霖雨の唄(ユリシーズ×マリカ) ~Tryst in rainy day~ ①
雨企画提出用作品です。
短編というには少し長めのお話なので、数話続けて投稿します。
梅雨が明けるまでには書き切りたいな……←
雨の重みをめいっぱい抱え込んだ雲が、今にもはちきれんばかりに厚ぼったく膨れている。
雲の継ぎ目から細長く顔を覗かせていた光の帯は、いつの間にやらすっかり姿を消していた。
どうやらまた、一雨来そうな空模様である。
仕事あがりにひとしきり呑み明かした後、いつもの顔触れのうちの一人――旅行記者の少年――がこんなことを言っていた。
人気のない街外れを歩いていた折、いかにも具合の悪そうな青白い顔で、路地の脇に座り込む少女を見かけた。気になって声を掛けると、しきりに水が欲しいと呟いている。
街外れには人の住む民家が少なく、飲み水を手に入れるには少々骨が折れるのだが、このまま放っておくわけにもいかないと思った少年は、あちらこちらを駆けずり回ってどうにか水を手に入れ、少女のもとへと戻った。
けれど、そこには既に少女の姿はなく、少女がうずくまっていたと思しき場所には、見たこともない花が寄り集まって咲いているだけだった。
あと少し早く戻ってさえいれば――少年は悔やんでいた。
あの子は一体どこへ消えてしまったのだろう。
もしもあの子が、渇きを潤す水を待ち侘びながら、最期の力を振り絞って、この花に化身したのだとしたら。
せめてもの罪滅ぼしにと、手に入れた飲み水を花の根元に掛けてやり、少年はその場を立ち去った。
「――で、これがその“見たこともない花”ってわけか」
誰にともなく、ユリシーズは呟いた。
味気ない褐色の壁に四囲を閉ざされた、寂しい路地裏の一画に、すすけた赤茶色の煉瓦を積み上げて作られた、簡素な花壇がある。
そこには少年の話した通り、無数の小さな花が、真っ白な花唇を寄せ合うようにして咲いていた。
成る程、確かにこれは自分も初めて見る花だ。
派手やかな風采を持たないその花は、一見したところで、特別印象に残るようなものではなさそうである。
植物に関して深い知識があるわけでもない自分には、それが本当の意味で希少価値のある花なのかどうかは全く分からない。
先の少年も、おそらくは自分とほぼ同程度の状況であったはずだが、話によると、彼は初見ですぐにこの花を“見たことのないもの”だと判別できたのだという。
それは、何故か。
答えは、極めて単純明快である。
ぬかるんだ土の巻き上げるカビ臭さを、包み込むように広がる、馥郁たる香り――
足元に小さくうずくまるその花からは、透くように清廉で、薄っすらと甘味のする、独特の強い香りが漂ってきていたのだ。
花の香りと言うと、現物以外にも、香水や薫き物などで似た香りに出会ったことがありそうなものだが、この花に関してだけは、思い当たる節がない。その芳香は、まさしく鮮烈なひとつの“個性”と呼べるものに間違いなかった。
それにしても、何という透明感だろうか。
たかが“花”に、これほど強く心を惹かれたことはなかったかもしれない。
少年の想像通り、もしもこの花が、一人の少女の化身した姿であるとするなら、さぞかし凛然とした美しい少女であったに違いないだろう。
気が付くと、ユリシーズは時のたつのも忘れて、しばしその清香に酔い痴れていた。
そうして、幾筋と芳しい時間が過ぎ去った後のこと。
突き抜ける空の向こうから、大気を揺るがすような雷鳴の音が近づいてくるのを感じ、ユリシーズはぱっと目を開けた。
もう少しで、瞼の奥に現れた“少女”が振り返る頃合いだったのに。
名残惜しいが、そろそろ潮時のようである。
「花に化身した少女か。あいつの話が本当だとしたら、是非とも見てみたいもんだな」
少年の見聞は、まるで白昼夢のように現実味のないものである。
率直に言えば、ユリシーズは彼の話を全面的に信用しているわけではなかった。
少年が件の少女を見かけたのは、どっぷり一晩中と言っていいほどの時間をかけて、呑みに呑み明かした後の出来事であったから、夢と現実の境が分からなくなっていたとしても、何ら不思議なことではないような気がする。
更に、“旅行記”を記すことを生業としている少年にとって、この手のネタ話は、常日頃から血眼になって探し求めているもののはず。ゆえに、“この話の結末がこうであればいい”という願望が“酔い”によって増幅され、無意識のうちに自分の記憶の中に脚色を施しているとしてもおかしくはない気がするのだ。
それより何より、“花に化身した少女を見た”などというエピソードは、話し手の少年の普段の様子に著しくそぐわない美談である。
