第1話 吸血鬼の噂
「吸血鬼、ですか?」
問いに対して、エリスは首を傾げる。
16歳になるエリスは町で評判の可憐な美少女であり、そのちょっとした仕草に見惚れる人間は多い。
もっとも本人はそうしたことに無頓着なので、周りの視線など気にもかけていない。
目の前にいる男はその手合いとは異なるらしく、酒場の男客にしては珍しくエリスに対して色目を使うでもなく、世間話をする調子で妙な問いを投げかけてきた。
「ああ、知ってるか?」
酒杯を掲げながら問いかける男は、野生の獣を髣髴とさせる雰囲気を漂わせた傭兵風の青年である。
伸びた前髪に隠れてわかりにくいが、間近で見るとなかなか人目を引きそうな美丈夫なのだが、虎か獅子を思わせる気配が近づくことをためらわせる。
だからか、男の周りには他に人がおらず、物怖じしない性格のエリスだけが自然、男の話し相手となってしまっていた。
「知ってるか、と聞かれましても、どう答えたらいいかわかりませんよ」
「そんなにおかしな質問だったか?」
「ええ」
男の問いは、「吸血鬼を知っているか?」というものだった。
「あまり女の子に振る話題じゃないとは思います」
「そうか? 結構のってきてくれそうな相手だと思ったんだがな」
「見当違いですよ、それ」
「まぁ、適当でもいいから答えろよ。知ってるか? 吸血鬼」
しつこく聞いてくる男に嘆息しつつ、エリスは店内を見渡す。
だが残念なことに、客席はどこもそれぞれで盛り上がっており、店員であるエリスを必要としている席は一つもなかった。
逃げる口実を見つけられなかったエリスは、もう一つ深いため息を吐き、仕方なく少しだけ話に付き合うことにした。
「とりあえず、もうちょっとはっきりした質問にしてください。一般的な吸血鬼に関するお話が聞きたいんですか? それとも…」
そこで一旦区切り、声のトーンを落として先を続ける。
「…最近町で噂の吸血鬼事件について聞きたいんですか?」
「両方だよ」
答える男の目に剣呑な光が宿る。
エリスは本能的に厄介事の気配を感じ取りつつ、外見上は平静を保っていた。
「吸血鬼ねぇ……。夜の王、不死の怪物、人の血を吸う魔物。人間にとって脅威とされる存在の中でも、5本の指に数えられるもの。おとぎ話とかでも有名な魔物、ですね」
「そう、伝説の化け物だな。ちなみに今5本の指と言ったが、他は何だ?」
「そこは人によって意見が分かれるみたいですよ。船を使って交易をしてる人なんかは、一番怖いのクラーケンだって言うし。けどほとんどの場合、共通して挙げられるのが吸血鬼と…」
「ドラゴン、だな」
「…なんて、子供でも知ってるような話ですよ」
「だろうな。なら、その脅威ってのはどの程度のもんなんだ?」
「それこそ、わかるわけないじゃないですか。見たことがあるわけじゃないですし」
「何だ、呑気な話だな」
「え?」
「この町には今、その吸血鬼がいるんだろう?」
思わず、ドキッとした。
内心の動揺を隠しつつ、エリスはごく普通の反応をしようと努める。
「ただの、噂ですよ?」
「火のないところに煙は立たんだろう。そんな人間にとって最大の脅威の一つが間近にいるってのに、それがどの程度の脅威なのかさえ理解してないってのは、呑気としか言いようがないだろう」
「…仕方ないですよ。わたし達普通の人にとっては、そんな魔物なんて、物語の中とか、ずっと遠い世界の存在なんですから」
それが当たり前。
何百年か前までは、魔物が人の生活圏を頻繁に侵していたと伝えられているが、今では人の脅威となる魔物など、辺境の地まで行かなくてはお目にかかれない。治安が整った国の内部地方に位置するこの町でそんな魔物と遭遇するなど有り得ないのだ。現にそんな話は、百年以上もの間記録されていない。
だから今回の吸血鬼の噂も、町の人々はただの噂として、ほとんど気にかけていないのが実情だった。
「吸血鬼とかドラゴンとか、一生出会うことなんてありませんよ」
「俺はあるぜ」
「え?」
何度も意表をつかれてきた男の言葉に、今度こそエリスは唖然とさせられた。
「ドラゴンとなら、俺は会ったことがある。ついでに、倒してきた」
開いた口が塞がらないとはこのことか。
しばらくの間は、エリスは男の言葉が理解できずに立ち尽くしていた。
何故なら男の目が、あまりに本気で、嘘を語っているように見えなかったから。
「………」
たっぷり時間をかけて、エリスは思い切り息を吐き出した。
そしてここがどこだかを思い出し、呆れ顔をする。
「お客さん、大分お酒が入ってるみたいですね?」
テーブルの上には、既に酒瓶が10本以上転がっている。
