第13話 吸血鬼のいる日常
疲労と貧血でぐったりしているエリスは、レティシアに肩を借りながら戦闘のあった場所から離れた。
その途中、微かに感じ取れていたテオドールの気配が完全に消え去り、同時に一人の女性が現れた。
「フェリエさん?」
ユリウスや殺された神父と共に町へやってきた教会の人間のもう一人、フェリエ・ホーリーだった。
「ブランシェ卿があの者を葬ったようです。これにてこの一件は解決となります。後のことはこちらで処理致します」
「ん、ご苦労さまー」
「?」
事務的な報告をするフェリエと、それを当たり前のように受けて返事をするレティシア。
猛烈な違和感を覚えるエリスの顔に疑問符が浮かぶ。
「え? なに? 今のやりとり」
「後始末はあの子がしてくれるって話。私達は家帰って寝よっかー」
「いやそうじゃなくて! 何で兄さんの仕事仲間の人とレティシアがそんな話をしてるのかって!」
「あー、それはねー」
「私もヴァンパイアだからですよ、エリス様」
「は?」
告げられた言葉にエリスの表情が固まる。
疲れで脳の働きも鈍っているのか、事実を認識するまでにかなりの時間がかかった。
事を理解すると、今度はまた別の疑問が沸き上がってくる。
目の前の女性がヴァンパイア、吸血鬼であるという衝撃の事実。そしてそんな人物が魔物退治を行っている組織である教会に属しているという謎。
そもそも吸血鬼など、おとぎ話の中の存在であったはずだというのに、この短い期間に出会ったのがこれで3人目ということになる。
普段のエリスであったならば、叫ぶような勢いで二人を問い詰めていたことだろう。
だが今は疲れていた。
正直今すぐにでも寝てしまいたい。
なので、ここはもうそういうものであると納得することにした。
「あー…そうなんだ…」
「? あまり驚かれないのですね」
「いや、驚いてるんだけど、正直もう考えるのも面倒くさいというか…」
「そうですか。無理もありませんね。はじめての実戦であれだけのことをなされれば」
「そうだ、一つだけ」
「はい?」
「兄さんにはわたしのこと黙ってて。余計な心配かけたくないから」
「かしこまりました。ご心配には及びません。ブランシェ卿…ユリウス様は物事を深く考えないお方ですから、私が上手く事後処理をすれば、細かいことは気になさりません」
「…それはそれで、なんか兄さん馬鹿っぽい…」
「真っ直ぐな方なのですよ。その辺り、ご兄妹でよく似てらっしゃいます」
「馬鹿兄妹かー…それはそれで、まぁいいかー…」
そろそろ自分が何を口走っているのかもよくわからなくなってきた。
張り詰めていた糸が切れたのだろう。急激に眠気が強くなってくる。
「エリス。眠いなら眠っちゃいなよ。ちゃんと家まで運んであげるから」
「んー……ごめん、おねがい………」
「うん、おつかれさま」
そこでエリスの意識は途切れた。
「申し訳ありませんでした、レティシア姫」
エリスが眠りに落ちると、フェリエが深々と頭を下げる。
「グラツィアーノ神父のことは私の不手際でした。単独行動は控えていただくようお願いしてはいたのですが…」
「ああ、いいっていいって。結果オーライよ。気に病むことはないわ」
レティシアはエリスをお姫様抱っこの格好で抱きかかえながら、謝るフェリエに向かってひらひらと手を振ってみせる。
「目撃者もいないでしょう?」
「はい。人払いは滞りなく」
「うん。ま、神父さんはお気の毒ではあったけど」
「殉教は、戦いの場に赴く以上、皆覚悟していることです」
「そう。なら、いいけど。大体今回の件は私の不始末が原因なんだし、こっちこそ悪かったわね、手を煩わせて」
「とんでもございません。こうした事態に備えて、我らがいるのですから」
「あはは、まさか私達の仲間が教会まで含めた人間社会のあちこちに紛れ込んでるなんて、人間達は夢にも思わないでしょうね~」
「全ては無駄な争いを避けるため。だというのにあの男、テオドールのような者が…」
