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Demon Busters  作者: 平安京
改訂後
29/32

(改訂版)第9話 対決、吸血鬼

 片手で振りかぶった刀が目にも止まらぬ速さで振り下ろされる。10メートル近くあった距離は、一足飛びでゼロになった。

 視認するのも困難な斬撃だったが、切っ先は空を切る。

 だが、驚異的なのはそこからだった。

 切っ先が地面に到達するよりも早く、切り返された刃は上を向き、逆袈裟に斬り上げられる。

 さらに横薙ぎから、片足を軸に身体を一回転させてさらに速度の乗った薙ぎ払いがもう一度。

 円の動きから線の動きへ、引き絞った刀を水平に押し出す突き。それが三度。

 三度目の突きから派生して再び薙ぎ。

 そこで振りかぶって真っ向からの斬り下ろし。

 瞬きする間も許さないほど速く、流れるような斬撃の嵐が吹き荒れる。相手が常人であったならば、今の数瞬で何度死んだことか。

 しかし、刀の主が相手にしているのは常識の範疇から逸脱した存在である。


「ハッ、人間にしちゃあ、なかなかの速さじゃねェか」


 ヒョウウの猛攻を、吸血鬼は余裕の体で全て避けていた。


「そっちも大した動きだな。こう当たらないんじゃ斬れやしねぇ」


 対するヒョウウには動じた様子はない。感触を確かめるように数度素振りした刀を肩に担ぐようにしている。

 構えとも言えない自然な体勢で立っている姿は一見すると隙だらけだった。


「当たれば斬れるとでも思ってんのか?」

「そりゃ、刀が当たりゃ斬れるだろ」

「なら、やってみな」


 挑発するように、吸血鬼が直立したまま両手を広げてみせる。


「じゃあ、遠慮なく!」


 罠かと警戒する気はまったくないのか、言葉通り一切の遠慮も躊躇いも見せずにヒョウウが踏み込む。

 自然体の姿勢から、まるで予備動作を感じさせない動きだった。

 唸りを上げて刀が振り下ろされる。

 繰り出される斬撃に対して、吸血鬼はその場から一歩も動かず、片腕を前に掲げた。

 刀と腕が触れ合った瞬間、響いたのは肉の切れる音ではなく、鉄と鉄をぶつけ合わせたような甲高い音だった。

 豹雨の放った刀は、しっかりと刃筋が立っており、肉どころか骨まで断つに十分な威力があったにも関わらず、吸血鬼の生身の腕がそれを受け止めていた。


「だから言ったろ」


 吸血鬼の左の拳が、刀を振り下ろした体勢のヒョウウの身に打ち込まれる。

 丸太に弾き飛ばされたような勢いで、ヒョウウの身体が数メートルも後ろへ吹き飛んだ。


「ちょっと力を入れりゃ、人間の剣なんかに俺様の体が斬れるわきゃねェだろうが」


 そう言って自分の腕を見た吸血鬼は、そこに赤く薄い線がついているのを見て微かに眉を吊り上げた。


「チッ、皮一枚だけ斬られたか。まぁ、少しはやるってわけか」


 嘲笑を浮かべる吸血鬼の視線の先で、ヒョウウは口から血を吐き出していた。

 しかし、顔を上げた時に覗いた表情は、先ほどまでよりさらに獰猛な笑みだった。


「要は気合を入れれば斬られないってことか。なるほど道理だな」

「いやそんな無茶な道理はない」


 黙って両者の戦いを見ていたエリスは、ヒョウウの言葉に思わずツッコミを入れてしまう。


「何言ってんだ、嬢ちゃん。気合で防御力が上がるのは当たり前だろ」

「上がりません。一般常識みたいな顔で言わないでください、そんなのは上がった気がしてるだけ、錯覚です」

「いやいやだってよ、俺が昔修行中に滝に打たれてて上からでっけぇ丸太が降ってきた時よ、微動だにせずに脳天で真っ二つに割ってやったことがあるぜ」

「そんなばかな…」


 確かにヒョウウの放った斬撃は先ほどのエリスのものより強力だったはずにも関わらず、吸血鬼の体に僅かな傷を付けることしか出来なかった。

 吸血鬼の肉体の防御力が先ほどより上がっているのは間違いないが、それを気合の一言で片付けて良いものか。ましてそれを人間の場合で同列に語るのはおかしい。


「竜の尾の一撃も気合で耐えたしな。それに比べりゃよ、吸血鬼。今のは蚊が止まったようなもんだったぜ」


 胸と口元から血を流しているが、虚勢には見えない。あの一撃を受けて、少しも堪えていないようだった。

 思わず声を挟んでしまったことで少しだけ緊張が解けたが、そこでエリスは自分が少し前までほとんど息を止めていたことに気付いた。

 僅か十数秒の攻防に、息をすることすら忘れて見入っていたのだ。

 剣というのは素人が思っているよりもずっと重いものであり、両手でさえしっかり振るには相当の技量と腕力が必要とされるものだが、ヒョウウはそれを片手で軽々とやってみせる。しかもあれだけの速度で、少しも切っ先がぶれることなく。さらには体捌きの切れも並外れている。これほどの使い手だったとはと、舌を巻かされる。

