(改訂版)第8話 隠されていた惨状
店を出ると、既に二人の姿は見えなくなっていたが、すぐに追いつくことが出来た。
元々アンジェリーナはこの界隈では有名人であるし、それが黒いローブに黒い帽子の美少女という目立つ容姿の人物と一緒に歩いていれば人目につくというもので、目撃情報を追っていけば簡単に見つけられた。
三人になったエリス達は、そのまま第三区旧市街の方を目指して歩き始めた。
「帽子を落としたのって、旧市街の方なの?」
「…たぶんね」
「何、その曖昧さ?」
「…色々事情があるのよ。端的に言えば、前後不覚に陥っていた、といったところかしら」
「まぁ、話を聞く限り最初はそんな感じだったみたいだけど…」
「…後は、風に飛ばされた」
「なるほどね」
しかし、わざわざ第五区まで食事をしに来ておいて、また探し物のために旧市街へ戻るとは、何とも不毛な話だった。
「やっぱりあなたの家にでも連れて行ってた方がよかったんじゃないの、アンジェ?」
「それじゃあ、エリスとヴィオレーヌちゃんが知り合えないよ~」
「いや、別にそれはどっちでも構わないんじゃ」
「えー、ヴィオレーヌちゃんだってエリスともお友達になりたいよね?」
「…別にどうでもいいわ」
「あれー?」
「…そもそも、私はあなたとも友達になった覚えはないのだけれど」
「あれれー?」
「残念ね、アンジェ。フラレてるわよ」
「ん~、でもま~、いっか。ゆっくり仲良くなっていけばいいよね♪」
大して堪えた様子もなく、アンジェリーナは鼻歌交じりに先頭を進んでいく。
その背中を見ながら、微かに面食らった風なヴィオレーヌが呟く。
「…おかしな子」
エリスはそんな彼女の反応を見て苦笑する。
「そう思わさせられたら、あなたもあの子のペースに巻き込まれてる証拠ね」
「…お節介かと思えば、恩着せがましい感じはしない。一体何のメリットがあって私を手伝おうなどというの?」
「アンジェの行動に理由なんてないわよ。そういうの、考えるだけ無駄」
「…理解し難いわね」
「なら断ったら? 本気で拒否すれば、あの子も無理に付きまとったりはしないわよ」
「…そうする理由もないわ」
「だから、あなたももうあの子のペースの内、ってことよ」
他人の領域に勝手に入り込み、かといって不快な思いはさせず、いつの間にか自分のペースに巻き込んでしまう。アンジェリーナはそういう人間だった。
彼女の父親は、アンジェリーナがその才能をそのままに自分の跡を継げば、どんな商談でも成立させてしまうとんでもない商人になるだろうと評している。だがエリスは、それはないだろうと思っている。何故なら彼女は、損得勘定が出来ない。何でも自分の思い通りに事を運べる才能を持っていながら、自分の利益に対する執着がないのだ。かといって相手の利益も考えない。最終的には、落ち着くところに落ち着いてしまい、誰も損も得もしない状態になるのだろう。そして、アンジェリーナが笑い、気が付けば皆笑っている、そんな平和な光景になる。
もちろん、世の中そうそう単純な話ばかりではない。
この先大人になっていけば、アンジェリーナでも思い通りにならない事態はいくらでも起こるだろう。常に笑って終われる状況になるとは限らない。
それでもエリスは、アンジェリーナならばいずれ何か、もっとすごい事を成しそうな気がしていた。
「巻き込まれる方は大変だろうけどね」
「…何の話?」
「いえ、こっちの話よ。それよりまだ聞いてなかったけど、あなたが落とした帽子ってどんなの?」
「あ! 私もそれ聞きたい!」
「って、あなたはそれで先頭をずんずん歩いていってたわけ?」
「あはは、忘れてたよ~」
「やれやれ…」
基本的にはこのように、どこか抜けている少女である。大成するにしても、誰かその辺りを補う人間が傍にいないと駄目であろう。
「…そうね、わかりやすく説明すると」
問われたヴィオレーヌはちょっと考える仕草をしてから、神妙な顔つきで告げた。
「…魔女の帽子よ」
「いやいや、全然わかりやすくないんだけど」
「うんっ、わかったよ。魔女の帽子だね!」
「って何であなたは今のでわかるのよ!?」
「え、何でエリスわかんないの?」
「…無知な女ね」
アンジェリーナがさも不思議そうに、ヴィオレーヌが若干蔑むようにエリスを見る。
