(改訂版)第6話 雨宿り
アンジェリーナ・マーティンの生活習慣には統一性がない。
平気で三日続けて徹夜してみせることもあれば、丸一日寝たまま過ごしていることもある。
夜早く寝たからと言って朝早く起きるとは限らず、一時間程度の睡眠で済ませてしまう日も多々ある。
特筆すべきは、どんな風に過ごしてもその行動力が損なわれることがないということだ。
殊更に力強いというわけでも、元気過ぎるというわけでもなく、とにかく一定以下までテンションが下がらないというべきか。時に情熱的に、時に長閑に、やるとなればとことん、やらない時もとことん、常に何かしらの行動に全力で挑んでおり、それらに一貫性はない。
ともかく、普段の生活態度から彼女の行動パターンを読み取ることは、長い付き合いの人間でも困難であった。
本人に言わせれば、全ては「なんとなく」なのだという。
「なんとなく、今日はこうした方がいい気がするの」
それだけの言い分で、睡眠時間や起床時間が日々変化する。
他にも、その日何をして過ごすかさえ、その時々の「なんとなく」によって決められる。
一日中花だけを眺めて過ごしていたかと思えば、街の端から端まで駆け回っている日もある。
ただそれだけならば単なる気まぐれとも取れるが、彼女の場合はそれだけではない。
例えば一日家から出ない時は、急な雨が降り出したり。逆に出かける日はほぼ確実に晴れていたり。また行く先々で、大なり小なり何らかの出来事に遭遇する。迷子を見つけて家まで送り届けたり、強盗犯を追う大捕物に参加したりと。ちなみに彼女が関わった事件の解決率はほぼ100%である。
後は、失せ物探しなども彼女の得意分野だった。
「きっちこっちへ行くといいと思うな」
そんな感覚だけで生きているのが、アンジェリーナ・マーティンという少女だった。
この日も己の感覚に従い、未明から起き出したアンジェリーナは、朝の散歩と称して家を出た。
目指したのは、旧市街と呼ばれる第三区だった。
700年もの長い歴史を持つこのフォルモントの街には、都市開発や区画整理を繰り返している内に人があまり住まなくなった地区というものがいくつもあった。最も古い第一区、二区は整備が繰り返され、現在は主に貴族や富豪の住む一等地となっている。
ちなみにマーティン家は平民ではあるが、交易商を営んでおり、この街にあっては貴族と遜色ない生活を送っていた。家も第二区にある。
第三区は隣接する区画であるためそれほど遠くはないのだが、今は半分近く人の住んでいない地域ということで、普段はあまり行かない場所なのだが、この日は「なんとなく」そこに足を運んでみようという気分だった。
「あれれ?」
本人にはその自覚があるのかないのか、いずれにせよこの日もアンジェリーナの眼前には、“事件”という要素を含んだ存在が現れていた。
「誰かいる、のかな」
アンジェリーナが見つめる先の路地は日陰になっていて、奥の方はよく見えないのだが、そこに誰かがいるような気がしたのだ。
近付いていってみると思った通り、壁に背を預けて蹲っている人影があった。
ゴロツキや家を持たない人間がこうして路上で一日を過ごすというのは、治安も良く生活水準も高いこの街においてもいくらかはある。ましてやここは定住者が極端に少ない第三区であり、そうした輩が住み着いている可能性は高い。
しかしその人影はそうした者ではなかった。
路上生活をしているにしては服に汚れがほとんどない。その上素材もわりと上物である。仮にも商人の娘である、それくらいパッと見で見極める程度の眼力は持ち合わせている。
そうなるとその人物は何者で、何故そんなところにいるのか。
一度気になってしまえば見て見ぬ振りをするなどという選択肢は彼方へ消し飛ぶのがアンジェリーナという少女である。
「あのー、大丈夫ですかー?」
声をかけながらさらに近寄っていく。相手の反応はない。
間近までやってくると、人影の姿をはっきりと見て取ることが出来た。
上等な生地を使っていると思われる黒いローブに、長い紺色の髪。闇に紛れそうな出で立ちである。これで日陰に蹲っていたのでは、ほとんどの人間は見逃してしますだろう。
「わ、美人さんだ」