吟遊詩人じゃあるまいし、子供のくせに生意気だ。
これではきっと、少年を信用していないというよりは、“信用してやらない”と表現した方が、ニュアンスは近くなるのかもしれないけれど。
鼻先に、ぽつぽつと冷たい感触がぶつかってくる。
余計な思索に耽る間に、いよいよ空が、抱えきれなくなった雨粒をぽろぽろと零し始めたようだ。
「あーあ、とうとう降ってきやがった。一時は止むと思ってたのにな」
運の悪いことにそれは、“雨粒”と呼ぶには散々なほどの――例えるならば、大鍋に溜め込んでいた水を逆さまにひっくり返した状態のような、土砂降りの豪雨だったのである。
今更ながら、いつもの酒場を立ち去る折、傘を持って出るようにという妹の言葉を聞き入れなかったことを、ほんの少しだけ後悔していた。傘で凌げる勢いかどうかは怪しいが、少なくとも今のように、頭からずぶ濡れになるようなことは無かっただろう。
仕事柄、天候の変わりやすい海上で過ごすことの多いユリシーズにとって、雨に打たれることなど別段何でもないことなのだが、陸地に上がった後で水浸しになってしまうのは、仕事だからと尤もらしい理由付けをすることも出来ないので、あまりいい気にはなれそうもない。
額に巻いていたバンダナが雨水を吸い、みるみるうちに重みを帯びてゆく。
むしり取るように乱暴な手つきでそれを引っ剥がしたユリシーズは、小さく息をつくと、件の花壇の側の、古びた民家の軒先に駆け込んだ。
「結局、足止めかよ――」
軒を打つ雨音があまりに強く、自分の声すらまともに聴き取ることができない。
こんなことなら、寄り道などせずにさっさと帰るべきだった。
少年の見たというこの花に、一見の価値があることは認めてもいい。しかし、ここを訪れるタイミングは、今日のような最悪の日取りでなくとも良かったはずである。
足元の花壇をぼんやりと見つめ、ユリシーズはくしゃりとバンダナを握り締めた。
少年が彼の美談を成就させたのは、今から三日ほど前の朝方のことであったらしい。雨の少ないこのティル・ナ・ノーグが、永らく尾を引く霖雨に閉ざされることになったのは、おそらくちょうどその頃からではないかと思う。
もしかして、あいつが珍しく金にならない人助けなんかをしようとしたせいで、雨が降り出したんじゃねえだろうな――
そうだとすれば、傍迷惑もいいところである。
おかげで王国の近海では時化が続いており、ここ数日というもの、ユリシーズは本業である海の狩猟に出られていない。
何処ぞの心優しい少年のように、金欠に喘いでいるというわけではないが、日がな一日呑み明かして退屈を紛らわすことにもそろそろ飽きが来はじめている。これ以上降り籠められるようなことがあっては、たまったものではないと思い始めていたのだ。
「あら、お客様なんて珍しいわね」
刹那のこと。
不意に脇から響いてきたその声に、ユリシーズは一瞬ぎくりとさせられていた。
声のした真横を振り返ると、花壇の真上に付けられた窓から、小柄な老婆がちょこんと顔を出している。
まさか、人が住んでいるとは思っていなかった。
老朽化の激しい佇まいを一目見た時からそう決め付けていたが、よくよく考えてみれば、この花壇には明らかに人の手が入っている。丹念に手入れのされた土から、美しい花が芽吹くのは当然の話で、考えれば考えるほど、不思議なことではないような気がした。
「悪いな、婆さん。いきなり雨に降られちまってさ。しばらく軒を貸してもらうぜ」
「ええ、それくらいならお安い御用よ。中はちょっと散らかっているから、上がっていきなさいとは言ってあげられないけど」
どうやら彼女に、突然現れた見知らぬ男を不審がるような素振りはないようだ。
柔らかい笑顔を零す老婆を目の当たりにしたことで、ユリシーズは内心安堵していた。
「そこまで気を遣ってもらっちゃ悪いよ。しばらくここで雨宿りさせてくれりゃあ、それで充分だ」
「そう? でも、あなた随分ずぶ濡れになってしまってるわね。放っておくと風邪を引いてしまいそうだわ」
よっこらしょ、の掛け声とともに、年齢相応に曲がった背筋をゆっくりと伸ばし、老婆は窓から出した顔を引っ込める。そうして、何やらぶつぶつと独り言を呟きながら奥へ消えていくと、幾許と立たないうちに再び顔を出した。
「良かったら、これを使いなさい」
深い皺をいくつも刻んだ小さな手が差し出したものは、一枚の真っ白なタオルであった。
反射的に受け取ろうとしたものの、すぐさま脳裏に広がった躊躇いが、それを制止する。
この老人は、本当に自分のことを警戒していないのだろうか。
