第17話 深夜のひと時
キスをされた。
今日会ったばかりというか、気を失っていたためまだ言葉すら一言も交わしていない相手にである。
どこぞの馬鹿姫にも唇を――無理やりではあったが――許したのは会ってそこそこ時間が経ってからだったというのに。
(まぁ、出逢ったその日には血を吸われたけど…)
この辺りはどうも、キスと血を吸う行為のどちらが強い意味を持っているかという点に関して、人間と吸血鬼の間で意識の相違があるようだが、とりあえずそんな話は今はいい。
とにかく初対面の、まだ名前も知らない少女が、深夜にベッドの中に潜り込んできて、エリスにキスをした。
それも唇と唇が触れ合うだけのものではなく、舌まで入れてきた。
「ん!? んむーーーーー」
未知の感触にエリスは慌てた。
(ちょ、ちょ、ちょっと待って! いや待って、まず落ち着けわたし! 何この状況!?)
動転してしまい、逃れようとすることさえ忘れてしまっていた。
覆いかぶさっている相手の体を押しのけてしまえばいいだけのことなのに、そのことに考えが行き着かない。
落ち着けと自分に言い聞かせているのに、頭はどんどん混乱の度合いを増していく。
他人の身体の一部が自分の体内に潜り込んでいる。
異物が侵入してくる感触。
唾液が混ざり合う。
吸われる。
気持ちが悪い。
気持ちが良い。
なるほどこの感覚は血を吸われる時のものに少し似ていると、変に冷静な部分で考えている。
彼女にされるのとどちらが良いだろうか。
(あー…やばい、こんなこと考え出したらわたしおしまいだ…)
もはや自分でも何を考えているのかわからない。
思考が支離滅裂だった。
意識まで飛んでしまいそうだ。
もうどうにでもなれと投げやりな心境に陥りかけていたエリスの意識を現実に戻したのは、ガラスの破砕音だった。
「こぉらぁぁぁーーーーー!!! 私のエリスに何してるのよーーーーー!!!!?」
そして絶叫。
窓ガラスを突き破って室内に入ってきたレティシアが真っ赤な顔をして叫んでいた。
「ふ…ふふ、ふっふっふっふっふ」
興奮していたかと思うと、一転怜悧な表情で仁王立ちになって笑い出す。
「いい度胸ね、そこの魔女。私のエリスに手を出しておいてただで済むとは思っていないでしょうね。第一、舌まで入れるなんて私だってまだなのに羨ましい!」
凄んでいるつもりなのだろうが、後半の台詞のせいでぶち壊しだった。
一気に熱が冷めたエリスは、やんわりと少女の身を押しのけ、ベッド脇の小テーブルを掴む。
「その場所私と代わりなさもがっ!」
詰め寄ってくるレティシアの顔面目掛けて、それを思い切り投げつけた。
「窓を壊すな、馬鹿」
そんなやり取りをしている間も、騒ぎの発端たる少女はしれっとしたもので、何事も無かったかのような様子でベッド脇へ移動してそこに腰掛ける。
少女は何かを確かめるような仕草で自身の唇と舌を指でなぞる。
どことなく眠そうなぼんやりとした目で唾液に濡れた指を眺めながら、気だるげな声を発した。
「……余計な心配なんかしなくても、吸血鬼、その女個人に興味などないわ」
エリス達の聞いた少女の第一声がそれだった。
ディープキスまでされておいて興味無しなどと言われて、さしものエリスも少しだけカチンときた。
「ディープキスまでしておいて興味無いとは何よ!?」
口には出さなかったエリスに代わって、レティシアが同じ内心を叫んでいた。テーブルの一撃を受けた顔は、さっきとは別の理由で真っ赤に染まっている。
レティシアの方が熱くなっているおかげで、エリスは逆に冷静な思考を取り戻すことが出来た。
そこで少女がレティシアのことを「吸血鬼」と呼んだことに気付いた。少女がこれまで見聞きしたレティシアの言動に、彼女を吸血鬼だと断定する要素はなかったはずだった。
目配せでレティシアに確かめると、さすがに熱くなっていてもそうしたことを察する能力はしっかりしており、エリスの意図を理解したレティシアが首を振って否定をする。レティシア自身も、正体を悟られるような言動はしていないと思っている。
では、空で遭遇したという時に気付いていたということか。
「……妙な輩に拾われたと思ったけど、魔石持ちに会えるとは僥倖だわ。興味深い」
続けて驚かされた。