「ああいうのが出てくるのも、王族の不徳の致すところかねー」
「そのようなことは」
「何にしてもこれにて一件落着。後のことは上手くやっておいてくれると助かるわ」
「…承知致しました」
「それよりもさ」
「はい?」
唐突にレティシアが真剣な顔をしたので、思わずフェリエは身を強張らせる。
同じヴァンパイアと言えども、フェリエの力はテオドールにさえ遠く及ばず、レティシアと比べればまさに天と地ほどの差がある。王族であるレティシアの機嫌一つで、フェリエの命など簡単に消し飛ぶのだ。
神父の件では咎められることはなかったが、何か落ち度があったかと緊張しながら続く言葉を待った。
レティシアは細めた目を自身の手元に向ける。
「……エリスの寝顔がめちゃくちゃかわいいんだけど。これ、襲っちゃったらダメかな?」
「…………」
まどろみの中、エリスは夢を見ていた。
もう何年も前のこと。一人の少女が川の真ん中で途方に暮れていた。
少女の腕には、ずぶ濡れになった子犬が抱えられている。おそらく川で溺れていた子犬を助けようとして川に飛び込み、どうにか近くの岩に上がったはいいものの、岸まで戻れずにいるといったところであろう。
困ったような顔をしながら、少女は震えている子犬をぎゅっと抱き締めている。
真冬ではないとはいえ、水はそれなりに冷たい季節だった。少女自身も濡れており、凍えそうなほど寒いであろうに、自分よりも子犬のことを気にかけている様子だった。
そんな一人と一匹の前に、もう一人の少女がやってきた。
「無茶する子ね、あなた」
「あなたは…?」
「わたしはエリス。あなたがアンジェリーナでしょう? よく無茶なことしてるって評判の」
エリスとアンジェリーナ、二人の出会いの記憶だった。
岸に戻り、火をおこして濡れた体を乾かすと、子犬は溺れかけていたことなど忘れたかのように元気に走り回っていた。アンジェリーナは焚き火に当たりながら、その様子を楽しげに見つめていた。
「よかった」
「よくないでしょ。わたしが来なかったら二人とも風邪引いてたところよ」
「平気だよ、風邪くらい」
「いいや、平気じゃない」
ぐいとエリスは顔を寄せてアンジェリーナに詰め寄る。
「わたし、ちょっと前まで体弱くてね、病気がちでなかなか家から出られなかったの。すごくつまらなくて、辛かったわ。だから風邪をなめちゃダメよ」
「そうだったんだ。でも、全然そんな風に見えない。さっきだって、私とあの子を抱えて川岸までぴょーんって」
「ふふん、まーね。ちょっと変わったの。今のわたしならあれくらいは朝飯前ね」
「すごいなぁ。それに比べて、私はダメダメかな」
明るかったアンジェリーナの表情に影が差す。
それを見てエリスは、町でのアンジェリーナに関する噂を思い出していた。
好奇心旺盛で、何にでもすぐに首を突っ込みたがる子。困っている人を見ると率先して助けようとする子。先ほどのように子犬や子猫を助けるのなど日常茶飯事だ。
けれど、あまりに活動的過ぎて、周りの子供達は時々ついていけないことがあるという。時にはそれが、子供の手には負えないような事態に発展することもあった。
いつも笑顔を絶やさず、人当たりも良いアンジェリーナを悪く言う者はほとんどいないが、それでも少し行き過ぎた行動力から、段々周りの子供達は距離を置くようになっていった。普通に遊んだりはするが、彼女の無茶に付き合うような子供は、誰もいなかった。
アンジェリーナ自身にそれを気にした素振りはないというが、やはり寂しいのだろう。今の表情がそれを物語っていた。
「そんなことないんじゃないかな」
だからエリスは、そんな彼女に手を差し伸べた。
「すごいと思うよ。大して泳げもしないのに子犬のために川に飛び込むなんて、他の人には真似できないもの」
「でも、結局私も助けられちゃったよ」
「いいじゃない、それで。助けてもらえば」
「え?」
「わたしは正直、あなたみたいには出来ないと思う。だけど、友達なら助けてあげられる」