「ちょ! 二人して人のことをかわいそうなものを見るような目で見てるんじゃないわよ! おかしいの私? 違うわよね?」
「だってエリス、魔女の帽子だよ? すぐにわかるよね」
「…まったく嘆かわしいわね。その程度のこともわからないなんて」
「待ちなさい、ちょっと待ちなさい。あなた達、本当にちゃんと同じ物を思い浮かべてる?」
「もちろんだよ。魔女の帽子っていうのは、こう~…」
ささっと辺りを見渡したアンジェリーナは、舗装されていない土がむき出しになった地面まで走っていき、落ちていた枝を使って絵を描きながら説明し始める。
「先っぽが尖ってて、大きなつばがついてて、それでこの辺にリボンとかの飾りがついてるの」
「いや、そんな細かい特徴までは…」
「…完璧ね」
「はい?」
「でしょう! 色はきっと黒か紺だよね?」
「…ええ。あなたが持ってきたこの帽子とほぼ同じ色よ」
「やっぱり~、その色が似合うと思ったんだよね~」
「…形も色も完璧。あなた、ただのぽわぽわした娘だと思っていたけれど、なかなか造詣が深いわね。見直したわ」
「えへへー、それほどでも~」
「………」
珍しく微笑を浮かべているヴィオレーヌと、はにかんで笑うアンジェリーナ。
エリスは一人置いてけぼりを食らった感覚を味わっていた。
「絵本の魔女、か…。そんなの急に言われたって思い浮かばないんだけど…」
やはりこの二人、少しずれたところで通じ合うものがあるようだった。
「ということは、あなたの格好全部、魔女の衣装ってわけ?」
「…ええ、その通りよ」
「何でそんな格好?」
「…あなたが今言ったではないの。魔女だからよ」
「おー! 本物の魔女さんだ!」
「……まぁ、何でもいいけど」
エリスはあまり考えないことにした。どうも昨日から変わった人間ばかりに出会うものだった。
ともあれ探し物がどんな物であるのかが知れたところで、改めて落としたと思しき場所を目指す。
だがその途中で、ふと思い立ってエリスは足を止めた。
「ん…アンジェごめん、ちょっと私、家に寄ってくる」
「うん、わかった。じゃあ、広場のところで合流しよっか」
「了解」
アンジェリーナが言う広場とは、旧市街の中心付近にある、元は憩いの場として使われていた開けた場所の通称である。ここから家に寄って旧市街に行くなら、直接そこを目指した方が近道なのだ。
エリスは二人と別れて、自分の家に向かって駆け出した。
家に寄ると言ったのは、ある物を取ってくるためだった。
(暗くなる前に帰るつもりだから、必要ないとは思いたいんだけど)
昨夜のことがあったとはいえ、昼間から持ち歩くのはどうかと思い家に置いてきた物、剣である。
玄関のドアを開けてすぐのところに立てかけてあるそれを手に取り、それを抜くような事態にならないことを祈りつつ再び家を出る。
住宅街の裏道を抜けていくと、旧市街まではわりとすぐだった。道は入り組んでいるが、この辺りは子供の頃から走り回っている場所なので目隠しをしていても迷うことはない。
間もなく第四区を抜け、第三区に入ろうという辺りでのことだった。
「?」
微かな違和感を覚えて、エリスは足を止めた。
「なん…だろう、これ?」
景色におかしなところはない。見慣れた住宅街の街並みだった。
人気がないことも、元々旧市街に近いこの辺りではいつものことだった。外を歩いている人間こそいないが、周りの民家から人の気配を感じないわけではない。
いつも通りの景色。
なのに何故、こうも不可解な気分になるのか。
「この感じ…どこかで……」
ゆっくりと足を踏み出す。
無意識に歩を進めた足先は、向かっていた方角ではなく、視界の隅に写る民家へと向いていた。
少し奥まったところに建っている目立たない家だ。
普段ならば気にも留めないであろうし、誰が住んでいるのかも知らない家である。
今も、そこに何かを感じているわけでもない。
それでも、エリスの足は自然とその家へと向かっていた。
「………」
伸ばした手がドアのノブにかかる。不思議とノックすることも、声をかけてみることも選択肢として浮かばなかった。
力を込めると、ノブはすんなりと回った。
音を立てないよう静かにドアを押し開ける。
その瞬間、正体不明の違和感は確信に変わった。
(これって!?)
