第6話 豹雨vs吸血鬼
片手で振りかぶった刀が目にも止まらぬ速さで振り下ろされる。10メートル近くあった距離は、一足飛びでゼロになった。
視認するのも困難な斬撃だったが、切っ先は空を切る。
だが、驚異的なのはそこからだった。
切っ先が地面に到達するよりも早く、切り返された刃は上を向き、逆袈裟に斬り上げられる。
さらに横薙ぎから、片足を軸に身体を一回転させてさらに速度の乗った薙ぎ払いがもう一度。
円の動きから線の動きへ、引き絞った刀を水平に押し出す突き。それが三度。
三度目の突きから派生して再び薙ぎ。
そこで振りかぶって渾身の斬り下ろし。
瞬きする間も許さないほど速く、流れるような斬撃の嵐が吹き荒れる。相手が常人であったならば、今の数瞬で何度死んだことか。
しかし、刀の主が相手にしているのは常識の範疇から逸脱した存在である。
「ハハッ、人間にしちゃあ、なかなかの速さじゃねぇか」
豹雨の猛攻を、吸血鬼は余裕の体で全て避けていた。
「そっちも大した動きだな。こう当たらないんじゃ斬れやしねぇ」
対する豹雨には動じた様子はない。
「当たれば斬れるとでも思ってんのか?」
「そりゃ、刀が当たりゃ斬れるだろ」
「なら、やってみな」
挑発するように、吸血鬼が直立したまま両手を広げてみせる。
「じゃあ、遠慮なく!」
罠かと警戒する気はまったくないのか、言葉通り一切の遠慮も躊躇いも見せずに豹雨が刀を振り下ろす。
繰り出される斬撃に対して、吸血鬼はその場から一歩も動かず、片腕を前に掲げる。
刀と腕が触れ合った瞬間、響いたのは肉の切れる音ではなく、鉄と鉄をぶつけ合わせたような甲高い音だった。
豹雨の放った刀は、しっかりと刃筋が立っており、肉どころか骨まで断つに十分な威力があったにも関わらず、吸血鬼の中身の腕がそれを受け止めていた。
「だから言ったろ」
吸血鬼の左の拳が、刀を振り下ろした体勢の豹雨の身に打ち込まれる。
丸太に弾き飛ばされたような勢いで、豹雨の身体が数メートルも後ろへ吹き飛ぶ。
「ちょっと力を入れりゃ、人間の剣なんかに俺様の身体が斬れるわきゃねぇだろうが」
そう言って自分の腕を見た吸血鬼は、そこに赤く薄い線がついているのを見て微かに眉を吊り上げた。
「チッ、皮一枚だけ斬られたか。まぁ、大金星ってところかぁ?」
嘲笑を浮かべる吸血鬼の視線の先で、豹雨は口から血を吐き出していた。
しかし、顔を上げた時に覗いた表情は、先ほどまでよりさらに獰猛な笑みだった、
「要は気合を入れれば斬られないってことか。なるほど道理だな」
「道理なわけあるかっ!」
黙って両者の戦いを見ていたエリスは、豹雨の言葉に思わずツッコミを入れてしまう。
「何言ってんだ、嬢ちゃん。気合で防御力が上がるのは当たり前だろ」
「上がりません。一般常識みたいな顔で言わないでください、そんなのは上がった気がしてるだけ、錯覚です」
「いやいやだってよ、俺が昔修行中に滝に打たれてて上からでっけぇ丸太が降ってきた時よ、微動だにせずに脳天で真っ二つに割ってやったことがあるぜ」
「そんなばかな…」
「竜の尾の一撃も気合で耐えたしな。それに比べりゃよ、吸血鬼。今のは蚊が止まったようなもんだったぜ」
胸と口元から血を流しているが、虚勢には見えない。あの一撃を受けて、少しも堪えていないようだった。
思わず声を挟んでしまったことで少しだけ緊張が解けたが、そこでエリスは自分が少し前までほとんど息を止めていたことに気付いた。
僅か十数秒の攻防に、息をすることすら忘れて見入っていたのだ。
剣というのは素人が思っているよりもずっと重いものであり、両手でさえしっかり振るには相当の技量と腕力が必要とされるものだが、豹雨はそれを片手で軽々とやってみせる。しかもあれだけの速度で、少しも切っ先がぶれることなく。さらには体捌きの切れも並外れている。これほどの使い手だったとはと、舌を巻かされる。
そしてそれを難なくかわしてみせる吸血鬼の身体能力も驚異的だった。レティシアから吸血鬼の能力について少しは聞いていたものの、実物をこうして間近で見ると、想像以上の出鱈目振りである。素手で斬撃を受け止めるなどとは信じがたいことだった。
だがその驚異の身体能力から繰り出された拳を、気合の一言で受け止めた男も、剣の腕のみならず身体の造りまで普通ではない。
