らすアンジェリーナの口元を捉える。
(…アンジェ?)
アンジェリーナの唇が、小さく動いているのが見えた。
声もなく、唇の形だけで、その言葉の意味を知る。
え り す た す け て
「エリスー、たすけてー」
「はぁ…またなの? どうしてあなたはそうやって身の程を弁えないことばかりするのよ?」
「えー、だって色々知りたいことがたくさんあるんだもん」
「だからって少しは自分を省みなさい。まったく、本当に大変な目に遭ったらどうする気なんだか」
「大丈夫」
「ん?」
「そうなった時も、エリスが助けてくれるでしょう」
「あまり期待され過ぎても困るんだけどねぇ」
「平気よ。だってエリスだもん!」
「根拠もないくせに。まぁ、なるべく信頼には応えたいけどねー…」
それは何度も繰り返されてきた言葉。
どんな時でも、彼女にとってはもっとも信じるに値する、魔法の言葉だった。
時に無茶が過ぎて理不尽に思えるような時でも、それを唱えれば助けに来てくれた。
アンジェリーナは、必ずそうあるものと信じ。
エリスは、必ずその信頼に応えてきた。
それを思い出した時、エリスの中で何かが吹っ切れた。
「…………せ」
「あん?」
エリスの呟きに、吸血鬼が眉を吊り上げる。
「何だと? 女」
「その手を離せと言ったのよ、吸血鬼」
先ほどまで続いていた身体の震えはもうない。怯えの色も、表情から消えた。だがエリスの変化に気付かない吸血鬼は、獲物と見下している相手の言葉を鼻で笑う。
「ハッ、勇ましい言葉だがな、てめぇ俺様に歯向かえるとでも思ってんのか? おん…」
言い終わるよりも早く、エリスの身は吸血鬼の眼前に迫っていた。
「な?」
飛び込んだ勢いのままに放たれたエリスの拳が、吸血鬼の顔面に深々と突き刺さる。
鼻が潰れ、顔がめり込むほどの衝撃を受けた吸血鬼は、アンジェリーナを掴んでいた手を離し、自身は10メートル以上後方まで吹き飛んでいった。
エリスは、振り抜いた自分の拳を静かな心持で見ていた。
(はじめてだな、こんなにすんなり『力』が使えたのは)
いつもであれば、かなり集中しなければ使えないものが、今はごく自然に、無意識に近い状態で使うことができた。
しかも刀すら弾くほどに硬く、剣圧だけで地面を割るほどの力を持った吸血鬼の身体を殴り飛ばした上、それを成した拳の方には傷一つない。
「ほんとだ。気合で攻撃力とか防御力とか、上がるものなんだ」
握っていた拳を開いて閉じてを数回繰り返す。
拳だけではなく、かつてないほど充実した『力』が全身に巡っているのがわかった。
不思議なことではない。
本来魔石が秘めている力からすれば、このくらいは出来て当然だと、魔石そのものから得た知識でエリスは知っていた。ただ人間の、しかも年端も行かない少女の肉体も精神も、それを十分に引き出すには値していなかった。何より、そんな大きな力に対する想像力が働かないのだ。
体系化された技術によって成される魔術とは違い、純粋な魔力を扱うために必要とされるのは想像力である。それも明確な形を表現するような。
幼い少女の持つ淡い想像力では、夢のような幻想を抱くことは出来ても、現実につながるような想像といえば、せいぜい木登りが上手くなりたいとか、足が速くなりたいとか、もっと賢くなりたいとか、そのくらいのものだった。
だが今は違う。
エリスは単純にして明確な意思を、自らの体を拳に込めた。
吸血鬼をぶっ飛ばして、アンジェを助ける。
その強い意志こそが、魔石によってもたらされる『力』を操るために、もっとも必要なことだったのだ。
「そうよね。難しく考えることなんてなかったんだ」
エリスは気を失っているアンジェリーナを抱えて道の端まで運び、その場に静かに横たわらせる。
「見ず知らずの人を助ける気なんてない。けどこの町は、わたしが生まれてから16年間暮らしてきた場所。ここにはたくさんの思い出があって、仲のいい人、お世話になった人達がいっぱいいる。守りたいものがある。それに…」