逸る気持ちを抑え、足音を殺して屋内へ入り込む。
灯りの点いていない暗い廊下を進みながら、エリスは握った掌に汗をにじませていた。
外からはわからなかったが、中に入ったことで感じられるもの。
室内に漂う濃密な空気は、決して馴染みのないもの、けれどそれが何であるかは知っていた。
開けっ放しの扉から居間と思しき部屋に立ち入ったエリスは、その正体を目の当たりにした。
「ッ!」
ひどく不快な気持ちにさせる空気の正体、鼻を突く臭いの元。
血の臭いだった。
中に人の姿はない。だが床に飛び散った血の量は、明らかに一人の人間が流していい量を超えていた。
ここで誰かが死んだことは間違いなかった。
「なんで…こんなっ」
「ああ、それなァ」
「っ!!」
予期せぬ声に心臓が跳ね上がるほど驚き、素早く声のした方向から離れるように跳び退き、体の向きを変えると同時に手にした包みを解いて剣の柄に手をかける。
「ぎゃあぎゃあ騒いで煩かったんでついブチ殺しちまったんだよ。ったく、死んでから喰らうのは不味いってのによォ」
部屋のさらに奥から、背の高い男が現れる。
服の上からでもわかる筋肉質な体に反して、顔は細面で整っているが、餓えたハイエナを思わせるような風貌だった。
肌は青白く、鋭い目に真紅の瞳をしている。
見た目からして普通の人間という感じがしないが、それ以上にエリスが気になったのは、声をかけられるまでまったくその気配を感じ取ることが出来なかったことだった。
今、こうして対峙していると恐ろしいほどの存在感を受けるというのにである。
「で、てめぇは何だ、小娘?」
「それは…こっちの台詞じゃないかしら?」
気の弱い者なら失神しそうなほど強い眼光で睨みつけられながら、気丈にもエリスは正面からそれを受けて、逆に問い返した。
「ハッ、威勢のいい奴だ。たまにいるんだよな、てめぇみたいに勘のいいのが。結界を破られたんじゃ、このねぐらはもう使えねェな」
「結界?」
耳慣れない言葉に、エリスは疑問を投げかける。
「ああ。大げさなもんじゃねェがな。この場所が見えてても、そこにいるはずの人間の姿が見えなくても気にならねェように、周りを通る奴の認識をずらしてやるのさ。そうすりゃこの通り、血の臭いが充満してる家も外から見りゃただの景色の一部になるってわけさ」
意外にも男はエリスの疑問に対して説明を返してきた。
その事実もさることながら、男の説明にあった一つの言葉が、エリスの意識に妙に引っかかった。
(認識を、ずらす? それって…)
しかしそれ以上の思考は許されなかった。
「さーて、わざわざ懇切丁寧に説明してやったのは何故かわかるか、小娘?」
男が一歩近付く。
それでエリスの中の危機感は最大限に大きくなった。
「これから喰われる奴に冥土の土産をくれてやるためだよ!」
獣のような素早さで男が飛びかかってくるのに対し、それに先んじて動き始めていたエリスは横っ飛びにそれをかわし、一目散に壁際まで駆け、窓に向かって飛び込んだ。
両腕で顔を覆いながら全身で窓を突き破り、転がりながら表の地面に着地する。
さらに勢いのままに立ち上がり、数度地面を蹴って跳び下がりながら体勢を整え、両足で立った時には剣を抜いて構えていた。
「オウオウ、その動き。素人じゃねェな、てめぇ」
「あなた、は…!」
「まぁ、つっても、所詮は人間。どうってこたねェがな」
「吸血鬼!」
「おうさ、随分噂してくれてるみてェだな。その通り、俺様がてめぇらが言うところの、吸血鬼。人間の天敵様よ」
吸血鬼。
不死の怪物。
人に仇名す魔物。
昔からその存在が噂され、けれど誰一人実際にその姿を見たという者はいなかった。
街の人々は日常的に、軽い気持ちでその名を口にする。時にはその存在を求めて探し歩く。
本物を前にして、同じようにその名を口にし、存在を求めていた己の愚かしさを痛感する。
目の前にいるのは、死の具現に他ならない。
対峙しているだけで、恐怖に身が竦みそうになるほどの強烈な存在感があった。
その腕は、人の脆い体など容易く引き裂くだろう。
その牙は、人の身を刺し貫き、血を吸い尽くすだろう。
ソレは、人が出会ってはいけないものだ。
(こんなモノが、人間の街にいていいはずがない!)