屈んで覗き込むと、思わず見惚れるほど端整な顔立ちをしている少女であると知れた。
「ちょっと年上さんかな?」
眠っているらしく目を閉じているのではっきりとはわからないが、どこか理知的な雰囲気を感じさせる顔で、そこが年上という印象を与えていた。
「あのー、こんなところで寝ちゃってると風邪とか引いちゃいますよー?」
近くまで来ても反応のない少女に声をかける。
依然として少女の目は閉じられたまま、ピクリとも動く様子がない。
「うーん、返事がない。ただの屍のようだ」
なんとなくお約束っぽいボケをしてみる。
「なんて、まさかね」
いつもツッコミを入れてくれる相方がいないので自分で軽くノリツッコミをしつつ、アンジェリーナは眠っている少女の顔に向かって手を伸ばす。
状況だけを見れば、今のは決して冗談とも言えなかった。
今この街では連続殺人事件が起こっており、しかもそれが人外の存在による仕業であることをアンジェリーナは知っていた。早朝に人気のないところでぐったりしていて動かない人間がいれば、事件の犠牲者という可能性は十分にありえた。
しかしアンジェリーナは自らの勘に基づいて、そうではないと確信していた。
だから相手の顔に手が触れようかというところで少女の目が開かれても別段驚くことはなく、むしろ目を覚ました少女の方が驚きの表情を浮かべていた。
「………」
「………」
中途半端に手を伸ばした姿勢のまま、アンジェリーナは開かれた少女の目を見つめる。
少女の方も見開いた目でアンジェリーナのことを見つめ返す。
しばらく無言で見合っていたが、やがて少し眠たげな様子で目を細めた少女が口を開いた。
「…あなた、誰?」
「あ、私は」
「いえ名前などどうでもいいわ、むしろ何故ここにいるのかしら?」
「え、なんでって…」
はて、何故だろうと、問われたアンジェリーナの方が首を傾げる。
その様子を訝しげな表情で眺めながら、少女は小声で何事か呟き始める。
「…人払いの結界をしていたのに…破られた? いえそんな形跡は…そもそもこんなに近付くまで何故…それはそうとそもそもここは…おかしいわね考えがまとまらない……」
「ねぇねぇ、あなた大丈夫?」
考え込むように俯いた少女の顔色があまりよくないことが気になって、アンジェリーナはさらに屈んで下から少女の顔を覗き見た。
「…大丈夫? 私は問題ないわ。…ええ、何やらぼーっとして、前後の記憶が曖昧で、景色が歪んでいて朦朧とするけれど、私は正常よ」
「いやいや、それ全然大丈夫じゃないから」
「…問題ないわ。ただ…ええ、そう、帽子が」
「帽子?」
「…帽子がないから調子が出ないだけだわ。…ええ、そう、落とした帽子を探していたんだったわ」
少女は壁に手をつきながらよろよろと立ち上がり、ふらふらとした足取りで歩き始める。
そのまま立ち去るかと思いきや、路地から半歩踏み出したところで動きを止め、そのまま後ろ向きに元の場所まで歩いてきて、再び蹲った。
「えっと」
「…太陽が悪いのだわ」
「はい?」
「…全て太陽のせいね、この不調は。ええ、間違いないわ」
「そう、なんだ」
「…消えてなくなればいいのだわ、太陽なんて。…ええ、それにしてもこれは……ええ…」
「う~ん…」
おかしな少女だった。
アンジェリーナも行動の突飛さにおいては郡を抜いていたが、この少女の言動もまた予測しづらいものがあった。
けれどそんな普通の人間ならば敬遠しそうな要素も、アンジェリーナにとっては逆に興味を引き立てられるものでしかなかった。
「帽子を探してるの?」
「…ええ」
「それがあれば調子出そう?」
「…ええ」
「太陽にも勝てる?」
「…ええ」
既に思考停止して反射だけで返事をしているように見えたが、アンジェリーナは承知したとばかりに顔の前で拳を握ってみせた。
「よっし、任せて! 今持ってくるから!」
「…ええ」
虚ろな目で頷く少女をその場に残して、アンジェリーナは駆け出していった。
フォルモントの街は、とある建造物を中心に円形に広がった形状をしている。