目の前で横たわっているアンジェリーナは、穏やかな顔をしていた。怖い目に遭ったばかりだというのに、今はもう安心しきった表情だった。
「助けて、って。いつもの台詞、言われちゃったものね」
いつも迷惑ばかりかけられている。
少しは無茶を自重してくれと本気で思っている。
それでも、彼女の期待と信頼には、いつだって応えたいと思ってきた。
だから何の迷いもなくエリスに助けを求めたアンジェリーナの言葉は、エリスに力を与えてくれる。
エリスは立ち上がり、道の先をキッと見据える。
「戦う理由なんて、それだけで十分!」
視線の先では、殴り飛ばされた吸血鬼が不気味なほど静かな動作で立ち上がっていた。
相手から目を離さないようにしながら、エリスはアンジェリーナの傍を離れる。
道の中央まで来たところで、胸に手を当ててさらに集中力を高める。
吸血鬼相手に素手で戦うのは無謀というものだった。
先ほどは不意を突いたから何とかなったものの、本気で戦うつもりならば武器が必要である。
そして魔石には、そんな能力もあった。
胸の奥に秘められた魔石から力を湧き出て、それを右手で受け止める。
『力』、さらに正確に言うならば、魔力とも呼ばれる、この世界の万物に宿ると言われる万能の力。
その力の流れを掴み取るイメージで、虚空から“それ”を一気に引き抜く。
光が閃き、弾けるとエリスの右手には、一振りの剣が握られていた。
全長1メートル余り。華美ではないが装飾が施され、それでいて刃の部分は鍛え上げられていて、美しさと実用性の両方を兼ね備えた両刃の剣だった。
魔石に込められた記憶から呼び出し、実体化させたもので、銘までは知らないが、古に造られた力ある武器の一つである。
エリスは両手で束を力強く握ると、剣を正眼に構えて敵である吸血鬼を見据えた。
「………」
当の吸血鬼はと言えば、俯いたまま微かに肩を震わせていた。
「…まさか餌にこうも手痛く反撃されるなんてなぁ……だが!」
屈辱に打ち震えているのかと思いきや、持ち上げた顔に浮かんでいた表情は、喜色だった。
「まさかこんなところで魔石持ちに出会えるとはなぁ! 俺様はツイてるぜ!」
「どういう意味よ?」
「知らねぇのか、女。まぁ、人間如きが“尊き種族”たる俺様達に関する知識を持ち合わせていねぇのなんざ当然か。なら、教えてやる」
吸血鬼が腕を持ち上げ、指先をエリスへと向ける。
「てめぇが持ってるその魔石ってのは、超高純度な魔力の塊だ。その魔力を体に満ちさせたてめぇから血をいただけば、そこらの雑魚からいただくより何倍も効果がある。それどころか、魔石ごといただいちまえば一瞬で全快! その上今まで以上の力が手に入るって寸法よ!」
「ふぅん、そうなんだ」
「そうさ。つまりこの傷も」
先ほど豹雨に斬られた肩の傷を指し、次いで忌々しいものを思い出すような顔になる。
「それ以前にあの女につけられた傷も、全部チャラってわけだ。クククッ、あの女もまだ力の回復には時間がかかるはずだ。これで一気に俺様が有利に立てる」
一転して、歓喜を抑えられないといったように身を震わせて笑い声を漏らす。
移り変わる吸血鬼の表情を、エリスは冷めた目で見ていた。
「でもそれってさ」
「あん?」
「わたしを殺さないと出来ないことだよね」
「そうだったな。じゃあ、さくっと殺しちまうか。言っとくがもうお遊びの時間は終わりだ。恐怖も絶望もする必要は無ぇ。ただ黙って、俺様の糧になりな」
「お断り」
剣の先を相手の眉間に向けたまま、鋭く一歩踏み込む。
踏みしめた足は自分が思っていた以上の強さで地面を蹴り、その身を疾風の速度で送り出した。
間合いの内に入ると同時に、素早く剣を振りかぶる。
狙うのは、吸血鬼の左肩。
(わたしの力じゃたぶん、真っ当なやり方じゃ吸血鬼に傷はつけられない。でも!)