エリスの中には今、相反する二つの意思が芽生えていた。
今すぐにこの場から逃げ出したいと思う心と、この存在を野放しにしてはいけないと思う心だった。
ほんの一瞬目だけを動かして周囲の様子を探る。
ここは建物の陰となっているが、今はまだ陽が落ちきっていない時間帯である。吸血鬼が伝承の通り太陽を苦手としているなら、陽の当たる道を選んで移動すれば逃げ切れる可能性はあった。
しかし今は周りに人がいないが、辺りは人家が立ち並んでいる。ここで逃げれば、別の誰かが犠牲になるかもしれなかった。
顔は知らなくても、同じ街に住む誰かが犠牲になるのを黙って見過ごし、自分はおめおめと逃げるのか。それを己の矜持は許せるのか。エリスは自問する。
誰かを守るために剣を振るう騎士。
それを目指していた兄に憧れ、自らも剣を手にした。
(勇気と無謀は違う。だけど!)
半端な正義感で敵うはずのない相手に挑むのは無謀以外の何者でもないが、ここで逃げ出した自分を、他の誰でもない、エリス自身が許さない。
柄を握る手に力を込める。
たとえ愚かと言われようと、ここで退くことは出来なかった。
「ハッ、いいねェ。威勢のいいのは嫌いじゃねェ」
エリスの戦おうとする姿勢を見て、吸血鬼が愉悦の笑みを浮かべる。
「そうやって挑みかかってくる奴を捻り潰してから喰らうのも悪くねェ」
「そう簡単に、やれると思わないで」
「ハッ! 上等上等、いい獲物がかかったもんだ!」
「……」
やると決めたら腹が据わるものだ。
恐怖心はまだ残っているが、それは適度な緊張となって全身を包む。
心臓は早鐘のように打っているが、心は平静さを取り戻しつつあった。
構えた剣の切っ先に揺らぎはない。
(大丈夫、やれる)
キッと前を見据え、視線の先にいる敵へ向かって剣気を放つ。
それに反応した吸血鬼が軽く身を震わせる。
「いい気迫じゃねェかっ、その調子で言った通り、簡単にくたばんなよッ!」
踏みしめた地面が陥没するほどの勢いで吸血鬼が跳躍する。
上空10メートル余りまで跳び上がり、そこから足の裏を見せながら急降下してくる。
踏み付けてくる攻撃を、エリスは後ろへ跳んでかわす。爆薬でも使ったかのように、目の前の地面が弾けた。
飛んでくる石つぶてを避けつつ前進し、素早く剣を振るう。
「フッ!」
首筋を狙った剣は、相手の腕に阻まれた。
「ハッ!」
剣を受け止めた腕をそのまま振り下ろす吸血鬼。
エリスは相手の周りを回るようにしてかわし、そのまま背後へと回り込む。
下から上へ、逆さに振り上げた剣が吸血鬼の背を斬りつける。
吸血鬼は体を半回転させて拳を放つが、その前にエリスは大きく後ろへ跳躍していた。
両者の立ち位置が丁度最初と入れ替わった形となる。
「……ふぅ」
ほんの一瞬の攻防。それだけで相当に精神力を使わされた。
あの豪腕による一撃を受ければ、エリスの体などひとたまりもないだろう。
それに対して吸血鬼の方は、腕の方には傷一つなく、背中は薄皮一枚斬れたのみだった。
(小手先の技じゃ、傷付けることさえ出来そうにないわね)
人間でも、鍛え上げた強靭な筋肉は鎧に例えられるほど頑丈なものとなる。ましてや人外の存在ともなれば、その硬さは鋼鉄に匹敵するということだろう。
こちらからの攻撃は効果が薄く、逆に相手の攻撃に当たれば即終了。そんな状態での戦いが長引けば気力も体力もあっという間に尽きてしまう。
ならば、手は一つだった。
(乾坤一擲…一撃で決めるしかない)
今ならばまだ、相手はエリスのことを侮っている。
大技を使うチャンスは十分にあった。
エリスは正眼に構えていた剣を後ろに引き、左から大きく振り被って右半身を前に出して構える。
「あぁん、何だその構えは?」
一般的な剣の型にはない構えに、吸血鬼が訝しげな顔をする。
それもそのはず、これは兄から習った剣にはない、エリス独自の技だった。
「まぁ、何でもいいか。せいぜい足掻けよ、小娘」
吸血鬼は無造作に前へ進み出る。
どんな攻撃も致命傷にはならないと思っているのだろう。
ならばその油断を遠慮なく突くまでだった。
エリスは地面を蹴り、電光石火の速さで相手の懐目掛けて踏み込む。
「ハッ! 見えねェとでも思ったかよ!」
しかし一直線に向かって行った動きは見切られ、眼前に吸血鬼の拳が迫る。
突き出された拳を寸でのところでかわし、エリスは全身をコマのように回転させる。
「また後ろかよっ、見え見えだぜ!」
回り込もうとするエリスの動きに追従し、吸血鬼が体の向きを変えながら拳を薙ぎ払う。
それをエリスは、横の動きから縦の動きに変化することでかわした。
回転しながら跳躍し、その勢いのままに剣を振り抜く。
高速の踏み込みと、回転による遠心力を一杯に乗せた一撃は、相手の反応を許さぬ速度と、筋肉の鎧を突破するだけの威力を持っていた。
エリスの放った斬撃は、吸血鬼の肩から腹にかけてを大きく斬り裂いた。
(いけた!)