半円状の第一区と第二区を合わせた中心部は、数センチの誤差もない真円を描いているという。そこには何か重要な意味があったのかもしれないが、それに関する記録は残っておらず、領主も市民も誰もその理由を知る者はいない。だからその後の都市開発も漠然と円を外へ広げていく形で行われたものの、その形状は地形に合わせて変化し、外周の円は歪なものとなっていた。とはいえ、それが何かしらの不具合を街にもたらしているわけでもない。同じように、中心部から放射状に広がった街並みをした都市というのは他にも多くある。ただ、その中心となっている建造物が少し珍しいだけだった。
「久々かな、ここに来るのも」
第一区にある別邸に用があったエリスは、用事を済ませた帰りに少し寄り道をして、この街の中心たる建造物、琥珀宮にやってきていた。
建物としては、特筆すべき部分はあまりない。
建築様式は建てられた当時の標準的なものであり、大きさも地方領主の館より少し大きい程度で、帝都の中心にある大宮殿などと比べればずっと小さい。
美術的価値はそれなりに高いと言われている。実際、外の中も綺麗な造りをしていた。
変わっているのは建物自体ではなく、それが建っている場所だ。
それは、湖の中心に建っていた。
自然に出来た湖ではなく、人工的に造られたものである。周囲は石造りの壁に囲まれ、その形状は第一区第二区からなる中心街と同じ、真円となっている。石の壁から琥珀宮の外壁までの距離は100メートルある。琥珀宮自体も直系50メートルの円形の建物で、それを中心とした直系250メートルの人口の湖が、フォルモントの中心部だった。
「舟は…あるか。誰も行ってないのね」
琥珀宮へと渡るための橋は存在しない。
高い壁と水堀に囲まれ、橋もかけられていない。その様子はまるで、中にいる者を閉じ込めているような印象だった。元は誰かのための流刑地、または監獄として造られたのではないかという話もあるくらいだ。
しかし、監獄と呼ぶには些か綺麗過ぎる造りであるし、何より橋がなくても渡る手段はある。
壁の一箇所には水辺まで降りる階段が設けられており、岸には渡し舟が泊めてある。許可さえ取れば、誰でも中の見学を出来るようにもなっている。
ここが吸血鬼の住処だ、などという噂に乗せられてアンジェリーナと共に中を探検してきたことがあったが、至って普通の、美術館とでも言うべき建物でしかなかった。
時折余所の町からここを訪れる観光客はいるが、街の住人はそれほど近寄ろうとはしない。
エリスも今日訪れたのも単なる気まぐれでしかなかった。
「行こうかな」
5分程度壁の上から宮殿を眺めてから、エリスは踵を返した。
少しは気晴らしになるかと思ったが、あまり効果はなかったかもしれない。
エリスは浮かない顔で家路に着く。
すると朝からあまり思わしくなかった空模様が一気に悪化し、雨が降り出した。
「はぁ、気の利かない空ね」
一応予測はしていたので持ってきていた傘を広げる。
あまり雨は好きではないので、ますます憂鬱な気分になったが、これはこれでいいかもしれないと思う部分もあった。
所謂上流階級が暮らす第一区には、一般市民はあまり立ち入らず、人通りは非常に少ない。特に出入りを規制されているわけでもないのだが、やはり空気が合わないのだろう。琥珀宮を訪れる人間が少ないのも、その辺りに原因があるのかもしれない。
しかしエリスにとっては、第一区に暮らす住人の方が苦手な相手だった。
富と名声を好む彼らは、帝国の華たる聖騎士の妹であるエリスに取り入ろうと媚を売ってくる。ブランシェ家の邸宅には、いつもどこかの家からの贈り物が届けられている。大半は突き返しているし、無理やり置いていった物にも一切手をつけていない。そんなことばかりなので、エリスはこっちの家で暮らすのを嫌っているのだ。
この辺りを歩いていると、そうした輩で出くわす可能性も低くないのだが、こうして雨が降っていれば殊更に出歩こうとする人間も少ないだろう。
けれどその予想に反して、出歩いている人間がいた。
正確には、長い塀の軒下で雨宿りしている人間がいた。
考えていた類の人物とは違ったが、見知っている相手ではあった。
エリスはその人物が軒先を借りている塀が誰の家のものだったかを思い出そうとしたが、浮かんでこなかったので諦め、どうせ裏側だから誰も気付かないだろうとたかをくくることにして、そちらへ近付いていった。