レティシアでさえ出逢ったばかりの時には気付かず、一日以上を共に過ごしてからわかったと言っていたのに、この少女は初対面でエリスが宿している魔石の存在を感知したらしい。
見れば、レティシアの目の色が少し変わっていた。
はじめて会った時の、妖しさを感じさせる“吸血姫”の目だ。
「ふぅん、伊達に魔女やってないってわけね。エリスの魔石にすぐ気付くなんて」
「……魔道に関してはこちらが専門よ。まして魔石は、私達にとって最大の研究対象ですもの」
「そう。で、それが私のエリスの唇を奪うことにどう繋がるのかしら」
「私のとか言うな」
「……唾液を採取していたのよ。血液を採るよりも手早く済んで、効率的だわ」
「唾液って…」
そんなもののために唇を奪われたのかと、エリスはがっくりした。しかも舌まで入れられて。
ファーストキスもそこにいる馬鹿吸血鬼に無理矢理持っていかれて多少なりともショックだったが、今回のこれもなかなか堪えた。乙女の唇とはそんなに安いものなのか。というよりも吸血鬼やら魔女やらいう人種にとってキスとは大して価値のないものなのだろうか。
(あー…吸血鬼は人種じゃないか。もう何でもいいけど…)
落ち込んでいるエリスには見向きもせず、少女はどこからか取り出したガラスの小瓶に指先を押し入れている。どうやら、エリスの口から吸い取った唾液を入れているらしい。
「ねぇ、それ何に使うの?」
「……あなたの生態や魔力の質を見るために使うわ」
「生態って…なんかもう動物扱いだなぁ」
「……人間も立派な動物よ」
「そうかもしれないけど。そもそもそういうことなら、あんなやり方しなくても、言ってくれれば唾液くらい普通にあげるのに」
「……そうなの?」
「まぁ…少しなら」
「……そう。なら、次からそうするわ」
「次、あるんだ…」
こうして言葉を交わしている間も、少女はずっと俯いたままでエリスと目を合わせようとしない。
紫の髪に、翠の瞳がいずれも綺麗で、顔立ちも整っている美しい少女だが、少し暗い印象があった。
「根暗な奴ね」
エリスが心の中で控えめな表現をしている横で、レティシアがまったく遠慮しない言葉を投げかけている。
ベッドを飛び越えて少女の前に立ったレティシアは、身を屈めて少女の顔を覗き込む。
「んー?」
「………」
少女の方は無反応。
だがそのことを気にした素振りはなく、レティシアは何かに得心がいったようににんまりと笑った。
「へぇ、結構強い魔力持ってるからどれだけ齢を重ねた魔女かと思ったら、随分若いわね。五十年…いってないか。ひよっこじゃない」
「……そういうあなたもせいぜい百年そこそこ。千年を生きる吸血鬼としては小娘ね」
「ヴァンパイアは生まれた時から成人よ。それに寿命だってあってないようなもの。二百年程度しか生きない奴もいれば、五千年以上生きてる長老もいるわ」
そうなのか、初耳だった、とエリス。吸血鬼の特徴に関しては色々とレティシアから聞いていたが、まだまだ知らないことも多い。
しかし二人ともよく見ただけで相手の年齢がわかるものである。人間の観点から見れば、どちらもエリスと同じ十代の少女にしか見えない。
それはそうとこの少女、自分の方からはほとんど話しかけてこない上に、この場にいるエリスにもレティシアにもまるで眼中にないようでいて、話しかけたことに対してはしっかりと応えている。
このまま微妙な距離感でいるよりも、エリスは少しだけ踏み込んでみることにした。
「ところであなた、名前は?」
「……その質問に意味はあるのかしら。第一、人に名前を問うなら自分から名乗るものではなくて?」
「偉そうな奴ねぇ、生意気だこと」
「あなたが言ってもね…わたしはエリス。エリス・ブランシェよ。何でか魔石なんてものを持ってはいるけど、あとはわりと普通の人間よ」
「……ヴィオレーヌ・ノエ。見ての通り、魔女よ」
見ただけでわかるのはレティシアだけだが、とにかくまずは名前を聞き出せた。これでまったく知らない仲でも無くなった。少しは距離を縮めるきっかけにはなるだろう。
「あなたも名乗ったら?」
「えー」
「無理にとは言わないけど、あんまり人の家でピリピリした空気を撒かないでほしいのよね。これ以上物が壊れるのも困るし」
ちらっと後ろの方へ目配せすると、レティシアはバツが悪そうに目を逸らす。窓を突き破ったことを少しは反省しているようだ。