既に傷を負っている場所ならば話は別だ。
先ほど豹雨が切り裂いた胸から肩にかけての傷。そこを斬りつければ、相手にダメージを与えられるはずだった。
ギィンッ
響いたのは肉を斬り裂く音ではなく、金属を打ち合わせたような甲高い音だった。
「ハッ、見え見えなんだよッ」
正面から肩口を狙った攻撃は、吸血鬼の腕で容易く防がれた。
間髪入れず、もう一本の腕による反撃が来る。
「っ!」
そこまでは思い描いていた通りの流れだった。
上体を反らせて、最小の動きで吸血鬼の拳をかわす。
読み通りには違いないが、それでも間近で見るその拳打は、想像以上の速度と衝撃を感じさせ、思わず息を呑む。
だが息をついている暇などない。
最初にエリスの攻撃を受けた側の腕が剣を弾き、返す動きで拳を放つ。それも回避し、すかさず斬撃を繰り出すが、これも次の拳による攻撃で相殺される。
「さっきの野郎にも言ったが、腕は2本あんだ。剣1本で相手出来ると思うなよ!」
攻守逆転。
両の拳を振るって遅い来る吸血鬼に対し、エリスは後退しながら攻撃を捌いていく。
(落ち着け、落ち着けわたし)
吸血鬼の攻撃は確かに速い。
その上重く、まともに喰らえばエリスの体など容易く致命傷を受けるに違いなかった。
だが慌てる必要はない。
常の如く、平静であれと自分に言い聞かせる。
平静を欠いて剣など振るえないことを、エリスはよく知っていた。
(大丈夫。相手の動きはちゃんと見えてる)
先ほどの豹雨と吸血鬼の戦い。始終圧倒されっぱなしではあったが、両者の動きをエリスの目はしっかりと捉えていた。
特に吸血鬼の動きは大雑把で、ただ力任せに暴力を奮っているだけのものであり、見切ることは容易い。
加えて魔石の力が全身に満ちている今は、体の反応速度も格段に上がっている。
思うとおりに動く体は、見切った攻撃を的確に回避していく。
そして一瞬の隙を見出し。
「やぁっ!!」
反撃。
左右の動きを中心にした回避行動から一点、縦の動きで拳の真下に潜り込み、横薙ぎに剣を振る。
肩の傷ほど深くはないが、吸血鬼の腹部にも豹雨がつけた傷があり、そこを狙った。
「ぬぉ!」
思惑通り、既に負っている傷痕を斬れば、攻撃は通る。
しかし、浅い。
ほとんど堪えた様子がない吸血鬼は、懐に飛び込んできたエリスを抱きかかえるように両腕を閉じた。
間一髪、エリスは上空へ跳んで捕まるのを避けた。
舌打ちと共に吸血鬼も跳躍する。エリスよりもさらに高い位置まで跳んだ吸血鬼が頭上から襲い掛かる。
エリスは空中で体を回転させ、遠心力の乗った一撃を繰り出す。両者の攻撃が衝突し、その反動を利用してエリスは距離を取り、地面へと降り立った。
「痛ぅ…」
まともに打ち合った衝撃に手が痺れる。なるべく力を外へ逃がすように攻撃を受け流してはいるが、それでも伝わってくる衝撃を完全には殺しきれない。それほど吸血鬼のパワーが凄まじいのだ。
スピードだけは、動きを見切り先読みをして動くことで辛うじてついていけているが、それ以外の能力では明らかにエリスが劣っていた。
(長引いたら、体力的にもきついなー、これ)
対峙する吸血鬼は、苛立たしげな視線を向けている。
「チッ、少しは魔石の力を使いこなしてやがるみてぇだな、めんどくせぇ。黙って喰らわれりゃいいってのによぉ」
「お断りって言ったはずよ」
「餌の意見なんざ聞いてねぇよ」
どこまでも人間を見下した発言をする相手を見て、エリスは自身が知るもう一人の吸血鬼のことを思い出す。
同じ種族だというのに、こうも違うものかと思った。
あんな人を茶化すようなことばかり言う姫気取りの女のことなど好ましく思ってなどいないが、彼女と目の前の相手とを比べていると、何故だか非常に腹立たしい思いが沸き上がってくる。
「あなた、下品だね」
「あん?」
「見ててムカムカする。だから、絶対に倒す」
エリスは剣を思い切り振りかぶる。
もはや細かいことを考えるのはやめた。
慎重に戦っていれば凌ぐことは出来るが、決定打を得ることが出来なければジリ貧になるだけである。
ならば、全力の一撃をもって活路を切り開く。
(乾坤一擲――!!)
踏み込む足下にも魔力を込め、爆発的な速度で敵に肉薄する。
「たぁあああああああ!!!」
裂帛の気合と共に、全ての力を乗せた剣を振り下ろす。
「効くかよってんだッ!」
真正面からの攻撃は、当然のように吸血鬼の腕に止められた。
全力の一撃をもってしても、魔力によって硬化した吸血鬼の腕を斬るには至らない。
左腕で攻撃を受け止めた吸血鬼は、右腕の拳による反撃を繰り出そうとする。
しかし、その判断は間違いだった。
確かに硬化した腕を斬ることは叶わなかった。だが高速の踏み込みと、上段からの振り下ろしによって得られる威力は、片腕で止めきれるほど甘いものではない。
反撃するために意識を攻撃に向けた瞬間、防御の気が緩んだ。
「でぇえええええいっっっ!!」
受け止めていた左腕を弾き飛ばし、剣の切っ先が肩の傷口に深々と食い込む。
勢いのままに、エリスは一気に剣を振り抜いた。
全力を込めた一撃は、敵の肩から腹までを深く斬り裂いていた。