「友達なら?」
「そう。あなたはあなたらしく、今までどおりにしてればいい。それで大変な目にあいそうになったら、わたしがあなたを助けてあげる」
「助けてくれる?」
「うん。だから、友達になろう、アンジェ」
「私、たぶん、ほんとに無茶しちゃうよ? 自分でもわかってるんだけど、止められなくて。だから、きっと、すごく大変になっちゃうよ…?」
「平気よ。だって今のわたしは、無敵で最強だからね!」
おずおずと差し出されたアンジェリーナの手を、エリスは強引に取って握り締めた。
「だからわたしの力がほしい時は、いつでも『助けて』って呼んで。絶対に助けてあげるから!」
あれは確か、魔石を手に入れて、その力を大分使えるようになった頃のことだった。あの時のエリスは、それまでの生活が嘘のように外を飛び回り、世界に触れて回っていた。本当に何でも思い通りになるような気分になっていたのだ。
両親が死んで、兄が家を出てからは自立する必要に迫られ、段々落ち着いていったが、それまでの何年かはアンジェリーナと二人でかなりやんちゃしていたものだった。
(無敵で最強って…なんてことかしら、これじゃわたしの方がアンジェを焚きつけてたみたい…)
いつでも助けるという約束も、そもそもはエリスの方から言い出したものだったことを今更思い出した。いつしかすっかり当たり前の関係になっていて、忘れていた。
その約束のために、今回はついに吸血鬼などという化け物と戦う羽目にまでなってしまった。
無茶苦茶な話である。
もっとも、後悔はしていない。
結果として今回も約束を果たせたとすれば、それで満足ではあった。
「………」
そういえば、あの男はきちんとアンジェリーナを家まで送り届けてくれたのだろうか。
隅に追いやっていた懸念が浮かび上がり、エリスはゆっくりと眠りから覚める。
「……何、してるの?」
目を開くと、間近にレティシアの顔があった。今にも密着しそうなほど近い。
「寝顔見てた。かわいいから」
「……ここは?」
「エリスの家」
確かに、自分のベッドの中だった。ついでに二人とも裸だった。
「…わたしの服は?」
「血と泥で汚れてたから脱がしたよ。寝てるエリスの服を脱がすのは興奮したなー、もう襲っちゃいたかった、今からでも襲っていい?」
「黙れヘンタイ」
まだ声を荒げるほどの元気は回復していないようだ。
外も暗いし、まだあれからそれほど時間は経っていないだろう。
「帰ってきた時ね、家の前に酒場にいた男と、アンジェリーナって女の子がいたよ」
「え?」
「上がってく? って聞いたら、エリスが無事なのがわかればいいって、すぐに帰って行ったわ。一応私の使い魔をこっそりつけておいたけど、ちゃんと自分の家まで帰り着いてたわ。あの男も、特に何も言わずに送って行ってた」
「使い魔?」
「これ」
指先を頭上に掲げてみせると、その先から真っ黒のコウモリの影が生まれ出た。レティシアの指を離れたそれは、室内をパタパタと飛び回り、窓の淵に止まって大人しくなった。
「力が回復したから、こんな真似も出来るの。これが使える状態だったら、あいつを見つけ出すのも苦労しなかったんだけどね~」
「そう、アンジェも無事か。よかった」
「あれー…もうちょっと反応してくれても…」
「あなた達のトンデモ能力に驚くのにはもう疲れたのよ」
「この程度は手品レベルなんだけどなー」
「そうでしょうね。あんなに化け物じみた力を持ってるくらいなんだから」
「んー、エリス、一つ誤解があると思うから言っておくけど。私やテオドールみたいなのは、ヴァンパイアの中でもほんの一部、全体の1%にも満たない少数派よ。例えばさっきの子、フェリエ・ホーリー。あの子を見て、エリスはどう思った?」
「どうって…普通の人と、全然見分けがつかなかったけど」
「でしょう。あの子は別に、私みたいに力を抑えてるわけじゃないわ。あれで素なのよ。つまり、大多数のヴァンパイアは、人間と大差ないくらいの力しか持っていないの」