とどのつまり僅かな攻防の内にわかったことは、豹雨と吸血鬼、どちらも化け物だということだった。
「血まみれで粋がるなよ、人間」
「まぁ、ちょっと待ってろって。今のでようやく酒が抜けてきたところだ」
だというのに、である。
「少し気ぃ抜けてたわ。次は本気で斬りにいくから」
そんな結論をあざ笑うかのように。
「――ちゃんと避けろよ、吸血鬼」
次に豹雨が放った一撃は、速度も威力も先ほどまでの比ではなかった。
「な…にっ…!?」
目を離したつもりはなかったというのに、まるで時間が一瞬飛んだかのように、豹雨の姿が吸血鬼の眼前に現れ、刀を振り下ろしていた。
切っ先の軌跡に至っては、まるで見えなかった。
本能的に危険を感じ取ったのか、また受け止めようと腕を差し出しかけた吸血鬼は、顔をしかめて一歩後退した。
だが僅かに遅く、刀の先が吸血鬼の腕を掠ると、先の一撃よりも浅いのに、前よりも深い傷が刻まれていた。
さらに、振り下ろした刀は地面についていないというのに、二人の足下の地面が縦に数メートル、割れた。剣圧だけで硬い土に覆われた地面が斬れたのだ。
「っ!」
ヴンッ、と。
一連の豹雨の動きが終わってから、思い出したようにその身が風を切る音が聞こえてきた。
音が伝わる速度よりも、今の豹雨の踏み込みの方が速かったのだ。
「だからちゃんと避けろっつったろ。次はもう一歩深く行くぞ」
「ッ! 図に乗るなよ、人間如きが!!」
振り抜かれた拳が豹雨の額を打つ。吸血鬼の膂力によって放たれた拳圧による衝撃は相手の身体を突き抜け、後ろの地面に穴を穿った。
岩をも容易く砕きそうな一撃を受けながら、豹雨は倒れなかった。額から血を流してはいるが、その身は微動だにしていない。
一歩も後ろへ引くことなく、豹雨は刀を横薙ぎに振るった。
拳を繰り出していた吸血鬼の反応が送れ、腹部から鮮血がほとばしった。
「斬れるぞ。気合が足らんな」
「ぬかせ!」
刀と拳が同時に振られる。
甲高い音と激しい衝撃が空気を揺らす。
斜め下から振り上げた豹雨の刀と、斜め上から繰り出された吸血鬼の拳とが打ち合わされていた。
今度は斬れなかった。
「力を一点に集中すりゃ、さらに硬くなんだよ」
「そうか。つまり今はその拳以外は斬れるってことだな」
「無理だな。てめぇの剣は見えてるぜ。本気になれば、そもそも斬れる斬れない以前にてめぇの剣は当たりゃしねぇんだよ」
「なら話は簡単だ。おまえが反応できないよう、今より速く、今より強く斬りつければいいだけだ」
再度豹雨の刀が振るわれる。
しかし吸血鬼の拳がそれを阻む。
さらに続けて数度。全ての斬撃は吸血鬼の手で防御された。
「言っておくがな、人間」
吸血鬼が、刀を受けていたのとは逆の腕を振りかぶる。
「腕ってのは2本あんだよ!」
防御と同時にカウンターで繰り出された拳が豹雨の顔面を狙う。豹雨は首を傾けてそれをかわし、拳圧によってまた地面の一部が削れた。
「こっちは2本、てめぇの刀は1本。それで勝てるとでも思ってんのか?」
「速さが互角なら、手数の多いそっちの方が有利ってか」
「互角、だといいなっ!」
攻守が反転する。
左右から凄まじい拳の乱打が豹雨に襲い掛かる。
豹雨の剣は、荒々しくはあったが、洗練された技術が下地にあるものだったが、吸血鬼の放つ拳打はただがむしゃらに振り回しているようにしか見えなかった。
だが、半端な技術は、圧倒的な力の前に屈服するのが現実だった。
人間を遥かに凌駕する身体能力を持つ吸血鬼にとって、余計な技巧など必要なく、ただ身の赴くままに力を奮えば、敵を粉砕できるのだ。
両拳による猛攻を、豹雨は後退しながらある時は受け、ある時はかわしながら捌いていく。
「ハッハーッ、どうしたよ人間! 受けるだけで精一杯かぁ!?」
完全に自分が優位に立ったと見た吸血鬼は、弱者をいたぶる愉悦を表情に浮かべる。
攻撃の手は休まるところを知らず、受ける豹雨の動きは徐々に緩慢になっていく。
「俺様達“尊き種族”の餌に過ぎない人間なんぞがな、俺様に楯突こうなんてのが間違ってんだよ!」
吸血鬼の勢いは止まらない。
「餌は餌らしく…」
右手の拳が大きく振りかぶられる。