実を言うとユリシーズは、年配者からあまり良い印象を持たれた経験がなく、距離の取り方をいつも計りかねているところがあった。年配者と呼ばれる人々の最たるところにある“老人”ともなれば、その苦手意識は数段も跳ね上がる。
自分でも“ロクなものではなかった”と断言できるほど、放蕩の限りを尽くしていた少年時代を知る者ならばもちろんのこと。“海の猛者”などと言えば聞こえはいいかもしれないが、得てして海洋ハンターというものは、“無法者”と呼ばれる部類の人間が圧倒的多数を占めているのが現実だ。彼の有名な“大海蛇”のように、英雄として称えられる者も存在しなくはないが、一般的な観点からすれば、“ガラの悪い連中の集まり”などと認識されてしまうのが常である。
相手が若者であったなら、そうした“はみ出し者”に対して、憧れの眼差しを向ける者も居る。
しかし、長い年月をかけ、がっちりと人格の外堀を埋めてしまった老人から注がれる眼差しというのは、生易しいものでないことが殆どなのだ。
今目の前にいるこの老婆のように、いかにも品の良さそうな老人であれば、尚更のことではないかと思うのだが――
「あのさ、俺――」
「あら……見ず知らずの人間から借り物をするのは苦手なのかしら。一応洗濯はきちんとしてあるから、清潔だとは思うんだけど」
「そういうことを言いたいんじゃなくて」
「遠慮なく使っていいのよ。いちいち返してくれなんて言わないから」
もしかすると彼女は、あまりに品良く育ちすぎたがために、相手をどんな人間かも見抜くことが出来ないくらい世間知らずのまま、歳を取ってしまっているのだろうか――
いや、まさか。
いくら何でもそれは、彼女の魚心に対して失礼な見解であったかもしれない。
彼女はおそらく、相手がどんな人間であろうと、施すことと、持てなすことを忘れない主義なのだろう。
再び目元が窪むくらいにくっきりと皺を刻み、老婆が緩やかに微笑む姿を見たユリシーズは、久しく触れたことのなかった“他人からの純粋な厚意”を、ようやく素直に受け入れることに決めていた。
「それじゃあ、遠慮なく」
手渡されたタオルの感触はふんわりと軽い。
ほんのり心地よい温もりが伝わってくるのは、自分が思うよりもずっと、四肢が冷え切っていたせいだろうか。
両手に広げたタオルでずぶ濡れの顔を拭うと、微かな石鹸の香りとともに、脇の花壇に植えられていた、あの花の香りが漂ってくるのが分かった。
「いい香りだな。ここに咲いてる花と同じ香りがする」
「あら、分かるのね。この花はとてもいい香りがするから、お洗濯に使う水の中に、花びらを乾燥させたものを混ぜているのよ」
「へえ、そうなのか」
刹那、内側で転がしていた憶測が確信に変わったような気がして、ユリシーズは口元に自然と笑みが浮かんでくるのを感じていた。
人口の多い大都市には、必ず“土地不足”という問題が付いて回る。この街も例外ではなく、外見的な美しさを必要とする商業区や観光名所でもなければ、限られた土地を趣味のために使うなどということは、やりたくても出来るものではない。
そんな中、“僅か程度しかないこの狭い空間にどんな花を植えるか”というところで、派手やかさはなくとも、とにかく香りの良いこの花を選んでいたあたり、大方彼女の感性については想像がついていたのだが――
やはり彼女は、ユリシーズの好みにピッタリと合致したセンスを持ち合わせているようである。
それならば、如何にしてこの感情を表現するべきか。
率直に褒めるのも、どこかつまらない気がする。それより何より、平時から人を褒めることなど滅多にない自分の思いを、単なるお世辞だと受け取られては癪である。
せめてあともう少し、相手から引き出すものを見つけられれば――
そうしてユリシーズは、僅かに弱まり始めていた雨の勢いには気付かない振りをして、このまましばらく老婆との歓談のときを楽しむことにしていた。
「婆さん、この家に独りなのか?」
「ええ、そうだけど」
唐突に切り出したユリシーズに、老婆は大きな瞳をぱちくりとさせて答えた。
「部屋が散らかってなかったら、俺を家にあげてくれたのかい?」
「そうねえ――酷い雨だから、いつ止むかも分からないし。それに毎日退屈しているから、あなたのような若い子がうちで話し相手になってくれたら嬉しいわね」
雨雲の向こうを見上げた老婆の横顔は、どこかとても物憂げであった。
激しい雨降りの日に、何か厭わしい思い出でもあるのだろうか。
平時の自分であれば、他人の心証など知ったことではないと考えていたところだが、今に限ってそんな風に考えられそうもないのは、何故なのだろうか。
僅かなためらいもなく差し出された、混じり気なしの厚意に、思いのほか感ずるものがあったから?