まだ陽が高い内から居座っている男は、ずっとここで飲み続けていた。
「酔っ払いの与太話だと思ったか?」
「ええ」
ここは冒険者や交易商人が多数訪れ、様々な情報が飛び交う町の酒場である。
特に冒険者には、自分の武勇伝を嘘か真かわからないほどに誇張して語る者が多く、いちいち真に受けてなどいられない。
ドラゴンを倒したなどと語る人物はさすがにはじめてだったが、これもよくある誇張話の一つとして処理することにした。
折りよく、別の席で酒が切れたという声が聞こえる。
「わたし、もう行きますね。あまり飲み過ぎないよう注意してくださいね、ドラゴンキラーさん」
「豹雨だ。なかなか楽しく話せたよ。吸血鬼については、また今度語り合おうか、嬢ちゃん」
「はいはい」
適当にあしらいつつ、エリスは豹雨と名乗った男の席を離れた。
勤務時間を追えて店を辞したところで、エリスは先ほどの豹雨という男との会話を思い出し、最後まで平静に話せていたことにホッとした。
(はぁ…びっくりした。まさかあんなピンポイントな質問をされるとは思ってなかったからなぁ…)
「吸血鬼を知っているか?」などと、その問いを最初に投げかけられた時は、内心のドキドキを隠すのに必死だった。
あの豹雨という男が只者ではないことはエリスにもわかっていた。
この酒場で働くようになって一年、様々な人間を見てきてからこそ、そうしたことがわかるようになった。
眼光の鋭さや、身のこなしなど、一見するとわからない程度だが、明らかに他の人間とは違っていた。
さすがにドラゴンを倒したなどという話を信じはしないが、ああした実力者はえてして勘も優れているものだ。見透かされたりしないか、ずっと警戒しながら話していた。
(だって、ねぇ……)
その吸血鬼を、実は知っていますなどと、どうして言うことが出来よう。
何故そんなことになっているのか、その事実に暗澹とした気分になりつつ歩いていると、どこからか声をかけられた。
「あ、エリスだ。おーい」
「む」
声の主は聞いただけですぐにわかった。ただ問題は聞こえた方向だった。
その声は、遥か頭上からかけられたものだった。
見上げると、大きな街路樹の枝に見知った顔を見つけた。
「アンジェ…」
木の枝に腰掛けている少女は、アンジェリーナ・マーティン。エリスの幼馴染であり、特に親しい友人である。
「何してるのよ?」
「いい眺めだよー。エリスも来る?」
「それはいいけど、そんな場所にいる理由が知りたいんだけど」
「あのねー、猫さんがいたの」
「あー…つまりいつもの、猫を助けたつもりが自分が降りられなくなった、って状態なわけね」
彼女にとってはよくある話だった。
アンジェリーナは一見大人しいよう見えて実は行動派で、困っている人を見るとすぐに助け、気になるものを見つけると後先考えずに突撃する、そんな少女であり、エリスはいつもそれに振り回されている。主に無茶をした彼女をフォローする役割として。
「ううん、猫さんは普通にお昼寝してただけ」
「ん? じゃあ何であなたはそこにいるのよ?」
「気持ち良さそうだったから、一緒したいなー、って思って」
「ああ、そう…。で、その猫はどこに?」
「お腹空いたんじゃないかな? ご飯の時間になったら帰って行ったよ」
「それは良かったわね。じゃ、わたしもお腹空いたから帰るわ」
「あー、待って待って」
歩き出そうとしたエリスを、アンジェリーナはのんびりした口調で再度呼び止める。
エリスは呆れ顔でもう一度頭上を振り仰ぐ。
「何?」
言いたいことはわかっているが、あえて尋ねる。
「さっき言ってたの、後半は正解。降りられないの。エリス、助けて」
「はぁ。結局いつも通りじゃないの」
特別運動神経がいいわけでもなく、むしろあまり身体は丈夫ではない方だというのにこうした無茶を常にするのがアンジェリーナであり、それを助けるのがエリスの昔からの役割だった。
彼女のことは親友だと思っている。
だからその役割は好きでやっていることには違いないのだが、それでも少しは無茶な行動は控えてもらいたいというのも正直なところだった。
「今行くから、じっとしてなさいよ」
「はーい」
それにしてもと、エリスは傍らの木を見渡す。
(よく登ったわね…)
木の高さは10メートル余りあり、アンジェリーナは半ばよりも上の辺りにいる。
登る技術だけならば、小さい頃からの仲間内ではエリスに次いで2番目が彼女だった。ただし、降りる技術が伴っていない。
それでも登ってしまう行動力には呆れる他なかった。
何にせよ、いつまでも放っておくわけにはいかない。うっかり落ちられたりしては困る。