 そしてそれを難なくかわしてみせる吸血鬼の身体能力も驚異的だった。先ほどまでのエリスとの戦いなど、本人の言葉通りにお遊びに過ぎなかったと思い知らされる。

 だがその驚異の身体能力から繰り出された拳を、気合の一言で受け止めた男も、剣の腕のみならず体の造りまで普通ではない。

 とどのつまり僅かな攻防の内にわかったことは、ヒョウウと吸血鬼、どちらも化け物だということだった。


「血まみれで粋がるなよ、人間」

「まぁ、ちょっと待ってろって。今のでようやく酒が抜けてきたところだ」


 だというのに、である。


「少し気ぃ抜けてたわ。次は本気で斬りにいくから」


 そんな結論をあざ笑うかのように。


「――ちゃんと避けろよ、吸血鬼」


 次にヒョウウが放った一撃は、速度も威力も先ほどまでの比ではなかった。


「な…にっ…!?」


 目を離したつもりはなかったというのに、まるで時間が一瞬飛んだかのように、豹雨の姿が吸血鬼の眼前に現れ、刀を振り下ろしていた。

 切っ先の軌跡に至っては、まるで見えなかった。

 本能的に危険を感じ取ったのか、また受け止めようと腕を差し出しかけた吸血鬼は、顔をしかめて一歩後退した。

 だが僅かに遅く、刀の先が吸血鬼の腕を掠ると、先の一撃よりも浅いのに、前よりも深い傷が刻まれていた。

 さらに、振り下ろした刀は地面についていないというのに、二人の足下の地面が割れた。剣圧だけで硬い土に覆われた地面が斬れたのだ。


「っ!」


 ヴンッ、と。

 一連のヒョウウの動きが終わってから、思い出したようにその身が風を切る音が聞こえてきた。

 音が伝わる速度よりも、今のヒョウウの踏み込みの方が速かったのだ。


「だからちゃんと避けろっつったろ。次はもう一歩深く行くぞ」

「ッ! 図に乗るなよ、人間如きが!!」


 振り抜かれた拳がヒョウウの額を打つ。吸血鬼の膂力によって放たれた拳圧による衝撃は相手の体を突き抜け、後ろの地面に穴を穿った。

 岩をも容易く砕きそうな一撃を受けながら、ヒョウウは倒れなかった。額から血を流してはいるが、その身は微動だにしていない。

 一歩も後ろへ引くことなく、ヒョウウは刀を横薙ぎに振るった。

 拳を繰り出していた吸血鬼の反応が送れ、腹部から鮮血がほとばしった。


「斬れるぞ。気合が足らんな」

「ぬかせ!」


 刀と拳が同時に振られる。

 甲高い音と激しい衝撃が空気を揺らす。

 斜め下から振り上げたヒョウウの刀と、斜め上から繰り出された吸血鬼の拳とが打ち合わされていた。

 今度は斬れなかった。


「力を一点に集中すりゃ、さらに硬くなんだよ」

「そうか。つまり今はその拳以外は斬れるってことだな」

「無理だな。てめぇの剣は見えてるぜ。本気になれば、そもそも斬れる斬れない以前にてめぇの剣は当たりゃしねェんだよ」