今まで一番大きな一撃が放たれようとしているのがわかった。
「地べたに這いつくばって、喰らわれるのを待ってりゃいいんだよ!!」
人外の怪物の、渾身の一打が豹雨の身を捉えようとした時だった。
「――そんな程度かよ」
底冷えするような感覚が、傍で見ていたエリスの身を襲った。
一瞬の後、鮮血が飛び散った。
両者の立ち位置は入れ替わっており、豹雨は吸血鬼の後ろに背中を向けて立っていた。
吸血鬼の胸から肩にかけての部位が深々と斬り裂かれており、血はそこからほとばしっていた。
「な……!?」
拳を振り抜く寸前の体勢で、吸血鬼は驚愕に表情を凍りつかせる。
ビッ、と刀を振って付着した血を払った豹雨は、刀の峰を肩に乗せながら冷めた表情で振り返る。
「もう少し期待してたんだがな。つまらないからついちゃんと斬っちまったじゃねーか」
信じられないという面持ちで、吸血鬼が自分を斬った男を見やる。
「て、めぇ…」
「そんなものかよ、吸血鬼。これじゃ、ドラゴンとやりあった時の半分も楽しめねぇ」
「…なんなんだ、てめぇは」
「見たとおり、ただの人間だよ。おまえが餌と見下してる、な。だがそうやって見下した態度を取る奴を、俺は今まで山ほど斬ってきてるんだよ。おまえもそっちの、ただ斬られるだけの輩だったか」
「……ざけんなよ…力が完全に戻ってりゃ、てめぇ如きに…!」
「…何?」
ギリと歯軋りする吸血鬼の言葉に、豹雨が訝しげに眉を動かす。
「まるで今は万全じゃねぇみたいな言い方だな」
「ああ、その通りだよ。ちと訳有りでな、今は力を回復してる最中なんだよ。そんな時にてめぇみたいなのに出くわすとはな、チッ、ついてねぇぜ!」
負け押しみにも聞こえるその言葉を聞いて、豹雨の目がスッと細められる。それを見たエリスは、ふと嫌な予感に襲われた。
「力が回復すれば、今よりはマシになるってことか」
「ハッ、俺様の状態が100%なら、てめぇなんぞに無様にやられるわきゃねぇだろうが!」
「ほう」
豹雨が表情を歪ませるのを見て、エリスは予感が確信に変わるのを感じた。
「豹雨さん、まさか…!?」
「いいぜ。なら回復する時間をやるよ。このままおまえを斬ってもつまらねぇが、万全のおまえとなら今よりは楽しめそうだからな」
「何だと?」
「行けよ、吸血鬼。でもって少しはマシになってから、もう一度俺の前に現れな」
エリスは戦慄した。
ここまで追い詰めておきながら、豹雨はこの吸血鬼を逃がそうというのだ。人間を餌と呼び、万全でないと言いながらも常識外の能力を見せ付けたこの化け物を、再び町に放とうと。まして吸血鬼が力を回復するということは、そのために人の血を吸うということだ。
逃がしてしまっては、町の人々に今まで以上の被害が出る。
そう思ったエリスは、思わず二人の前に飛び出していた。
「ちょっと待ってください! ここで逃がしたら、また誰かが襲われて…」
「そうだろうな」
「だったら!」
「悪いが嬢ちゃん、俺は自警団でも教会の人間でも正義の味方でも無ぇんだ。俺の目的は、俺が望む形で戦って、相手を斬ることなんだよ。そのためにどこの誰がどうなろうが知らん」
「そんな…」
エリスは絶句し、吸血鬼は苦々しげに笑う。
「俺様が情けをかけられるとはな…くそったれが。後悔するぞ、人間」
「させてくれんなよ。次はもっと楽しませろ」
「チッ!」
大きな舌打ちをしてその場を立ち去ろうとする吸血鬼の前に、エリスは立ち塞がった。
「行かせない」
「あん?」
吸血鬼が眉をひそめ、不機嫌さを隠そうともしない目でエリスを睨む。
鋭い視線に中てられて、エリスの額に汗が滲み出た。
反射的に行く手を遮ってしまったが、ここからどうするべきかはまるで考えていなかった。
そもそもエリス自身の考え方も、豹雨と大差はない。
どこの誰とも知らない人間のために命をかけて戦おうとするほど、エリスは自分をお人よしだとは思っていなかった。
剣を振るのは好きだが、それで何かを成そうと思っているわけでもない。
エリスの剣は、ただエリス自身のためだけのものである。
だからこんな風に、身を張って恐ろしい怪物の行く手を阻むことなど、エリスの行動原理上は有り得ないことなのだが。
(それでも、身体が動いちゃったんだからしょうがない。でも、じゃあこれで、どうする?)
