†繊細技術†
「アはあハアはァ!」
ザギンと壁を切りつける氷製の剣。瞬間、切りつけられた部分が凍り付き、寒暖の差に強い筈の壁に亀裂が入る。
「そら、そら、そら!立ち止まるなよ重力使い!逃げ回れ逃げ惑え逃げ捲れ!でないとガッチガチの冷凍マグロみたいになるぞォ、あっはぁん!?」
まるで地面を這いずる蛇の様な動きで、壁を伝い鉄骨を伝い冷気の流れが重力管制を襲う。直前で跳び上がって回避した重力管制を、今度は頭上から剣を持った絶対零度が跳びかかって襲いかかる。紙すらも切れそうにない剣だが、透明ながらに重量感のある剣は肉を叩き潰すには効果的であろう。
緊急回避として重力の流れをとっさに横方向に流して自らの身体を空中で移動させる。まるでワイヤーアクションの如き不自然な軌道で身体が動いた瞬間、重力管制は脳を握り潰される様な頭痛を催した。
ただでさえ大規模な重力の方向を真横に流しているのに、そこに更に別軌道の流れを組み込んだのだ。例えるなら、流れの速い川を氾濫させ、その逆流を乱す事なく川の一部を別方向に流した様なものなのだ。
(……こ、これ以上は、あたしの頭が危険か。下手したら……、灼ききれる)
重力管制の様に機動力に優れた訳ではない絶対零度を相手に、足場を制限するというのは最大の防御法に繋がるのだが、限界が近付いてきた。ズキズキと痛みの波が脳を直接襲い、重力管制はワンフロア全域を操作していた演算式を停止し、自然に戻す。ガクンと二人の身体が傾き、鉄骨から足を滑らせて一気に床に落下する。これを見越していたのか、二人は床の壁からあまり身体を離してはいなかった。
「あはん、あははん、あはぁん!ホォラ!寝てる暇があるんだったら立ち上がって身構えてなさいメスブタぁ!」
即座に体勢を立て直した絶対零度は、剣を握ったまま重力管制に突進する。舌打ちしながら、圧縮空気の砲弾を連続で放つ。
(……流石は、腐ってもレベル7か。ただの喧嘩と違って、……綺麗に叩き潰すってのは無理があるわね)
圧縮空気の砲弾の弾幕を前に絶対零度は、時に軽やかなステップでかわし、時に氷の壁を生み出して防ぎ、ジワジワと距離を詰めてくる。その表情は実に涼やかで、口元は悪魔の如き凶悪な笑みさえ浮かんでいる。一方で重力管制の額にはじっとりと肌に粘着く気味の悪い汗が浮かんでいる。
(……綺麗に叩き潰す?)
ハッと自虐的に嗤う。無駄に膨大な計算式をしなければならない圧縮空気の砲弾を止め、重力管制は一気にダッシュをかける。思わぬ行動に絶対零度は眉をひそめた。
(窮鼠、猫を噛む。ったく、追い詰められた人間がどんだけ恐ろしいか、見せてやろうじゃない!)
《チチッ》
圧縮した大気で拳を包み、絶対零度の懐に飛び込み、渾身の一撃を捻り出した。
†††††††††
「……ウブッ」
青冷めた表情で、黒須ミサは口元を手で覆ったまま近くの自販機に手をかけた。まるで上司に連れられ大量のアルコール含有飲料を呑み過ぎた新米サラリーマンの如き様相だが、外観に気を回せる程の余裕はなさそうだ。
人目もはばからず今にも嘔吐しそうな少女を前に、金城ミロクは意外と小さな黒須ミサの背中をさすりながら自販機で飲料水を買う。とりあえず差し出してみたが、それを受け取る気力すらないらしい。
「じ、情報酔い……しま、した……」
黒須ミサ曰く、同一性質というのは漫画や小説にある様な過去を見通す能力ではなく、物質ないし生物の情報思念と直接、精神をリンクさせる能力であるらしい。物質ないし生物が培った情報を読み取ったり操作したり、様々な応用がきくのだとか。初対面の時に金城ミロクの興奮を抑え込んだのは、精神リンクの際に操作したのだと言う。
で、今この場で問題となっているのは『情報酔い』という話なのだが、現在二人は黒須ミサの同一性質を頼りに赤銅シオンを追走していた。黒須ミサは《正エスエル》の間では追走開始と呼ばれる程の追跡の専門家であるらしく、こういう事は得意であるらしかった。SRAMや街角の情報思念から赤銅シオンの情報のみを選別しながら走っていた訳だが……、
「は……吐きそう……」
ゼェ、ヒュウ、と喉から掠れた息を漏らし、黒須ミサはしゃがみこんだ。その際に足をもつれさせ、力なくストンと地面に尻餅をついた。スカートが汚れる事も厭わずに、黒須ミサは飲料水を一口飲んでため息を吐く。
「……で?情報酔いってな何なんだ?」
「……えっと、例えば……この石ころがありますよね」
気を紛れさせる為かどうかは知らないが、黒須ミサは道ばたに落ちていた小さな石を拾い上げる。ユラリと不気味な動きで立ち上がり、金城ミロクに石を見せつけた。