「そうなの? だって、魔物の中でも最強の怪物の一つって…」
「ちょっと事情があってね。元々隠れ潜むことが得意な種族で、あまり他の種族に実態が知られていなかったのが私達ヴァンパイアだったのだけど、ある王が派手なことをやらかして以来、噂に尾ひれがつくように、気がついたら伝説の怪物なんて呼ばれるようになっちゃってたのよ。そのせいで、結構苦労もしてるわ」
「…ふぅん」
意外な事実だった。
吸血鬼と言えば、おとぎ話などで最も恐ろしい魔物として描かれている存在であり、子供の頃からそういうものだと信じてきた。それが実際には人間とほとんど変わらないものだと言われても、にわかには信じがたい。
もっとも目の前にいる少女は、戦っている時はとてつもない力の持ち主だったが、こうしていると確かに普通の人間と変わらないような気がする。
「じー」
「…何よ、じーっと見つめたりして。血でもほしいの?」
「うん、めちゃくちゃほしい」
訂正、人間の変態とあまり変わらない。
「でもさすがに今はやめておく。これ以上はエリスの身体にほんとに悪いわ。だから、元気になったらまたお願いする」
「あっそう」
そして優しい。
認めたくはないが、彼女は本当に常にエリスのことを第一に考えて行動する。エリスが望まないこと、エリスにとってよくないことは避ける。エリスが望むこと、エリスのためになることをしようとする。
先までの戦いにしてもそうだ。本来ならば、エリスの血をもっと限界ぎりぎりまで吸っていれば、レティシア一人でも勝てたはずだった。けれどレティシアは、エリスと共に戦う道を選んだ。本心ではエリスも、戦いたいと思っていたから。
今もそうだ。
目が覚めた時から気付いていたが、シーツの下で、レティシアはずっとエリスの手を握っている。
こうして一緒のベッドに寝ているのも、いやらしい気持ちからでは、ないとは言い切れないが、たぶん、おそらくそうした面は一部でしかないと思われるが、とにかくこうして傍に寄り添っているのもエリスのために違いなかった。
「手…」
「……」
「手の震えが、止まらないのよ」
起きた時からずっと、或いは、眠っていた時から。
「はじめて、人を斬ったわ」
「うん」
剣を手にしていれば、いつか命のやり取りをする時が来るだろうとは漠然と思っていた。
自らの命を狙われ、相手の命を奪う必要に迫られる。そんな戦いにいつか直面するかもしれないと、覚悟はしていたつもりだった。
けれど、いざそれを体験すると、思う通りにはいかないものだった。
「情けないな、こんなにガタガタ震えて」
「はじめてであれだけ出来れば上等よ」
「でも…」
「命を奪う行為に、心の揺れない奴なんていないわ。いるとしたらそいつは、最初から狂ってる」
「斬ったこと…殺したことに罪悪感を覚えてるわけじゃないの。そうしなかったらアンジェやわたし自身が殺されていたかもしれないんだから」
「自己の防衛は、生物の本能よ。誰にも責められはしない」
「わかってる。わたしは、自分の意思で、他者の命を奪った。納得づくの、ことなのに…とても、胸が痛いわ…」
震えが一層強くなる。
その手をレティシアは両手でそっと包み込み、自身の胸元へと引き寄せた。
手が相手の胸に触れると、心臓の鼓動を感じた。
本当に姿かたちだけでなく、人間と同じ身体の造りをしているのだと納得させられる感触だった。
「ありがとう」
「…何がよ?」
「私達の命を、あなた達のものと同列に扱ってくれて。ヴァンパイア…吸血鬼なんて、あなた達からすれば得体の知れない魔物でしかないのに。そんなものの命を奪ったことを、人の命を奪ったのと同じように感じてくれて」
エリスの両手を優しく包み込んだまま、レティシアは囁くように語る。
「テオドールは、死という報いを受けて然るべき男だったけれど、エリスがあいつの死を生き物の死として受け止めてくれていること。私達ヴァンパイアを、人間に等しいものとして扱ってくれていることを、とても嬉しく思うわ」