「なら話は簡単だ。おまえが反応できないよう、今より速く、今より強く斬りつければいいだけだ」


 再度ヒョウウの刀が振るわれる。

 しかし吸血鬼の拳がそれを阻む。

 さらに続けて数度。全ての斬撃は吸血鬼の手で防御された。


「言っておくがな、人間」


 吸血鬼が、刀を受けていたのとは逆の腕を振りかぶる。


「腕ってのは2本あんだよ!」


 防御と同時にカウンターで繰り出された拳がヒョウウの顔面を狙う。ヒョウウは首を傾けてそれをかわし、拳圧によってまた地面の一部が削れた。


「こっちは2本、てめぇの刀は1本。それで勝てるとでも思ってんのか?」

「速さが互角なら、手数の多いそっちの方が有利ってか」

「互角、だといいなっ!」


 攻守が反転する。

 左右から凄まじい拳の乱打がヒョウウに襲い掛かる。

 ヒョウウの剣は、荒々しくはあったが、洗練された技術が下地にあるものだったが、吸血鬼の放つ拳打はただがむしゃらに振り回しているようにしか見えなかった。

 だが、半端な技術は圧倒的な力の前に屈服するのが現実だった。

 人間を遥かに凌駕する身体能力を持つ吸血鬼にとって、余計な技巧など必要なく、ただ身の赴くままに力を奮えば、敵を粉砕できるのだ。

 両拳による猛攻を、ヒョウウは後退しながらある時は受け、ある時はかわしながら捌いていく。


「ハッハーッ、どうしたよ人間! 受けるだけで精一杯かァ!?」


 完全に自分が優位に立ったと見た吸血鬼は、弱者をいたぶる愉悦を顔に浮かべる。

 攻撃の手は休まるところを知らず、受けるヒョウウの動きは徐々に緩慢になっていく。


「俺様達“尊き種族”の餌に過ぎない人間なんぞがな、俺様に楯突こうなんてのが間違ってんだよ!」


 吸血鬼の勢いは止まらない。


「餌は餌らしく…」


 右手の拳が大きく振りかぶられる。

 今まで一番大きな一撃が放たれようとしているのがわかった。


「地べたに這いつくばって、喰らわれるのを待ってりゃいいんだよ!!」


 ズンッと重たい衝撃が空気を震わせる。

 両腕を交叉して辛うじてガードしたヒョウウだったが、その身は大きく吹き飛ばされ、地面を削りながら十数メートル先でようやく停止した。

 激しく動き続けていた両者が、そこで動きを止めていた。

 拳を振り抜いた状態で、吸血鬼は口の端を吊り上げて笑みを浮かべている。


「ハッ、ちったァ、力の差ってやつがわかったか、人間?」


 対するヒョウウは一転して、どこか冷めた表情を浮かべていた。


「……こんなものか」

「あァ?」

「こんなものか、吸血鬼。だとしたら期待はずれだな」


 落胆した声で言いながら組んでいた腕を解くと、ヒョウウは直立した姿勢に戻った。だが無防備そうに見えても気迫に満ちていた先ほどまでとは違い、今は本当にただ立っているだけだった。