「この石から、貴方はどんなデータが採れると思いますか?」
「そうだな……質量、重量、密度、温度、分子構造、硬度、岩石名、成分……数え上げたらキリがねぇよな」
「……ですよね。こんな小さな石ころでさえも、実に様々な情報を採取出来ます。で、同一性質はそういった情報を『全て』観測しながら、必要な情報『のみ』を選別しなくてはならないんですよ……」
あっ、と。金城ミロクは、黒須ミサが言いたい事に気が付いた。
金城ミロクはレベル0で、身に持った能力は役立たずで、気にした事はなかった。だが、超能力というのは頭の中に『自己世界』を開発して築き上げ、現実と思想の間に生まれる矛盾を計算式に当てはめて『観測する』事で初めて顕現するのだ。
目の前にリンゴがあって、それを取る為に手を伸ばして掴む。何て事はない些細な行動ではあるが、実際は実に幾多のデータを観測する事が出来る。動かした関節の角度、筋肉の伸縮、筋肉の摩擦に伴い発生した熱や静電気、移動した距離、掴む際の握力、他にも挙げていけばキリがない。だが、これだけの事を考えながら手を動かす人間なんてどこにもいない。これは人体発火が念じて手から火を出すのと同じ事だ。
黒須ミサの能力・同一性質は、周囲のあらゆる情報を読み取るのだ。同一性質というのは、パソコンの画面にエラーコードが延々とスクロールする中からたった一文を選別するという作業に似ている。それも走りながらであるのならば尚更だ。
目眩で済むならまだいい方だろう、と金城ミロクは思う。
「……とは言え、休んでいられる場合ではありませんね。嘔吐しようが血管が破裂しようが、早く重力管制の元へ向かわなくては」
「いや……その必要はもうなさそうだ」
金城ミロクの言葉に、黒須ミサは眉根を寄せて訝しむ。彼は視線を虚空に向けたまま、目を細めていた。
「お前はここに残ってろ。俺が行く」
「それは、一体、どういう――」
黒須ミサの言葉を遮る様に、激しい破壊音が聞こえてきた。コンクリートブロックを高い所から落として割れた音を百倍にした様な、聞いただけで背筋を凍らせる音が。
「こういう事か」
「そういう事だ」
金城ミロクは黒須ミサの頭をポンポンと叩き、一気に音のした方角に走り出した。青冷めた顔を絶やす事なく、黒須ミサは若干足取り重く後に続いた。
しかし、不意に思う。
(……何故、金城ミロクは近くに二人がいると気付いた?)
疑問だけが残る。音がする前に彼は何かに気付いていたのだ、確信を持って。
《正エスエル》は、同高校の生徒を余す事なく情報を把握している。例外なく……と言いたい所だが、実はたった一人だけ例外がいる。
金城ミロク。能力は限定境界。
この生徒の能力に関して『だけ』は、何をどう覆そうとしても、把握出来ないでいた。教職員のデータベースにクラックしても金城ミロクの能力の性質を知る事は出来ない。先に黒須ミサが『存じている』と言ったのは、情報を把握出来ていない事を知られない為のブラフに過ぎないのだ。
(……重力管制は重力の理を定義し、私の同一性質はあらゆる情報を定義づける。ならば……一体、貴方の存在は何を定義するのですか、金城ミロク)
心中での問答に、しかし答えは存在しない。
†††††††††
辺りに血の香りが充満する。耳が痛くなる程に音が死んだ空間には、白銀のセミロングレイヤーに真っ白なブラウスとプリーツスカートを着た、一人の少女だけがユラリと陽炎の如く蠢く。
「ゴポッ……!」
口からは黒濁した血を吐き出し、床と天井を結ぶ鉄骨に手を突いて身体を支える。とてもじゃないが、内臓の位置が動く様な強烈な一撃を受けて、まともに歩ける程彼女は頑丈ではない。如何にレベル7の称号を得たところで、頭脳が発達しただけで肉体は普通の少女と変わらないのだ。
「ガヒュ、コボッ……ゲホッ、エホ!」
呼吸に血が混じり、咳込む。唾液と溶け合った半透明な赤い飛沫は床を斑に染め、彼女が着ている真っ白な服さえも朱に滴らせる。
「ぐぐ、クッ……あ、はぁ、……、ん」
だが。
それでも、絶対零度は、嗤う。愉快に苦痛に爽快に壮絶に慈愛に悲愴に無垢に怒号に楽しみ悦び嘆き悲しみ怒り嘲り、ありとあらゆる感情を織り交ぜてグチャグチャになった笑顔を浮かべ、嗤う。
「あ、はハ……ハブッ、ゲホッゲボッ!、あはあは、ははん!あはん、あははん、あはぁん!!」
血飛沫と霧状の唾を飛ばし、時に気管支に液体が入り込んで噎せる様に咳込みながら、絶対零度は嗤う事をやめようとしない。
