第10話 エリスとレティシア
二人は建物の合間の狭い路地の影で息を潜めていた。
先ほどまで戦っていた場所からそう離れた所ではない。
おそらく長く隠れてはいられないであろうが、気配を消したままエリスを抱えて遠くまで行くことは、今の状態のレティシアには無理だった。
上手くやり過ごせれば儲けものだが、楽観視は出来ない。気配を隠すことに長ける者は、同時に気配を探ることにも長けている。同じ吸血鬼同士では、隠れ潜むのにも限界があった。
こうして体力の回復をしつつ、逃げるなり戦うなり、打開策を考える必要があった。
「それにしても、私としたことが迂闊だったなー。まさか教会の人間に正体を見破られるとは」
普段と変わらない明るい口調だが、壁に背をつけて地面に座り込んでいる様子には覇気が薄く、表情には苦笑が浮かんでいる。
チラリとレティシアが横を見やると、エリスが同じように座り込んで顔を俯かせている。
「騎士君の方が鈍感そうだったから油断したかなー。あれが相手なら見つかるはずなんてなかったんだけどね~、あっはっは」
おどけた声を上げるレティシアの眼前に刃が突き付けられる。
「……よくわからないけど、兄さんが馬鹿にされてる気がする」
「はっは…はー……とりあえず元気そうで何より」
「そういうあなたは空元気に見えるわ」
「いやいや、そんなことはないわよ。まぁ、ちょっとまずい状況ではあるけどね」
彼女の言うまずい状況のことを考え、エリスは剣を持つ手を力無く下ろす。
空元気すら出ないほど意気消沈している姿を見て、レティシアがいつになく神妙な面持ちになっていた。
「…あなたでもそんな顔するのね」
「そりゃあ、ね。特にエリスが落ち込んでると、私も悲しいわ」
「何よそれ」
悪態をつく声にも力がない。
「わたしを置いていけば、あなた一人なら逃げられるんじゃない?」
「それ、本気で言ってるんだとしたらちょっと傷つくなー」
「…言ってみただけよ」
レティシアがエリスに向けている好意が本物かどうかくらい、もちろんわかっている。それでも、吸血鬼と人間という関係性が、それを素直に受け入れることを拒んでいた。だから受け答えもつい突き放したものになってしまう。
本当はこの人ならざる同居人のことを憎からず思っている心があった。けれどそれを言葉や態度で表すことが出来ない。
自分がこんなにも素直じゃない性格をしていたことに、エリス自身が驚いていた。
しかし今は、そんな心の内情について考えている時ではなかった。
「何か考えはあるの? これからどうするか」
「どうしようかな~。偉そうなことを言ってはいるけど、実際今の私とあいつのコンディションの差じゃ、正面からやりあって勝つのは難しいわね」
「正攻法以外では?」
「それも望み薄。どうやってみても、最後にあいつの防御力を突破するだけの火力が足りないわ。致命傷を与えられるだけの決め手がない」
「そう…」
エリスの全力の一撃は片手で防がれてしまった。レティシアの攻撃も、今の状態では大差ない。さらに先ほどレティシアがやられたように全方位に対する攻撃を仕掛けられては、そもそも近付くことさえ困難だろ。
打つ手無し。改めて考えても、状況は絶望的だった。
普通の手段では、テオドールを相手にエリスとレティシアに勝ち目はなかった。
では、普通ではない手段はないのか。エリスはここに隠れ潜んでからずっと抱いていた疑問を口にすることにした。
「ねぇ、レティシアさん。さっきの話」
「ん?」
「あの吸血鬼が言ってたこと。魔石の力を引き出したわたしから血を吸えば、普通に吸うより何倍も効果があるって、本当?」
「……ええ、本当よ」
「わたしが魔石を持ってるって、気付いてたっていうのは?」
「最初からじゃないけどね。さすがに同じ家に住んでたんだから、わかったわ」
「なら、どうしてそれを言わなかったの? それにわたしを殺してれば、魔石ごと手に入ってすぐに回復できたんでしょう。なのに…」
「エリス」
「…ごめん」
咎めるように名前を呼ばれて、今回は素直に謝る。
少し考えるような仕草をしてから、レティシアは静かに話し出す。
「魔石は、持ち主に強大な力をもたらす万能の力の源よ。けどその所有者となるのは容易じゃない。まず第一に、魔石は自らの持ち主を、自ら選ぶ」
