3-8「悪夢」
それきり、二人の場は静寂に包まれる。
森の奥から響く蟲の鳴き声だけが響き渡り、話題にキリがいった会話はそこで終わって、二人の声は響かない。
しかし、シェリーが新たな話題を持ち出す。
「そういえば、これを訊こうか迷っていたんだけれど、良い機会だから……。ゼス、アンタは私の事、初めて会った時から一度も名前で呼んだ事、無いわよね?」
その瞬間、場の空気が変わったように感じられた。
それが、ゼスの反応が露骨に変わったとシェリーに理解させた。
「私は、『アンタ』と呼ぶ事もあれば、『ゼス』と呼ぶ事もある。アンタは、私の事はいつも『君』と呼んでいるわ。でも、一度も『シェリー』と呼んだ事は無い。でも、隊長には時々『アサラム隊長』と呼ぶ事があったわ。この違いはなんなの?」
「――――――」
ゼスは答えない。訊ねられているのに答えようとしない。
しかし、彼の思考はその言葉の真意を測っていた。
―――成程。ただの感情的なボクお嬢様と思っていたが、あの戦いから見てもどうやら勘は人一倍に鋭いらしいな……。
静寂に業を煮やしたシェリーが起き上がって、樹の奥で横になっている銀髪の青年に視線を突きさす。
「アンタは意図的に、私の名前を呼ばないわよね。それは何故? 私が“貴族”の出だから? アンタが私を“同僚”として認めていないから? それとも……ボクの事を、気に入らないからなの?」
「―――それは全く関係無い。君が考えている推測に準じた事も、俺が抱く君の印象も、関係無いな」
いつも通りの達観したような口調で横になったまま答えるゼス。その際、一度もシェリーに振り向く事は無い。
シェリーはその答えに納得しなかった。
「なら、どうしてアンタは名前で呼んでくれないの……?」
「―――。……明日は早い、今日はもう休め」
ゼスの身体が身じろぐ。話は終わり、今から寝るとばかりに。
「ゼス! まだ話は―――」
「明日は陽が昇る前には起きる。今から休んでおかないと、荒野越えは厳しいぞ? 睡眠時間を減らして先にバテたら、今度こそ自業自得で置いて行くぞ」
「……」
ゼスはまた、分の悪い話題をはぐらかす道を選んだ。
正直言って、自分が彼女の名前を呼ばない理由は分かりきっている。しかし、単純だが見方を変えれば非常に難解な事なのだ。それを答えても彼女は理解を示すだろうか。
しかし、既に時間は夜遅い。最初に寝ると決まってから、かなりの時間が経っている。
これ以上起きたら明日の体力が持たない。それは本末転倒だ。
シェリーもゼスの言わんとしていた事を思い至ったのか、俯かせたまま横になる。
「……解ったわ。遅くまで付き合ってくれて有難う。お休みなさい……―――」
「―――ああ」
シェリーはそれ以上言葉にする事が無いまま、静かに毛布に包まった。
その気配を感じていたゼスは、どこか遠いところを見つめるような眼をしていた。
そうして、彼は瞼を閉じて、その意識も闇の帳に閉ざしていった―――。
*****
周囲は紅く。渦巻く圧倒的な熱量は全てを焦し、そして焼き尽くす。
天井を支配するは黒。不吉な闇のように、黒々とした天雲。
―――ここは……。
その場所に、銀髪の青年は立っていた。
可笑しい。自分は森の中で眠っていたはずなのに。どうしてこんなに周囲は燃えているのだろう。
ああ、そうか……。寝ているからこれは夢なのだ。夢に違いない。他に誰もいないし、音も炎が焦すナニかの音しか聞こえない。何故なら、そうでもなければ―――
―――今見える流れ落ちているモノが、血痕なわけがないのだから。
燃え盛る炎の内側、彼の周囲に点在する、夥しいまでの紅い水溜り。これは、何時頃落ちたものだろうか。もっと前か、それともついさっきか。
青年はただ呆然とその光景を眺めていると―――
「――――や……て……!」
―――この声は!?