 対峙している吸血鬼も、傍で見ているエリスもその様子に訝しげな顔をする。


「何のつもりだ、てめぇ?」

「さっきの返礼だ。今度はおまえの一撃を喰らわせてみろよ。本気の本気、全力でな」

「何だと?」


 挑発された吸血鬼の顔から笑みが消える。


「聞こえなかったか? さっきのヌルい拳じゃ効かねーからもっと気を入れて叩き込んでこいって言ってんだよ」


 吸血鬼の青白い顔が、火が点いたように朱に染まった。額には青筋がいくつも浮かび、怒りの表情へと変わっていた。


「人間…おい人間…。何を思い上がっていやがんだ…“尊き種族”たるこの俺様に向かって…ハッ、ハハハ……この、クソがっ!!」


 ダンッと足を踏み鳴らした衝撃は足下の地面だけでなく、周囲にある人家の壁にまで亀裂を走らせた。

 吸血鬼を中心に突風が起こり、空気は何倍にも重くなったように感じられた。

 膨れ上がった吸血鬼の気配が重圧をなってエリスの身を襲った。

 横で見ているだけのエリスでさえ気を抜くと膝をつきそうになるのだから、直接殺気をぶつけられているヒョウウにかかる圧力はそれ以上のはずだった。


「死体を喰らっても不味ィから手加減してやってたが、もういい。粉々にしてやる」

「そいつは楽しみだ。やってみな」

「ハッ!」


 足下が爆発したように抉れるほどの勢いで吸血鬼が地面を蹴って突進する。

 拳が繰り出されるのを、ヒョウウは黙ったまま見ていた。

 風圧だけで地面を砕く吸血鬼の拳が、無防備なヒョウウの体に打ち込まれる。


「おらよォッ!!」


 拳が振り抜かれると、ヒョウウの体が凄まじい勢いで吹き飛んだ。

 先にあった民家の壁を突き破り、反対側の道まで抜けて行った先でさらに別の壁を破り、そうしていくつも先の建物まで砕きながら飛んでいった。

 見えなくなった先で家が倒壊する音が響く。

 とてつもない威力だった。今のを受けては、生身の人間が到底無事でいるとは思えなかった。

 吸血鬼も自らが放った一撃の成果に満足したのか、顔には嘲笑が浮かんでいた。


「ハッ、調子に乗りやがって人間風情が、俺様に勝てるはずがねェだろうがよォ」


 拳を解いて直立した吸血鬼の体から煙が立ち上っていた。ヒョウウの刀でつけられた傷が再生していっているところだった。その前にエリスがつけた傷は、もう完全に塞がっている。

 それを見たエリスの脳裏に疑問が浮かんだ。


(傷の治りが…遅い?)


 エリスのつけた傷とヒョウウのつけた傷とでは、再生までの時間に差があった。


(傷の深さか、それとも激しく動き回ってる間は再生力が落ちるとか、或いはその両方…)


 考えながら、エリスは自分に呆れていた。


(はは…なに私、こんなこと考えて。まだ戦うつもりなんだ)


 吹き飛ばされていったヒョウウの心配や、この場から逃げ出す算段よりも、どうやったら吸血鬼を倒せるのか、そんな思考が真っ先に浮かんできていた。

 力の差は歴然としている。

 エリスの渾身の一撃は通じず、明らかにエリス以上の実力を持っていたヒョウウも倒された。そんな相手に対して勝ち目があるはずがない。

 どうすべきか考えを巡らせていたエリスは、あることに気付いて一つの策を閃いた。


(いける? いや、迷ってる暇はない!)


 感覚的に、おそらく時間ぎりぎりだった。

 エリスは即座に駆け出した。


「あァん?」


 吸血鬼がエリスの動きに気付いて顔を向けるが、構わず剣を突き出す。


「おっと」


 狙ったのは目だった。

 さしもの吸血鬼といえども、目のような場所まで剣を通さないほど硬くなることはないと見越してのことだったが、思った通り相手はエリスの剣を仰け反って避けた。

 僅かだが体勢が崩れた相手を踏み台として蹴りつけ、反対側へと抜ける。

 自分で仰け反った拍子に蹴られたことで、吸血鬼の上体が泳ぎ、たたらを踏んで後退する。


「ぬぉ…この小娘ッ」


 後ろで吸血鬼が怒鳴り声を上げて振り返る気配がするが、構わず目当ての場所に向かって走る。

 この辺りは、エリスにとっては庭同然の街である。

 大きな道はもちろん、小さな道の一つ一つがどこに通じているかも熟知している。

 例えば、すぐそこにある小さな路地が、日没前の短い時間だけ夕日が差し込むことも、向かいの家が眩しいからと言ってほとんど誰も使わない路地の入り口に板を貼り付けてあることも知っている。

 そして今が、日没直前の時間帯であることも。


「たぁっ!」


 気合一閃、エリスの剣が路地を塞いでいる木の板を斬り崩す。

 狙い違わず、遮る物のなくなった夕日がエリス達のいる道に差し込む。

 振り返ってエリスを追おうとしていた吸血鬼は、その日差しを真正面から受けることとなった。


「なっ…夕日、だァ…!?」


 吸血鬼が顔をしかめて足を止める。

 板を破壊すると同時に壁を蹴って反転していたエリスは、動きを止めた吸血鬼の真横へと素早く移動し、剣を振り被った。

 攻撃の気配を察して対応しようと吸血鬼が目を向けるが、動きが明らかに鈍い。

 相手が体勢を変えるよりも、エリスの剣が届く方が速い。


(これで!)