「自らって…石が?」
「そう。人間的な感覚で言うところの意思とは違うけれど、それに近いものをあれは持っている。自らの所有者と成り得る者を選び出し、その者の近くに現れる。心当たりはない?」
言われて思い出す。魔石を手に入れた時、何かに導かれるような感覚がして、あの場所へと行った気がする。それ以前にも何度か足を運んだことのある場所だったが、石を見つけたのはあの日がはじめてだった。つまりはあの時に石はあの場所に現れ、エリスを呼んだということなのか。
石を手に入れたのは偶然だとずっと思っていたが、実際には相応の理由があったということらしい。
もっとも、何故エリスだったのかはよくわからないが。
「言い方を変えれば、魔石は寄生虫みたいなものなのよ」
「寄生虫?」
言葉の響きに少し怖気がする。
「例えね。石は生きている者の体に宿り、世界に触れることを望んでいる。見返りに、宿主となった者は、魔石が秘めた強大な力を奮うことが出来るようになる。それが双方の関係。対等な間柄に見えるけど、そうじゃない。宿主の選択権は石の方にある。そして宿主に選ばれた者は、一度石に触れてしまえば、それを拒むことは出来ない。一方的に取り付かれることになる」
「取り付かれると、どうなるの?」
「実害はほぼないわ。それはエリスの方がよく知ってるんじゃない?」
「…うん」
「ただ多くの場合、ヒトは己にない力を持った存在を恐れ、妬み、排斥しようとする。魔石の宿主がその力のせいで住む場所を追われたという話は、いくつもあるわ」
「そう…なんだ」
言われていることはわかった。エリスも人前で無闇に石の力を使ったことはない。身体能力を上げるために多少使いはしたものの、そうと知られない程度でしかなかった。石の力のことまで知っているのは、親友のアンジェリーナだけである。
少し想像力を働かせれば、人とは違う力を持っていることが、平穏な日常を崩す要素になり得るのはわかることだった。
それでも止むを得ず力を使ってしまった者、そもそも他者に対して力を誇示しようとした者などがいて、排斥の対象になったという話は、理解できた。
「一歩間違えば、わたしもそういう風になってたかもしれないんだ…」
「エリスは大丈夫だと思うわよ」
「どうかしらね」
所詮は仮定の話である。
「まぁ、とにかくそういう訳だから、魔石を持っていることを隠そうとする者も多いのよ。宿主自身がその存在を疎んじてる場合もある。だから、エリスの方から切り出すまでは、魔石のことには触れないでいよう、って決めてた」
「その結果、力の回復が遅れて今こうして逃げ隠れする羽目になっている、と」
「あははー、まぁそういうことね」
「ちゃんとした目的があるくせに、甘い考えでやってるのね、あなた」
「それは違う、エリス。確かに私はテオドールを殺すことを目的としてる。けどそれよりも大事なのは、エリスのこと。エリスが嫌がることをしてまで、目的を遂げたいとは思わないわ」
「………」
エリスは、まっすぐ見つめてくるレティシアの視線から逃れるように顔を背ける。横へ向けた顔は、微かに赤く染まっていた。
本当にこの女は、時にストレートに好意をぶつけてくるので困る。しかしそれを、少しだけ嬉しいと感じてしまう自分の心がまた認め難くて、腹立たしい。
けれど今は、それとは別に胸につかえるものがあった。
「…あいつを殺したい理由って?」
「え?」
「もう二度と大事な子を殺させない、って。あれ、どういうこと?」
「あー……」
今度はレティシアの方が、気まずげに顔を背ける。
「答えて」
エリスは尚も追求する。
どうしてもそれは、知っておきたいことだった。
観念したレティシアは、ため息を一つ吐いてから語り出した。
「可愛がってた子がいたの。人間の娘。出逢った頃はエリスよりも年下だったけど、何年か一緒にいたからね、20は過ぎてたかな? お淑やかな、いい子だった。私の悪ふざけを、いつも笑って許してくれるような。私が血を吸うことを、喜んで受け入れてくれるような」
懐かしむような穏やかな表情が、徐々に憂いを帯びていく。
「だけど、ある時目を離した隙に、あの男に攫われてしまった。人質にされて、助けに行ったところを不意を突かれて深手を負わされた。その後すぐにやり返したけど、あいつは人質を盾に取ったわ。その上、あの子の血を奪おうとした。私の目の前で、ね」