「……今更じゃない」
「そうかな?」
「あなた達が人間と変わらないことなんて、あなたをずっと見てれば、わかるわよ」
出逢ってからまだほんの数日に過ぎないが、その間一緒に過ごしてきて、彼女の良いところも悪いところも等しく見てきた。
昼間はずっとだらだらしていて、夜になると活発になり、仕事から帰ってきて疲れているところにうっとうしいくらいにじゃれついてくる。寝る時間が近くなるとますますひどくなり、度々ベッドに潜り込んで来ては血をねだり、突き放すと拗ねてみたりいじけてみたり、受け入れると嬉しそうに寄って来て、それでいて最後の一線で少しだけ遠慮する素振りで焦らせてくる。血を吸った後には、自分だって赤くなっているくせに人の様子ばかりを指摘してからかってくる。
そこにいたのは、夜の王と呼ばれる伝説の怪物でも得体の知れない魔物でもない。
わがままで、飄々としているようでいて意外と照れ屋で、時に怖い表情も見せるけれど、本当はとても優しい、夜のお姫様だった。
「………」
「………」
きょとんとしているレティシアを、エリスはじっと見つめていた。
吸血鬼だろうと人間だろうと関係ない。エリスにとって彼女は、レティシア・ベルンシュタインという一個の存在であって、それ以上でも以下でもない。そしてそれは、彼女の同類に対しても同じだった。
無言のまましばらく見詰め合っていると、ふっとレティシアが顔を寄せた。
ほとんど密着状態に近かったのだ。そこからさらに顔を寄せたのだから当然の結果として――。
チュッ
またやられた。
「んん…っ!」
「んむ……」
前の時は一瞬触れただけだったが、今度のは長い。
10秒近く吸われてから、やっと離れた。
「ぷはっ……なっ、なっ…」
「ふぅ。ごめん、さっきのキュンてなった。で、ムラムラしてやった」
清々しい笑顔でそんなことをのたまった。
エリスはカーッと顔を紅潮させ、ついに声を荒げた。
「なぁっ…だから! 何でキ、キスはいつも唐突なのよ!? しかもこれで2度目…」
「あ、ごめん、3度目」
「はぁ!?」
「家まで運んでくる途中でもムラムラして、堪えきれなくなってもらっちゃった」
「~~~~~~~~~!!!! このバカッ! ヘンタイッ! キス魔! 吸血鬼! もう知らないっ! 寝るから! おやすみっ!!」
ガバッとシーツの中に顔を潜り込ませる。
目を瞑ると、眠気はすぐにやってきた。まだまだ身体は休息を欲していた。
「おやすみ、エリス」
あんなことをした直後だというのに、囁きかける声はやはりとても優しくて、安心させられる。散々心を掻き乱すくせに、落ち着かせてもくれる。本当に腹立たしいと思った。
けれど、手の震えは、もう止まっていた。
きっと今度は、朝までぐっすり眠れることだろう。
翌朝――というよりもカーテンの隙間から差し込む日差しの感じからしてもうお昼頃であろう――エリスが目覚めると部屋の外、リビングの方から談笑する声が聞こえてきた。
隣を見ると、そこで寝ていたはずのレティシアの姿はない。
つまり誰か来客があって、レティシアがそれに応対しているということであろう。
(…それは、まずいんじゃないかなぁ…)
寝起きでまだ頭が上手く働かない。
ベッドから起き出したエリスは、若干ふらつく足取りでクローゼットに歩み寄り、部屋着を取り出して着ると、声のする方へと向かった。
来客は確かにあったようだ。
しかも姿を確認せずとも、近付いた時点で聞こえた声だけで相手はわかった。
(アンジェか…そういえばレティシアとは昨夜でもう面識あるんだっけ。なら、いっか)
とりあえず無事な姿を自分の目で確認しておこうと、リビングに入ると――。
「あ、エリス。お邪魔してまーす」
「あら、おはよう。もう起きて大丈夫?」
当たり前の挨拶。
「……何してる?」
問題は、二人の状態だった。