動こうとしないエリスの様子に苛立ちを見せつつ、吸血鬼は肩越しに後ろを振り返る。
「おい人間、てめぇ俺様が回復するのを待つと言いやがったな。なら俺様がこの女の血をいただくっつったらどうすんだ?」
その言葉に、エリスははっと息を呑む。
当然、吸血鬼の前に立つということは、彼女自身が獲物とされることに繋がる。
先ほど血を吸われそうになった時に恐怖が蘇り、身が震えた。
「そうだな。その嬢ちゃんは一応知り合いだから見捨てるのは偲びねーな」
豹雨はしばし思案して答える。
「嬢ちゃんが逃げようってんなら、助けてやるさ。だが嬢ちゃんが自分の意思でおまえの前に立つなら、そこから先は嬢ちゃんの自己責任だ。俺の与り知るところじゃねーよ」
「そうかい。じゃあ遠慮はいらねぇわけだ」
再びエリスの方へ向き直った時、吸血鬼の顔は獲物を見つけた狩人のものになっていた。それも既に、掌中に獲物を捕らえ、これからどう捌こうか考えている時の。
「せっかく助かったんだからとっとと逃げときゃいいものを、まぬけな女だ。結局俺様に喰らわれることになるたぁな」
「くっ…!」
舌なめずりしつつ吸血鬼が一歩踏み出すと、エリスも同じだけ後ろへ下がる。
怯えた様子のエリスをいたぶるように、吸血鬼はゆっくりとした足取りでじわじわと距離を詰めてくる。
(どうする? どうしたらいい?)
戦って勝てる相手とは思えなかった。
手負いとはいえ、人間を遥かに上回る身体能力は今さっき見たばかりである。
いくら考えても、エリスに事態を好転させる手段は思い浮かばなかった。
出来ることがあるとしたら、今すぐ踵を返して逃げ出すことくらいか。そうすれば少なくとも、エリス自身の命は助かるかもしれない。
(そう…だよね。命を粗末にしたって何もいいことなんてない。ここでこいつが逃げても、兄さん達がいるんだから…)
成すべき役目を、本来それを使命としている人達へと託す。ただそれだけのことだ。
(命を惜しんだからって、わたしが責められる謂れなんて…)
ないはずだった。
だというのに、意思に反して体は前を向いたまま、迫り来る脅威と対峙し続けていた。
(どうしたいって言うのよ、わたしは!)
16年間生きてきた中で最大の葛藤が、エリスの頭と体の間で行われていた。
しかし長々と悩んでいる時間は許されていない。
相手との距離は徐々に狭まってきている。今にも飛びかかられ、先ほどのように捕まってしまえば終わりだった。
タイムリミットは、吸血鬼の気まぐれにかかっていた。
引く決心も、進む覚悟も出来ないまま、いよいよ後が無いところまで追い詰められた時だった。
「エリス?」
思わぬ呼び声にエリスは驚き、まさかと思って振り向いた先にいた人物を見て愕然とした。
「アンジェ…なんで、ここに?」
そこにいたのはエリスの親友、アンジェリーナだった。
「すごい音がしたから気になって。ここ、うちの近くだし」
言われてその通りだったと思い出す。そんなことにも気付かないほど、気が動転していた。
しかし平静からは程遠い頭でも、この状況が如何に危険なものかはわかった。
「逃げてアンジェ! 今すぐに!」
叫んだ時には、もう遅かった。
疾風のような速さでエリスの横を通り抜けた吸血鬼の手が、事態を把握できずに呆然としていた少女の身を掴み上げた。