彼女の抱える“孤独”に、何らかの共通項を感じたから?
それとも――
こんな気持ちになったのは、いつ振りのことだろう。
何にせよ、とにかく今はただ、この親切な老人の心から喜ぶ顔が見てみたいと思っていた。
「誰にでも親切なのはいいことだと思うけど、知らない人間を簡単に部屋へあげない方がいいと思うぜ」
「そうね……あなたの言う通りかもしれないわね。近頃は物騒なことも時々あるし、ここは元々人通りの多いところではないしね。だけどもし相手が泥棒さんだったとしても、こんなところに盗るものなんかないってことくらいは分かるんじゃないかしら」
「――いや、そうじゃなくてさ」
そこまでを言いかけたところで、ユリシーズははたと言葉を止ませた。
いくら彼女を喜ばせるためとはいえ、いつも通りに振る舞っていいものなのかどうか――自分の中で異性を喜ばせる手法と言ったら、“いつものやり口”以外に思いつくものがなかったからである。
「なあに?」
案の定、不思議そうに首を傾げる老婆の様子には、手応えを感じられそうな素振りはどこにもない。
――まあ、そりゃそうだよな。
明け透けなほどの不漁っ振りには自嘲を隠し切れなかったが、こうなれば、とことん攻めてみるのも面白いかもしれないと思った。
目前のものが“難攻不落”であると分かるや否や、俄然やる気が湧き起こってくるのを感じたユリシーズは、きょとんと目をしばたたかせる老婆にニヤリと悪戯っぽい笑みを向けると、早々にいつもの駆け引きを再開することにしていた。
「一人暮らしの女の家に、知らない男をあげるのは良くないって言ってるんだよ」
「あらまあ、面白い子ね。でも、お婆ちゃんをからかうもんじゃないわよ」
老婆は肩を揺らして笑っていたが、その真ん中に浮かんでいるのは、いかにもな苦笑いだけであった。
辛勝。
いや、そもそもスタートラインにすら立ってもいないか。
こんなことで、彼女を心から喜ばせたとは言いたくない。
だったら、どうする――?
「なあ、この花は何て名前なんだ?」
正攻法――少なくとも、自分の中だけでそう定義しているだけだが――ではうまくいきそうもなかったので、あっさりと定石を捨てたユリシーズは、別角度からのアプローチを試みることにしていた。
「ジャスミンよ。“パルティアジャスミン”っていうの」
「ジャスミン……か」
その名前には聞き覚えがある。
以前、異国情緒溢れる衣装に身を包んだ美人店主の営む、とある日用雑貨屋に立ち寄った――というよりも、単に店主をからかいに足を運んだだけなので、買い物目的で立ち寄ったわけではないのだが――折、ジャスミンの香りを付けた茶葉が販売されているのを見かけたことがあったのだ。
そういえば、他の客に出したついでだと言って、その時店主に試飲を勧められたのだが、“酒以外の飲み物に興味がないから”と、手をつけなかった記憶がある。
これからうまく手に入ったら、雨宿りの礼として、その茶葉を贈ってみるのもいいかもしれない。
――暇潰しがてら、後から立ち寄ってみるか。
ついでに、あのからかい甲斐のある美人店主の顔を見られるとなれば、楽しみも増えるというものである。
これで、有り余る余暇をやり過ごすための、当面の予定は立てられた。
相変わらず、空模様はぐずついたままであったが、心の中に晴れ間が現れてくるような感覚をおぼえたユリシーズは、清々しい思いで目指す路地の先をじっと見遣っていた。
「長居するのも悪いし、そろそろ帰ることにするよ」
「あら、そう? 何だか残念ね」
「ありがとな、婆さん。これできっと、風邪引かずに済むと思うよ」
絶妙な頃合いで和らいだ雨脚に誘われるようにして、ユリシーズは駆け出していた。
路地の奥を曲がる直前、振り返りざまに、仄かな残り香を放つタオルを高く掲げる。
すると老婆は、再び柔らかな笑顔と共に小さな手の平をこちらに向けて、いつまでも見送っていたのだった。
『雨宿り』
企画に参加されているsho-koさんより、素敵なイラストをいただきました!
sho-koさん、ありがとうございます♪