レティシアとアンジェリーナは共にソファの上にいる。背もたれと手すりの中間辺りに半ば寝そべっているアンジェリーナと、それに覆いかぶさるようにして彼女の首筋に顔を寄せているレティシアという構図だ。
普通の女の子同士であれば、ちょっとじゃれあっている程度と取れなくもないかもしれない。しかし片方が吸血鬼となると話が別だ。
どう見ても、血を吸おうとしている体勢にしか見えなかった。
「説明してもらいましょうか、レティシア」
「いやー…剣出すの早かったねー、今」
冷ややかな目で相手を見下ろすエリスの手には、魔石の内に納められたあの剣が握られており、切っ先はレティシアの首下に当てられている。
ほとんど意識することなく、流れるよな動作で剣を引き抜いていた。
格段に力の扱いが上手くなっているのを感じるが、今はそんなことはどうでもいい。
「説明」
「ど、同意の下なのよ?」
無言で切っ先をさらに近付ける。
「ど、どうどう、エリス。これにはちゃんと事情があってね…」
「大丈夫だよー、エリス。そんなにやきもち焼かなくても、エリスのレティシアさんを取ったりしようとしてたんじゃないから」
ドスッ
「ひー」
剣がソファの背もたれに突き刺さった。
「アンジェリーナ~…その冗談は今はちょっと笑えないというか…」
「あはは、ごめんなさい。あのね、エリス。私の方からお願いしたの。吸血鬼さんに血を吸われるってどんな感じなのかな、って」
「そう! そうなのよ! 決してエリスのアンジェリーナを味見してみようと思ったわけじゃきゃんっ!」
レティシアをソファから蹴り落とし、エリスは代わりにそこに腰を下ろした。
「まぁ、アンジェが元気そうなのは良かった」
「うん、エリスもね」
「で、何であっさり吸血鬼だってばらしてるのよ?」
「んー、まぁ、なんとなく。その子なら無闇に言い触らしたりしないだろうし」
床に仰向けに寝そべったままレティシアが答える。
「それにしてもエリスったらずるいよ。吸血鬼さんと同居なんて。あ! ヴァンパイアさんって言った方がいいのかな?」
「いいわよ、呼びやすい方で。ただ、鬼っていうのはあまり好きな響きじゃないから、姫と呼んでほしいわね」
「吸血姫さん?」
「そうそう。その方がエレガントだわ」
「…同じじゃないの」
どちらでも読みは“きゅうけつき”である。発音はまったく一緒だった。
「えー、違うよ。ねー、レティシアさん」
「そうよ、エリス。吸血鬼と」
「吸血姫。ね、違うでしょ」
「わかるかっ!」
「ダメねー、エリスは」
「ダメダメだねー」
「あーもう、はいはい、どうせわたしはダメダメですよ」
起きて早々気疲れしたエリスは、ソファに深く身を沈める。
「ダメダメだから、誰かお茶淹れて」
「はーい」
「ああ、いいわよ、アンジェリーナ。私が淹れてあげる」
立ち上がろうとするアンジェリーナを制し、レティシアが床から起き上がって台所に向かう。
天井を見ながら、エリスはその背中に向かって問いかけた。
「ねぇ、レティシア。あなた、まだこの町にいるつもりなの?」
「ええ、もちろん」
「そう」
ならば、今後はアンジェリーナも交えて騒がしい日々になっていくのかもしれないと思った。
どうやらレティシアとアンジェリーナの気も合うようであるし、そんな日々もひょっとしたら楽しいのかもしれない。
吸血鬼がいる日常など、かつては考えもしなかったものだが。
それも悪くなかった。
「一つだけ言っておくわ」
「うん?」
「アンジェに手を出したら叩き斬るから」
「浮気は許さないって?」
「そんなんじゃないわよっ」
「ふふーん、でも残念。言われて聞く私ではないのでした。というわけで、今度改めて味見させてね、アンジェリーナ」
「うん、いいよ~」
「よくない!」
悪くないと思っておこう。
今は、それでいい。
第1章 完
これにて一段落です。
ここまで読んでくれた方、評価・お気に入り登録をしてくれた方、どうもありがとう。
第2章以降の構想も既に考えてありますが、もう少し先の展開まで固まってから開始したいと思います。