レティシアは静かな調子で話し続ける。けれど膝を抱えた手の先で、拳をぎゅっと握り締めていた。
変わらない表情の奥に秘められた怒りを感じ取ることが出来た。
「それで…どうなったの?」
「どうなったと思う?」
先を促すエリスの方へ振り向いたレティシアの顔には、笑みが浮かんでいた。
「あの子、自ら命を絶ったわ。私の枷になるくらいなら、私以外の誰かに血を与えるくらいなら、って」
「………」
「虫も殺さないような大人しい子だったのに、あんな強い面もあったんだって、驚いたわ」
「…ごめん、辛い話させて」
「いいよ。エリスにはいずれ話すつもりだったし。それに別れには慣れてる。実を言うとあの子で3人目だ。まぁ、前の2人とは死別する前に別れたけどね。年を取った姿は見られたくないからってさ。寿命が違うんだから、そんなことこっちは気にしないってのに。まぁ、そこは人間と私達の意識の違いなのかなって」
過去に思いを馳せ、レティシアは自嘲気味に笑う。
その表情が、キッと引き締まる。
「だけど、目の前で死に別れたのははじめてだった。私からあの子を奪ったあいつは、この手で殺さないと気がすまない。それであの子の魂が浮かばれるわけじゃないけどね」
レティシアが語り終わると、二人はしばらく無言でいた。
自ら命を絶った女の想い。それを語ったレティシアの想い。それを聞いた自分自身の思いを、エリスは胸の内で幾度も反芻する。
どうしてその話を聞きたいと思ったのか。
聞いて何を思ったのか。
知った上で何をなすべきなのか。
自問は尽きないが、今はゆっくりと時間をかけることは出来ない。
今この瞬間にも、脅威はすぐそこまで迫っているかもしれないのだ。
生き延びるためには、決断しなくてはならない。
「さてと、休憩はこれくらいにして、そろそろ行きますかねー」
「…どうする気?」
「もちろん戦うわ。王族たる者、逃げも隠れもしないってね。ま、王族の自覚なんてないけどね~」
「勝てるの?」
「勝つに決まってるわ。何せ私は、レティシア・ブランシュタインだもの」
自信に満ちた言葉。だがそれは嘘だとわかった。
今の状態で勝ち目などない。
だが勝つための手段は、本当はすぐ近くにある。
最初からそれはわかっていたことのはずだった。
だというのに彼女は、自分からそれを言い出そうとはしない。エリスの方からそれを言い出すことを期待しているわけでもない。
彼女の言葉は、嘘であって嘘ではない。
本心からレティシアは、そのままで行くつもりだった。
「私があいつのところに行ったら、エリスは逃げて。お兄さんのところに行きなよ。そうすればたぶん、安全だから」
その言葉にエリスは俯き、ギリと歯を噛み締める。
本当にこの姫は、エリスに腹立たしい思いをさせる天才だと思った。
だから、望みどおりになどしてやらないのだ。
「ねぇ…あいつさ、わたしの友達に手を出したんだよね」
胸の内から搾り出すように、言葉を紡ぐ。
「わたしは、守られるだけのか弱い女になるのが嫌だった。だから強くなりたいとずっと思ってきた。魔石を手に入れて、その思いは現実に近付いた。いっぱい鍛錬もした」
剣を握る手に力がこもる。
手が豆だらけになるまでこの剣を振って「女の子なのにこんな手になって」と、兄や親に嘆かれた。
それでも強くなりたいと願って剣の道を突き進んできた。
「無茶ばかりする友達がいて、いつの間にかその子を助けるのがわたしの日常みたいになってて、それでもいつだって、ちゃんと助けてあげることが出来た。友達一人守れるくらいには強くなれたんだって思えた」
口では文句を言いつつも、親友のために自分の力が役立っていることは嬉しかった。
「何でもかんでも守れるほど強くないことはわかってる。見ず知らずの他人のために力を使おうとも思ってないし。ただ、家族や友達くらい守れれば満足で……でも今は、それすら叶わなくて…!」
だからこそ悔しかった。
今のエリスには、それだけの力がないから。
「ねぇ…わたしの血を吸えば、あいつに勝てるでしょう?」
「………」
そう、簡単なことだった。
エリスもレティシアも、今の状態ではテオドールに勝つことはできない。