確かな手応えを感じ、エリスは一度後退しようとした。
だがそれよりも早く伸びてきた相手の手に胸倉を掴まれる。
「なっ!?」
「ハッ、なかなか痛かったじゃねェかよ、小娘ェ」
半身を血で染めながら、しかし吸血鬼は余裕の表情で立っていた。それどころかエリスの剣によってつけられた傷は、見る見るうちに塞がっていく。
「そんな…っ!」
「残念だったな。俺様はこの程度の傷じゃどうにもなりゃしねェのよ」
吸血鬼が不死身の怪物と呼ばれる理由を目の当たりにして、エリスは歯噛みする。
捕まれた状態から脱しようと剣を振り被るが。
「おっと」
動きを察せられ、近くの建物の壁に背中から叩きつけられる。
「かはっ」
「もうお遊びは十分だろう。こっからは、お食事の時間だ」
「ぐ……っ」
「もっとも喰うのは俺様で、てめぇは喰われる役だがなァ! クッハハハハハ!」
渾身の一撃が通じなかったショックと、叩きつけられた痛みでエリスの心に絶望が陰を落とし始めていた。
まだ負けないと心を奮い立たせようとするも、痛みですぐには体を動かせそうにない。
「ハッ、いい表情だ。美味い血がいただけそうだ」
ニタァっと笑った吸血鬼が牙を剥いて迫ってくる。
成す術なくその身に牙が突き立てられようとした時だった。
ふいに空気が揺らぎ、エリスを拘束していた力が消えた。
「なっ…!?」
よろめいたエリスは壁に手をついて何とか倒れそうになるのを堪える。
視線を巡らせると、吸血鬼は何かに吹き飛ばされたように離れた位置で膝をついていた。
「何だ、てめぇは?」
剣呑な顔で前を睨む吸血鬼の視線を追って逆側に目を向けると、そこには見知った人物の姿があった。
「よう、嬢ちゃん。噂の吸血鬼に出くわすとはラッキーだったな」
「ヒョウウ、さん…?」
抜き身の刀を肩に担いで立っているのは、紛れもなく酒場で会った男、ヒョウウであった。
だが一瞬別人かと疑った。
酒場で酒を飲み、飄々とした体で話していた時とはまるで存在感が違っている。元々獣じみた雰囲気をしていたが、今はそれ以上の何かに見えた。
獰猛な気配に、エリスは思わず身震いした。
「…どう考えても、アンラッキーだと思いますけど」
憎まれ口は、せめてもの虚勢だった。
エリスの反論に、ヒョウウはクククと笑う。
「そうかい。まぁ、どっちでもいいさ。悪いがあれは俺の獲物なんでな、譲ってもらうぜ」
「いいですけど…」
譲るも何も、必殺の一撃が通じなかった時点でエリスの勝ち目は限りなくゼロに近かった。危機一髪のところを救われた形であり、異を唱える理由はなかった。
けれど果たして、彼ならば勝算があるのかどうかは図りかねた。
(ドラゴンを倒したとか言ってたのが本当かどうかわからないし。だけど…)
今、目の前に立っている男の発する気配は、エリスが知るどんな存在よりも、対峙している敵よりも尚大きなものに思えた。
「狩られる側の人間が、俺様のことを獲物と呼ぶか。おもしろい冗談だなァ、若僧」
「そういうおまえはつまらない奴っぽいな、吸血鬼」
「あん?」
「俺がこういうことを言うと大抵の奴はそうやって鼻で笑いやがる。だが、俺が今までに会った中で一番強かった奴は笑わなかった。おまえは有象無象の側に属してるってわけだ」
「ハッ、でかい口も行き過ぎると笑えないぜ」
「その台詞も二流止まりの連中のもんだな。がっかりさせないでくれよ、不死の怪物さんよ」
「……言っておくぜ、人間。俺様は威勢のいい奴は老若男女問わず、大好物だ。今夜の餌はてめぇで決定だ!」
「いい心がけだ。ちゃんと俺を見ろよ。そんでもって、本気で殺しあおうぜ!」