「はぁ~……レティシア・ブランシュタインよ。敬意を込めて姫と呼ぶなら、これまでの無礼は見逃してやってもいいわよ? あ、ただしエリスとのキスのこと以外ね」
「何で上から目線なのよ。まぁ、いつものことかもしれないけど」
「……ブランシュタイン? あなたが?」
少女、ヴィオレーヌがはじめて俯かせていた顔を上げてレティシアのことを見た。
表情は相変わらずぼんやりとした感じで変わりないが、まるで眼中に入っていなかったさっきまでと違い、多少興味を持った様子だった。
「……噂の麒麟児?」
「何かそんな風に呼ばれてるらしいわね。私も最近知ったけど」
「……ふぅん」
じっと観察するようにレティシアの顔を見るヴィオレーヌ。
レティシアの方も顔を寄せて相手のことを覗き込んでいる格好なので、二人は間近で見詰め合う形になっている。
先に目を逸らしたら負けとでも思っているのか、しばらくその格好のまま動かない二人。
そう思っていたら、ヴィオレーヌの方が先に動いた。前に向かって――。
「ん」
「!!?」
「あ…」
傍で見ていたエリスも思わず声を漏らす。
顔を寄せたヴィオレーヌがレティシアにキスをしたのだ。
しかもエリスの時同様、舌まで差し入れている。
「…ちゅ……あむ…じゅる……」
「ん? んん? んんんんん???」
呆然としているのか、レティシアはされるがままになっていた。
たっぷり唇から口の中まで吸い上げたヴィオレーヌは顔を離すと、懐から新しい小瓶を取り出して、先ほどと同じように指で口内の唾液を掬って瓶の中に入れていった。
固まっているレティシアからは早くも興味を失ったように、二本の瓶の様子を見比べながら、丁寧にそれらを懐にしまう。
「……昨夜から最悪な気分だったけど、いいサンプルが手に入ったから差し引きゼロかしらね」
ぼそぼそと呟きながら腰掛けていたベッド脇から立ち上がると、エリス達には一瞥もくれずに部屋から出て行った。
「………」
「………」
残された二人は黙ってその背中を見送る。正直どう反応すればいいのかわからなかった。
レティシアに至っては未だに固まっている。
エリスは呆れた顔でその姿を見た。
「レティシアって、実は不意打ちに弱いの?」
「………ううん」
ところが返事をしたレティシアの口調は、わりといつも通りでショックを受けてる感じとは違っていた。
「ただ、今のエリスと間接キスだな~、って余韻を噛み締めてただけ」
完全にいつも通りだった。
「馬鹿じゃないの」
「ひどいなー。まぁ、しかし、浮世離れした子ね。魔女なんてあんなものかもしれないけど」
「ある意味あなた以上に傍若無人だったわね」
「あら、私が本気を出したらあんなものじゃないわよ? エリスの前だから遠慮してるだ・け」
「張り合うんじゃないわよ。それにしても、やっぱり思った通りかな…」
「ん、何が?」
「アンジェが連れて来た子だけあって、厄介事そのものだったな、って」
「あはは、そうかもね」
部屋からは出て行ったヴィオレーヌだったが、家の外には行っていない。寝かせておいた部屋に戻ったようだった。
どうやらまだ居座っていそうなので、この後も何事か起こりそうな気がした。
とはいえ今は深夜で、夜明けまでは大分時間がある。
もう一眠りして、朝になってからその後のことは考えようと思った。
「ね、ね、エリス」
「何よ?」
「……何で返事と同時に剣が出てくるの?」
名前を呼びながら擦り寄ってきたレティシアの鼻先には、エリスが取り出した剣の切っ先が向けられていた。
「不意打ちはもういらないわよ」
「い、いやだな~…私がそんないつもいつも…」
「するなら、ちゃんと断ってからにしなさい」
「およ?」
「それと、先に窓直して。これじゃ、寒くて寝られないわ」
「おー…お安い御用よ。じゃあ、その後は、いい?」
「それまで起きてたらね」
エリスは言い終わると、さっさと横になってシーツを被った。
「よしきた! 超特急で直すわよ!」
喜々とした調子で窓に駆け寄っていくレティシア。
どんな手段で直すつもりなのか知らないが、色々とおかしな魔法や能力を持っている彼女のことである、何とかするのだろう。
実際その通りで、ものの5分もしない内に作業を終えたレティシアがベッドに潜り込んできて、そのまま朝まで一緒に寝た。