彼女の足下には、髪を赤紫に染めた少女が転がっていた。少女の指先はピクリとも動かない。
「あッははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
爆笑、狂笑、嘲笑。血を吐きながら空を仰ぐ絶対零度の嗤い声は、そのどれにも近い様で、絶妙に異なる。
敢えて例えるならば、『泣き笑いする子供』だろうか。
強すぎる能力を持つが為に周囲から敵対され弾圧され疎外され、自分だけの小さな世界にすら裏切られた様な子供が、泣いている様に映る。自分だけではどうしようもなく身動き一つ取れず、ただ泣き喚くしかない幼い子供の様に。
爆笑の中に涙を隠し、狂笑の裏で悲しみを殺し、嘲笑を表に周囲から孤立する。彼女は常に、そんな生き方しか出来なかった。
最初からレベル7だった訳ではない。ただ、他よりほんの僅かに能力干渉値に優れた、機能停止と呼ばれるただの子供だった。
少女は、いつの日かもっと周りに注目される様になりたいという、ただそれだけのちっぽけな夢を抱いて努力をしただけだ。だが、彼女の誤算は、人より努力家過ぎた事だ。
いつの間にか機能停止という名の超能力は分子凍結と俗称を変え、自分の努力の方向性が狂いだしたと気付いた時には既に手遅れで、絶対零度という最良(レベル7)の存在となっていた。
何か間違ってる、と思った。
何かがおかしい、と考えた。
何か狂ってる、と気付いた。
その思いは届かず、考えは追い付かず、気付いた時には全てが壊れていた。絶対零度の世界は、そうやってグチャグチャに腐敗していったのだ。
「弱い、弱い、弱い!誰も彼もどいつもこいつも!あはぁん、それっともあたしが強すぎるのかしらぁん!?ったく、どうせ勝てねぇ喧嘩ならあたしに売ってきてんじゃねぇわよっつぅの!」
言葉の裏にSOSを貼り付けても、誰も彼女を救えない。救わない。救おうとしない。
絶対零度の言葉には、誰も寄せ付けまいという想いが込められている。だが、その言葉の真意には、彼女でさえも無自覚だ。
いつしか狂いきって腐りきって砕けきった想いと願いは、
ザリ、と。
唐突に現れた少年に、もしかしたら届いたのかも知れない。
「……はぁん?」
過度に出血し過ぎたせいか、視界を赤に染めた絶対零度は、痛みなどない様な笑みを少年に向ける。開いた口の端からはダラダラと血の混じった唾液を垂らしている。
「……過度の出血は防衛本能を刺激して脳が活性化し、鎮痛剤代わりに脳内麻薬を精製して生存率を高めると自殺マニアはよく言うが……こんなに効果があるもんなんかね?」
「……アンタ、昼間の奴か。何でここに……いや、いい。考えるのが面倒臭い。一緒にブッ潰しちまえば関係ねぇか」
膝をガクガクと震わせながら、それでも絶対零度はケタケタと笑い続ける。真っ赤な服は肌に張り付いて彼女の身体のラインを浮かび上がらせているが、そんな事は意識の端にすら存在しないと言わんばかりに。
双眸は、敵意と悪意に焼け爛れ、硫酸で溶かした様にドロドロの感情を秘めていた。
「……金城ミロク」
青白い顔色を浮かべたまま追いついた黒須ミサは、背後から少年・金城ミロクに声をかける。
「……ったく、しゃあねぇな」
振り返る事なく、黒須ミサの願いに答える。
「分かってるよ。アイツは俺が救う。お前らの尻拭いをしてやるっつってんだ、感謝してろ同一性質」
言いたい事は分かってる。暗にそう言う金城ミロクは拳を固く握り締め、
その指を、力なく解いた。
「……あはん、どういうつもりかしらん?」
「聞いての通りだよ。不幸だったなお前、あぁ全く、本当に不幸だった。《エスエル》とか言うくっだらねぇ派閥に睨まれて絡まれて、一番の被害者なのに悪者扱いされてな。不幸の塊みたいな奴だよお前」
絶対零度は、被害者だ。事の発端はあくまで黒須ミサの所属する《エスエル》であり、彼女はただ振り上げられた拳が怖くて、がむしゃらに手を振るっただけなのだから。
それはそれは、泣いている子供の様に。
レベル7とレベル0。その差はまさしく天地の距離が開いており、気合いや根性で埋められる話ではない。ハムスターがティラノザウルスに喧嘩を売るにも等しく、精神論云々の前にまず無理だ。
――普通の低レベルなら、であるが。
「聞けよ、絶対零度。今から俺が、お前を救ってやるよ。その不幸から、お前を救ってやる」
二人は対峙する。片や絶対零度と呼ばれる最良(レベル7)の能力者、片や限定境界と呼ばれる最弱(レベル0)の能力者。
少年は、泣いている子供を救う為だけに、対峙する。