「こういうの、縁があるって言うのかしらね」
「あら、昨日の怒りんぼさんだわ」
「誰が怒りんぼよ」
「だってほら、今も。おでこに皺が寄ってる」
「誰のせいよ、まったく」
昨夜会った、銀髪に紅い目のおかしな少女だった。
エリスは傘を畳んで、少女の隣に並んで軒下に入る。
「あの後、何もなかったみたいね」
「まぁね~」
忠告を聞かずにさっさと立ち去った彼女に対して思うところはあるが、これ以上蒸し返して怒鳴りつける気分でもなかったので、それ以上の追求はしなかった。
「あ、そういえばちょっと気になってたんだけど、そのグールとかいうのの死骸ってどうしたのかしら?」
「フェリエさんが後は任せろ、って。ちゃんと手厚く葬るって言ってた」
「そっか。なら良かったわ」
「そうね…」
塀の壁に背を預けたエリスは、小さく息を吐く。
「あなた、こんなところで何してるのよ?」
「見ての通り、雨宿りだけど?」
「それはそうでしょうけど」
「やー、雨って苦手なのよねー。こう、肌にぴりぴりーってくる感じがして」
「その感覚はよくわからないけど、雨が苦手っていうのは気が合うわね」
「でしょう。急に降られちゃったからね、こうやって近くにあった軒のところに避難中」
相変わらずおどけた調子で話す少女だったが、昨日に比べると若干覇気がないように見えた。おそらく苦手だという雨のせいなのだろう。
「どうかした、あなた? 昨日より元気がないよ」
逆にそんなことを指摘された。
言われるまでもなく、エリスも自分が本調子でないことくらいわかっていた。
「ちょっと寝不足なだけよ」
「あれからすぐ帰ったんじゃないの?」
「帰ったわよ。帰って汗を流して、すぐにベッドに入ったわ。けど、いくら経っても眠れなかった」
「どうして?」
「……」
問われてエリスは押し黙った。
こんな話を他人にするのは、エリスの心情的に好まれないことだった。
だが同時に、こんな話を出来る相手は、おそらく他にはいないだろうとも思っていた。
昨日、同じ時間を共有したこの少女にしか話せないことだ。
「…これ、ただの独り言だから」
「はぇ?」
首を傾げる少女に構わず、エリスは他人ではなく、自分に語りかけるように胸の内を明かし始めた。
「私…小さい頃からずっと剣の稽古をしてて、兄さんにも何度も言われたから、自分では理解してるつもりだった。これは人を傷つけることの出来る道具で、私が修練してるのはそのための技なんだって」
兄のユリウスはエリスより8つ年上で、エリスが物心ついた頃にはもう剣を振っていた。十を過ぎる頃には、周りから神童と囃し立てられるほどの腕前だった兄の姿に、幼いエリスは憧れた。そして後を追うように剣の稽古を始めた。
それから十年余り、エリスはずっと剣の腕を磨き続けてきた。
遠くの地で騎士となった兄の背中にどれだけ自分が近付けているのかは、比べる機会がないのでわからない。ただ兄はきっと、最高位の騎士として多くの戦場を渡り歩いてきただろう。それに対してエリスは、まだ本当の戦いというものを経験したことはなかった。
昨日までは。
「あれ、人だったのよね」
「グールってやつのこと?」
「元々、この街で暮らしていて……殺された誰かだった」
一晩経ってもはっきり思い出せる。肉と骨を断ち切る感覚が、手に染み付いて残っていた。
「人を、斬ったのね、私」
「あれは人じゃないよ。かつて人だったモノ」
「そうね、それもわかってる」
罪悪感があるわけではない。
昨夜戦っている時は夢中で考えている余裕などなかったし、落ち着いてから考え直しても、あれを斬ったことに後悔はない。
それでも胸に微かなしこりが残っているのは、エリス自身の心の内に原因があった。
「斬ったこと自体を気にしてるんじゃない。そのことを…人の姿をしたものを躊躇いなく斬ることが出来て、今になってもほとんど何も感じていない自分の心が、怖いのよ」
あの時エリスの前に現れたのは、確かに異形の存在だったかもしれないが、人の姿をしていた。そして実際、元は人間だった存在だった。
人を斬った経験などないのに、敵として現れたというだけで、エリスは最初からあれらを斬るつもりになっていた。