そしてエリスが今よりも強くなることはすぐには出来ないが、レティシアならば出来る。今は失っているだけの、元々持っている力を取り戻せばいいだけの話なのだから。そのために必要な糧も、ここにある。
「あなた達吸血鬼が生きるために人間の血が必要だっていうなら、それを得ようとするのは悪いこととは思わない。だけどあいつをこのままにしておいたら、わたしの友達が、わたしが生まれ育ったこの町の人達があいつの糧になるために襲われるかもしれない」
この戦いの善悪は関係ない。
「そんなの、わたしは許さない」
これはエリス自身のエゴだ。レティシアが語った彼女の理由さえ、正直どうでもいい。
「だから――」
吸血鬼テオドールは、絶対に倒さなくてはならない。
負けることはあってはならない。
必ず勝つために、今出来る最善の手段を取る。
「わたしの血を、好きなだけあげる。だから、あいつを倒して、レティシア」
それがエリスの決断だった。
その言葉を予測していなかったわけではないだろうに。
「えっと……いい、の?」
ひどく戸惑った様子で、レティシアは問い返した。
厚顔不遜を絵に描いたような性格をしているくせに、血を吸うことになると慎重というか、妙に臆病な部分があった。
「いいも悪いもない。それが今、一番確実な方法でしょう。それとも、わたしの血を吸ったくらいじゃ足りない?」
「いや、それはない。エリスは魔石の力を十分に引き出してるし、全身にしっかり魔力が巡ってる。今のあなたの血を吸えば、私の力はほぼ全快まで回復するはずよ」
「回復すれば、あいつに勝てるわね?」
「勝てるわ。確実に」
「なら、迷う必要はないわ」
エリスは既に心を決めて、まっすぐに相手を見つめている。
だというのにレティシアの方はまだ迷っているのか、視線を泳がせていた。
「でも、エリスはそれでいいの?」
「何がよ」
「だからその、悔しくないの? 守られる女の子は嫌だから強くなったんでしょう。本当はあいつのこと、自分で倒したいと思ってるんじゃないの?」
「思ってるわよ。特にあなたに守られるっていうのはなんだか、すごく、嫌」
「う…なんかそれは傷付くな…」
「けど、わたしとあいつじゃ力の差があり過ぎるのもわかってる。あなたに頼むしか、道はないのよ」
「んー……」
レティシアは目を瞑り、何事か思案する。
少し前の戸惑っていた感じは既になく、数秒考え込んだ後に目を開いた時には、落ち着いた様子だった。
「本当に、いいのね?」
「ええ」
「いつもより、いっぱいもらうよ?」
「望むところよ。一応、死にたくはないから死なない程度がいいけど、好きなだけ持って行きなさい」
「…わかった」
レティシアはエリスの前にしゃがみこみ、二人は正面から向き合う。
お互いの視線が絡み合う。相手の瞳に、自分の姿がうっすらと浮かんでいるのが見えた。
夜空の下でこうしていると、はじめて出逢った時のことを思い出す。
そのまましばらく、じっと見詰め合っていた。
「…ねぇ、時間ないんでしょう」
間がもたなくなって先に口を開いたのは、やはりエリスだった。
「うん、そうだね」
「……毎度言うけど、この間が恥ずかしいんだけど」
「私は好きだな。こうやって見詰め合ってるの」
「…とにかくさっさとしなさいよ。こんな場面で見つかったりしたら、まぬけじゃないの」
「あはは、まぬけかどうかはわからないけど……うん、そうだね、確かに。あいつにこんな可愛いエリスを見られるのは、我慢ならないな」
「あのね…」
「このエリスは、私だけのもの」
そっとレティシアが顔を近付けてくる。
「…前の人達にも、そんなこと言ってたの?」
「妬いてる?」
「別に」
「ごめんね。こればっかりは、長生きしてると仕方ないことなんだ。だけど今、この瞬間は、エリスだけよ。私は、エリスだけのものだよ」
「だからっ、わたしは別に…っ!」
強く言い返そうとしたところで、レティシアが思い切りエリスの首下に顔を寄せる。
互いに顔が見えなくなったが、どんな顔色をしているかは、何となくわかった。
首筋にかかる息がこそばゆい。
まだ牙が肌に刺さる感触はなかった。
最後の確認は、いつだってこの体勢からされるのだ。
「もらうね、エリス」
「……約束、ちゃんと守ってよ」
答えの代わりに、牙の先が肌を貫いた。