 先ほどの光景から、一つの仮説を立てた。

 吸血鬼の身体能力、再生能力は驚異的ではあったが、それは常に一定ではない。現に最初にエリスが挑んだ時と、その後にヒョウウが戦っていた時とでは、吸血鬼の肉体の硬さ、傷の再生速度に差異があった。

 つまりこれらの能力は、吸血鬼が持つ何らかの特殊な力によって付与されているものなのではないかと考えた。

 攻撃や防御といった戦闘行為に意識を割いた分、再生能力が低下するというのならば、もしも、もっと優先的に対処しなければならない事態が発生した場合はどうか。

 例えば、弱点とされる太陽の光を浴びたとしたなら、仮にそれだけで致命傷になるようなことはなくとも、身体能力や再生能力が大きく低下することはありえるのではないか。

 何の保証もない賭けだったが、どうやら伝承は真実のようだった。

 吸血鬼は太陽の光を苦手としている。

 ならば今この瞬間、吸血鬼の能力は大きく低下しており、エリスにとっては千載一遇の勝機のはずだった。

 斬撃の狙いは、首筋に定める。


(いくら不死身って言っても、首を刎ねられればさすがに!)


 太陽の光に加えて、生物の絶対的弱点の一つを狙うことで、唯一の勝機を掴む。


「やぁあああああっ!!」


 全力の一刀が相手の身を捉えようとした時だった。

 眩しく道を照らしていた光が、ふいに陰った。


「え…?」


 エリスの放った斬撃は、狙い通りの箇所に的確に命中していた。

 しかし首を刎ねることは適わず、刃が数センチ食い込んだところで剣は止まっていた。

 驚愕に目を見開いたエリスが路地を見ると、その先に見えていたはずの夕日には雲がかかり、日差しは遮られていた。


「そんな…」

「……ハッ」

「っ!」


 反撃の気配を感じ取り、エリスは相手の胸板を蹴りつけた勢いで剣を引き戻しつつ、後ろへ跳び下がった。

 少し遅れて吸血鬼の腕が空を切る。僅かでも退くタイミングが遅ければまた捕まっていた。


「運がなかったなァ、小娘」


 血が噴き出している首筋に手を当てながら、吸血鬼が嘲笑うように口元を歪める。


「おっとと」


 前に踏み出そうとした足を逆に後ろへやって吸血鬼が数歩下がると、雲が晴れたのか再び夕日が差し込んでくる。

 本当に、ほんの一瞬日が陰っただけ。それだけが明暗を分けた。


「なかなか頭を使ったじゃねェか、あァ?」

「……くっ」


 肝心な時の己の不運に、エリスは歯噛みする。


「まぁ、もっとも、ちっと日差しを浴びたくらいじゃ、少しばかり体が重くなる程度で、どの道人間如きに遅れを取ることなんざありゃしねェが」


 両者の間を走る光の線が段々と細くなっていき、やがて完全になくなった。夕日が建物の陰に入ったのだ。

 もう後僅かで日没だった。もはや街中で日差しのある場所はない。弱点を突こうという目論見は、これで潰えた。


「どっちにしろこれで打つ手なしだな。さァて、食事の時間を再開するとしようか」


 吸血鬼が舌なめずりして一歩踏み出すと、エリスは一歩後ずさった。

 相手の言う通り、もう打つ手がない。たった今つけた首筋の傷も、吸血鬼が手を離した時にはもう半分近く塞がっていた。

 さらに一歩相手が前に出て、エリスが後ろへ下がる。歩幅に差があるので、同じ分だけ移動してるつもりでも、徐々に距離が詰まっている。

 剣はまだ構えたままだ。せめてもの抵抗の意思だが、それもどこまで保つか。

 かといって背中を向けて逃げ出せば、すぐさま追いつかれて捕まるだろう。


(どうしたら…!?)


 もはや進退窮まったかと思われた、その時だった。


「見ーつけたっ」


 場違いなほど呑気な声が頭上から降ってきた。


「え?」

「あァ?」


 エリスと吸血鬼が、同時に声のした方へ顔を向ける。

 両者のちょうど間、先ほどまで夕日が差し込んでいた路地の隣の家の屋根の上。

 そこに、傘を差した一人の少女が立って、二人のことを見下ろしていた。


「ルナティア…?」


 それはエリスにとって記憶に新しい、見知った少女だった。

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