当たり前のように斬ること――殺すために剣を振るうことをよしとしていた。
「きっと私は、あれが本物の人間だったとしても、同じことをしたでしょうね。敵意を向けて向かってきたというだけで、躊躇いなく、斬る」
「……」
「そのための技術を磨いてきたんだって、わかってるつもりなのに。いざ自分がそんな風になっているのを知ったら、怖くて、眠れなくて…手の震えが、止まらないのよ」
今日のエリスは、朝から右手を使っていなかった。
傘を持っていたのも左手であるし、包丁もまともに扱えそうになかったので朝食も取っていない。
だらりと下げた右手の指先は、注視しなければわからない程度ではあるが、今も微かに震えていた。
「情けない話ね」
「そんなことないと思うけどな」
垂れ下がった右手に、少女の左手がそっと添えられる。
「優しい子だね、あなたは」
「は? 何言って…」
「私も人の形をしたものを屠ったのははじめてだったけど、そんな風に感傷的になったりはしないな。手だってほら、ちっとも震えたりしてない」
「そう。あなたの方が芯が強いのかしらね」
「どうかな。私はむしろ羨ましいよ、そういう風に感じられるの。それにその方が、後で強くなれるような気がする」
「後が、あればね」
「あら、逃げるのは嫌いなんでしょう」
挑発的な声に、エリスははじめて少女の方へ顔を向けた。
何か言い返してやりたいと思ったが、少女がエリスに向ける表情は穏やかで、重ねられた手の感覚も心地よかったので、言葉を飲み込んだ。
少しの間そうして見詰め合っていると、今度は少女の方から口を開いた。
「ねぇ、あなた。何で昨日あんなこと言ったの?」
「何を?」
「私のこと心配してるの、って聞いたら、そうよって答えたじゃない。どうして?」
「どうしてって…」
「他人でしょ、私達、昨日会ったばかりの。しかも何だかずっと喧嘩してたような気がするし」
「別に喧嘩したくてしてたわけじゃないけど…何よあなた、そんなこと気にしてたの?」
「うん、すごく気になった」
おかしなことを気にするものだと思った。そもそもそんな質問に対して、明確な答えなどエリスは持ち合わせてはいない。
「気にする必要なんかないわよ。どっちかというとあなたを心配したというより、自分の心の問題だもの」
「ん~?」
「この街では今、たくさんの人が殺されてるわ。その現実を、昨日突きつけられた。だからちょっとナーバスになってたのよ。もしあなたが、たとえ会ったばかりでも顔を知ってる人が同じ目に合ったらって思うと、ね。まして、そうなってしまってから、あの時もっとちゃんと忠告しておけば、って後悔するのも嫌じゃない」
「つまり、自分のためってこと?」
「人に優しくするとね、自分が楽しくなるそうよ。私の友達の言い分。あとあなた、無茶しそうで危なっかしいし…ああ、そういうところがその友達と似てたから気にかけたのかもね」
たぶんそんなところだろうと、適当に言葉にしてから自分で納得する。
決して照れ隠しからの理由付けではない。たぶん。
自分でもよくわからないのだ。何故昨日あのように彼女に突っかかっていったのか。そもそも最初に会った時から、この少女にはペースを乱されているような気がする。
「ふぅん」
当の少女は、顔を正面に向けて気のない声を出していた。
それからふと何かに気付いたように顔を上げる。
「あ…雨上がった」
「そうみたいね」
エリスも空を見上げた。
雨が上がると同時に空を覆っていた雲も瞬く間に過ぎ去り、太陽が顔を覗かせた。
「あははっ、やったね! あっめあっがり~!」
唐突に声を上げて少女が軒先から飛び出していく。
飽きれてその姿を見ていたエリスだったが、数歩進んだところで少女は足を止め、すごすごと引き返してきた。
心なしか、飛び出していった時よりも顔が青い。
「どうしたのよ?」
「あはは…やー、私、実は太陽も苦手で…」
「何が得意なのよ、あなた」
げんなりしている少女の様子にますます飽きれる。
「うーん…月とか星かなぁ」
「夜行性なのね」
「そう、それ」
道理で、今日は最初に見かけた時から昨夜に比べてテンションが低いと思っていたのだ。雨のせいもあったろうが、昼間だからという理由もあったようだ。
(ん?)