「つぅ……!」
決して乱暴ではない。むしろ優しすぎるくらい丁寧に噛み付かれているが、それでも体内に異物が入り込んでくる最初の瞬間は、何度体験しても慣れないものだった。
けれど牙が根元まで刺さると、痛みはほとんどなくなる。
「……あ」
代わりに今度は、堪えようのない気持ちよさがやってきて、思わず声を漏らす。これは、必要以上に相手に痛みを感じさせないよう、一種の麻酔毒が牙から出るからなのだと、以前に聞かされた。
毒のせいだとわかっていても、ゾクゾクとする感覚がこの行為に快感を覚えているような気分にさせて、ひどく気恥ずかしい。エリスは手に力を入れてその感覚に耐える。その際、両手がレティシアの服を掴んでいることには気付いていなかった。
噛み付かれる瞬間の痛みと快感が収まってくると、今度は体内から何かが抜けていくのを感じる。
血を吸われているのだ。
最初はこの感覚も、大事なものが抜き取られていくようで不快だったが、段々とそれにも慣れていった。
むしろ吸われているはずなのに、逆に何かを与えられているような感覚があって、それに気付くと不思議と安心感さえ覚えるようになった。
この行為を尊いものと呼ぶレティシアの気持ちが、ほんの少しだけわかる気がした。
血を吸う時のレティシアは、普段の飄々とした言動からは想像できないほどに厳かな雰囲気を漂わせている。
エリスをとても大切に想い、労わる気持ちが伝わってくる。
だからこの行為はエリスにとって、決して嫌なものではなかった。
「う…ぅぅ……」
けれど今日に限っては、いつもとは少し勝手が違う。
吸われる勢いが激しい。量も普段よりずっと多い。
急激に体内の血液が失われていく感覚は、強い恐怖心を抱かせるものだった。それが牙によって穿たれた傷痕を通り抜けていく際には、身が震えるほどの快感がもたらされる。
苦痛と快感の狭間に翻弄され、エリスは身悶えた。
「…はぁ…はぁ…はぁ……」
どれくらいの間それが続いていたか。
たぶん、ほんの十数秒程度のことだったはずだが、何分間も吸われ続けていたような感じだった。
首筋から口を離し、最後に傷口から流れ出た血を舐め取られると、ゾクリとした感覚が全身を巡る。強張っていた身体から力が抜け、服を掴む手が緩んだところで、レティシアが体を離した。
貧血のせいか、頭がくらくらした。
視界も霞み、すぐ目の前にあるはずのレティシアの顔がよく見えなかった。
けれど、気配でわかった。
さっきまでとは違う。
レティシアの身からは、充実した魔力の波動が感じられた。
穏やかだが、とても力強いその気配に安心感を覚えつつ、抗い難い睡魔に襲われたエリスは、意識を手放そうとした。
チュッ
その瞬間、唇に未知の感触があった。
「?………っ!!?」
何をされているのか認識すると、落ちかけていた意識が一瞬にして覚醒した。
すぐに離れようとしたが、背後には壁があり、これ以上は下がれない。と思ったら、相手の方がゆっくりと離れた。
「な…な…な、な…!?」
「ふふっ、ついでにもらっちゃった♪」
「なっ、い、今、キ、キキ……!」
「うん、キスしたね」
「~~~~~~っ!!!」
ぶわっと湯気が出る勢いで顔が紅潮した。
「なんで!?」
「何でって、可愛かったから」
「そんな理由で勝手にキスしないでよ!? だって、わたし、その、だから…つまり……は、はじめてだったのにっ!」
「わーいっ、やったね♪」
「何で嬉しそうなのよ!?」
「だって嬉しいし」
「だっ、だいたい! 何なのよ!? 噛み付く時はいつもうっとうしいくらいに確認するくせに、キスは不意打ちって…!」
もう訳がわからなかった。これが人間と吸血鬼の感覚の違いというものなのであろうか。
困惑の極みに達しているエリスに対し、レティシアは満足げに微笑んでいた。
「うん、それだけ元気なら大丈夫ね」
「だい、じょうぶなものですか。まったく…もう、ほんと、まったくもう……」
声を荒げるのに疲れて息を吐く。
辛い過去を語ろうが、厳かな雰囲気で血を吸おうが、やはりレティシアという女はどこまでもこういう女だった。
エリスの調子をとことん狂わせる。
実に腹立たしい、我がまま姫だった。
「エリス」
そんなレティシアが、ふいに神妙な顔で語りかけてきた。