耳に聞こえた青年は一目散に駆け出す。声がした方向へと、真っ直ぐに。
長い長い道を駆け、青年の息は周囲からの熱量と相まって息を激しく乱す。
そうして、声が徐々に鮮明になり、その光景が視界に飛び込んできた。
―――!?
それは、栗色をした長い髪の少女が、全身を漆黒に染めた彼女と同い年くらいの体格をするナニかに倒され、馬乗りにされた光景だった。
「や……だ……やだ……やめ……て……痛い……痛いよ……」
嗚咽が混じった声に、頬を濡らす水滴。少女の衣服は引き千切られ、身体から紅い液体が流れている。
「……っ……お……お願……い……助け……て……苦し」
自分の上に乗っている黒いものに、必死に手を伸ばす少女。
彼女が目指す先には。
―――ま、まさか……。
青年は愕然とした。
あの少女の事は知っている。その少女は―――で、実際は―――になって。
そしてあの全身を黒く染めている者。その輪郭は見知っていた。あまりにも馴染みすぎる、その風貌と体格。
―――よ、よせ……。やめろ―――!
まるで、子供だった自分が陽に照らされた、全くそのままの姿をした影のようで。
影は、その手に漆黒の大きな剣を両手に持ち、その切っ先を少女に向けていて―――。
―――「やめろ……そうじゃない。違う。こんなのはな―――」
漆黒の人影は口元の白い歯を大きく見せて、一気にその両手を振り下ろして。
―――「止まれ……! 殺すんじゃない。殺すな、殺すなぁああああああああああああああああああああああああ……ッ!」
「……ゼス、ゼス! しっかりして、ゼスッ!」
「ッ――――!」
身体を揺すられながら、目を開けたゼスはその詰まった息を一気に吐き出した。
視界に入って来たのはまだ薄暗い原生林群。そして、黒髪を垂らして顔を覗き込んでいる、同じ騎士であるシェリーの姿。
「大丈夫なの!? 気をしっかり持って!」
彼女の表情は緊迫した雰囲気を露わにしている。
一体何故彼女が、自分に向かってそのような顔をしているのか、目が覚めたばかりのゼスには見当がつかなかった。
「……俺、は」
「目が、覚めたみたい、ね?」
「……何故、君が……」
ここに居る、と。
確か自分は夢の中で紅い色を見て―――。
「何って……それはこっちの台詞よ。急にアンタが大声を出してうなされていたから、急いで起きて声をかけたんだから」
「……うなされて、いた?」
「ええ。あまりの具合に暴れ出しそうな勢いで……。しきりに『やめろ』って苦しそうに言っていたわ」
「……」
荒れた息の整え、次第に落ち着きを取り戻していく。
「―――俺は、どのくらい、寝ていた?」
「もう日の出前よ。あれから大分寝ていたと思うわ」
「……そうか。なら、もう起きないとな」
左手で目頭を押さえながら、ゆっくり起き上がるゼス。
その姿を、揺らめく双眸で何かを訴えようとする黒髪の少女。
「―――悪い夢でも、見たの?」
何があったの、と問うた。気遣うようなひどく優しい言葉で。
「ああ……。見たくない、夢だったな」
下らなさそうに答える。
両目を抑えた左手は、痒みを取ろうとして力を入れた。
「アンタ、そんなに眼を掻いては駄目よ。目を悪くするわ」
慌ててシェリーが声を上げた。
ゼスはその言葉から左手を顔面から外して。その時には既に落ち着いた表情で、シェリーを一瞥する。
「すまない。つい、癖でな」
「……その癖、矯正した方がいいわよ、悪い事言わないから」
「ああ、そうした方が良いだろうな。だが、しかし―――」
右手に持っていた麻袋に包まれた大剣と共に、ゼスは立ち上がる。
森林の奥、これから向かう先へと真っ直ぐに視線を突き差しながら。
懐から取り出したナイフを投擲し、奥で樹に昇っていた蛇を一瞬で刺し仕留めた。それが、今回の朝食である。
「―――俺が強くなれば。あんな夢も、癖も、もうすることはないな」
強い意志を込めた声が、森林の果てまで浸透していった。
―――11月29日4時37分―――残り、1カ月と2日、19時間23分