何か引っかかりを覚えた。
(雨…太陽……夜…。銀色の髪と、紅い瞳。人間離れした容姿…)
それらのキーワードを組み合わせて、何かが浮かび上がってくるような気がした。
「………まさかね」
そう口にして浮かんできたものを飲み込んだエリスは、手にした物と隣にいる少女と見比べて、それを彼女の方へ差し出した。
「良かったら、これ使う?」
「はぇ?」
「日傘にしていきなさいよ。日が沈むまでずっとここにいるわけにもいかないでしょう」
「……いいの?」
少女が遠慮がちに尋ねてくる。
「変なところで遠慮してるんじゃないわよ」
エリスは両手で傘を開くと、右手に持って少女へと手渡した。
受け取った傘とエリスの手を交互に見ていた少女は、最初は戸惑っていたが、やがて微かに頬を赤らめながら微笑んだ。
「震え、取れたみたいね」
「え?」
言われてハッとした。
今、エリスは自然な動作で右手で傘を開いて少女に渡していた。その際に手の震えは収まっていたし、今も再び震えだす様子はなかった。
「くすくす」
「っ!」
笑い声が離れた位置から聞こえて、エリスは慌ててそちらに向き直る。
エリスの意識が自らの手に向いた隙に移動したようだ。
道の先で、傘で日差しを遮りながら少女がくるっと回って振り返る。
「ねぇ! あなた名前は?」
問われて、そういえばまだお互い名前も知らない仲だったのだとはじめて思い至った。
会ったばかりなのだからそれで普通なのだが、不思議とそれを気にせずに話したりしていた。
「エリスよ。エリス・ブランシェ」
「私は、ルナティア!」
もう一度くるっと回って踵を返し背を向けた少女――ルナティアは肩越しに振り返り、手を振りながら駆け出していく。
「またねっ、エリス! 傘ありがとう! 今度返しに行くからー!」
そうしてあっという間に姿が見えなくなった。
手を振り返す暇も、声をかける暇もなかった。
立ち尽くすエリスは小さく嘆息した。
「返しに、って。いつどこで会うかもわからないのに」
昨日も今日も、会ったのは単なる偶然だった。
ようやく名前を知っただけで、お互いどこに住んでいるかも知らない間柄で、どうやって再会しようというのか。
「まぁ、二度あることは三度あるって言うけど」
案外明日辺りまた会ったりするかもしれなかった。
「あれ、そういえば…」
ふと思いついて、エリスはルナティアが走り去った方角、即ち先ほどエリスがやってきた方角を見て考え込む。
あちらの方には、琥珀宮へ続く道しかないはずだった。
琥珀宮。この街の中心にして、噂の主が住んでいると噂されてきた場所。
エリスの脳裏に、先ほどの疑念が再び浮かび上がってくる。
「……まさかね」
先ほどと同じ言葉を吐いて疑念を振り払い、エリスもその場から歩き去った。