エリスは小さく深呼吸をし、精神を集中する。
このくらいの木は普通のままでも登ることはできるが、手早くアンジェリーナを連れて降りてくるには、『力』を使った方が確実だった。
(そう…アンジェがどれだけ無茶しても、わたしにはそれを助けられる『力』がある)
それはかつて、幼い頃に手に入れた魔石によって得たもの。
あの時手の中で消滅したかに思えた石は、身体の中に溶け込み、エリスの意思によってその力を顕現させる。
最も初歩的なのが、身体能力の強化だった。
身体の中心に熱が生まれ、それが全身に広がっていく。
『力』が満ちたことを感じたエリスは、木の半ばにある太めの枝目掛けて地面を踏み切る。常人ならば届かないような高さまで、エリスは軽々と跳び上がった。
そこからあまり木を揺らさないように、いくつかの枝を経由して登っていく。
アンジェリーナのところまで辿り着くのに、10秒もかからなかった。
「えへへ、いらっしゃい、エリス」
「はいはい、来たわよ」
「ほら見て、綺麗な眺め」
「…まぁ、確かにね」
促されて見た先では、太陽がちょうど地平線の向こうに沈みかけているところだった。下からでは、もう太陽は見えなかった。
赤く染まった地平と、徐々に暗くなっていく空。昼と夜の境目。
一見の価値はある眺めには違いなかった。
「ほら、もういいからさっさと降りるわよ」
「うん」
エリスが手を差し出し、アンジェリーナがそれを取った。
掴んだ手を引きながら足下の枝を蹴る。
空中でアンジェリーナの身体を抱き寄せて、エリスは一息に地面まで降りた。
二人分の体重があるにも関わらず、着地は非常に柔らかだった。
こうした芸当も、『力』によって強化された身体能力と、小さい頃から同じことを繰り返してきたことによって得た技術の賜物である。
「~~♪」
「……」
ご満悦の様子でエリスの首に手を回し、所謂お姫様抱っこをされているアンジェリーナを見やり、エリスはそのまま手を離した。
当然重力に従い、アンジェリーナはお尻から地面に落ちた。
「痛っ、うー…エリスひどい…」
「ひどいものですか。あなた、わたしが通りかからなかったらどうするつもりだったのよ?」
「えー、でもエリスは来てくれたよ?」
「偶々でしょう」
「んー……でも大丈夫。エリスはいつだって、私を助けてくれたもの。ね」
満面の笑みで述べるアンジェリーナを見てエリスは思う。少し甘やかし過ぎているだろうかと。
けれど不思議なことに、本当にいつでもエリスは、アンジェリーナが危ない時はその場にいて、彼女を助けてきた。
それは時にエリスが持つ『力』による危険察知能力や、人の気配を探る能力があったからこそ成し得たものであり、またある時は今日のように完全な偶然でもあった。
そもそもエリスの助けが無くても、アンジェリーナはいくら無茶をしても怪我をしたことすらほとんどない。きっと幸運の女神に愛されているのだと、周りでは囁かれていた。
けれど見ている側としては心配になるのだ。
いつかその無茶が、助けが及ばない範囲にまで至ってしまうのではないかと。
「いつも言ってるけど、無茶は控えなさい。わたしだって、何でもかんでも助けてあげられるとは限らないんだから」
特に今は、大きな懸念が一つあった。
「それと、遅い時間の外出はやめなさい。最近物騒なんだから」
「物騒?」
「吸血鬼の噂、アンジェだって知ってるでしょ。吸血鬼なんていないとは思うけど、それっぽい事件は起こってるみたいだし」
「あー、そっかー、吸血鬼かー………」
顎に指を当てて何事か思案するアンジェリーナに、エリスは目を細めて詰め寄る。
「まさか、吸血鬼が見てみたい、とか言い出したりしないでしょうね?」
「え?」
不思議そうな顔で首を傾げる。
その疑問符が、どうしてそんな当然の質問をするのか、という意味を持っていることを、エリスはわかっていた。
「アンジェ」
「やだなー、エリス。冗談だってば」
低い声で呼びかけると、アンジェリーナは顔の前で両手で振ってみせる。
「さすがの私も吸血鬼は怖いよ。ちゃんと言うとおりにする」
「そうして。吸血鬼なんてもの相手じゃ、いつもの『助けて』は通用しないわよ」
「うん。でも…」
まったく悪びれた様子もなく、アンジェリーナは笑って言う。
「万が一そんなことになっても、やっぱりきっとエリスが助けてくれるよ」
「そんなことにならない努力をしてちょうだ、お願いだから」
こんなやり取りも、もう10年近く続けてきたものだ。それだけ二人の絆は強い。
だからこそ思うのだ。
本当に今は、無茶は控えてもらいたいと。
何故なら今この町には本当に――
吸血鬼がいるのだから。




