誠の憂鬱
「行ってきまーす。あ、母ちゃん、床屋にも行くから金をくれよ」
「また行くのかい? そんな頭でしょっちゅう床屋さん入っても、切るところがないって言われるだろうに」
ほんの少し伸びかけた誠の坊主頭に目をやって、母親が財布から三枚の千円札を出して渡す。
「こんな頭だから、ちょっとでも伸びると気になってしょうがねんだよ。伸ばしたら伸ばしたで、父ちゃんがうるさいじゃないか」
父親は中学生の誠が髪を伸ばすことに否定的であった。小柄でげっ歯類を彷彿とさすような顔と坊主頭が同級生達からの軽視を招くことも多く、一時は髪を伸ばしたいと父親に懇願したこともある。しかし今は気にならなくなっていた。
――お前ぐらいの連中は、何かしら理由を見つけては、てめえが人より大人だと思いたがるもんだ。二十年も経ってみろ。今度は人より若く見られたくなる。そん時がお前の旬なんだ――
小野木に言われたその言葉に、外見だけの背伸びが無意味であることに気づいたのだった。
誠と正は、小野木のバリカンを借りてはお互いの頭を丸刈りにしていた。床屋代と称して親からせしめた金はベガ農園の留守を預かる三人の昼食代に充てている。冷蔵庫の中のものも、畑になっている野菜も好きに食べろ。小野木にはそう言われたが、彼等の家も同じ農家である。我が家で出されるものと似たり寄ったりのメニューに喜ぶ中学生は居ない。好物であるハンバーガーやフライドチキンを買っては、三人で合宿気分を満喫していた。
自転車を引っ張り出し、こぎだそうとする誠を畑仕事から戻った父親が呼びとめた。
「誠、お前夏休みぐらい、うちの手伝いをしたらどうなんだ。今まで何もしてなかったのが、急に部活なんか始めよってからに」
「忙しいんだよ、色々と。今日は部活の後、床屋にも行きたいし」
やってもいない部活を、毎朝出掛けるための口実にしていた。昔気質の父親にベガ農園の手伝いをしていることが分かれば、家を手伝えと言われるに決まっている。ここではどれだけ一生懸命働こうとバイクに乗せてももらえなければ整備も教われない。何より口喧嘩の絶えない両親と一緒の労働は苦痛でしかなかった。
「中学生のお前が、何でそう忙しいんだ。そういえばもう進路は決めたのか? 中ノ原農林でいいんだな」
背中に掛けられた声に誠はペダルをこぐ力を緩める。
「ええと、それなんだけどさ……」
そろそろ言っておかないといけない、最近強くなってきた思いを口にしてみる。
「俺、中南工業に行きたいんだ。あそこ自動車科があるだろう、整備を覚えたいんだよ」
モトクロスの腕前は鈴木正にどんどん水を開けられてゆくが、カジに教わる機械いじりが楽しくて仕方なくなってきていた。
「農園の息子が自動車なんかいじってどうするんだ。お前がここを継ぐんだぞ、晴美は女だし」
中学二年生の晴美は、収穫や袋かけの作業を何かと理由をつけてはさぼるようになっている。そんな妹に、うるさく手伝いをしろと言わないことも誠は面白くなかった。
「婿養子って手も、あるじゃん」
「そんなのが農園の仕事を覚えるまでに何年かかると思ってんだ。お前の学校の裏に来た連中みたいに梨棚を半分潰しちまってオートバイ乗りまわす暴走族みたいなのを連れてくるかも知れんだろうが。隣の原田んとこの息子みたいに高校から新しい苗や種を持って帰ってくれたら節約にもなる。農園の息子はN農林に行って農園を継ぐ、ここいらはみんなそうなってんだ」
これからまさに向かおうとしていたベガ農園が話題に上り、誠はドキリとした。暴走族とモトクロスは違う、それに学校のものを持ち帰るのは泥棒と一緒じゃねえか。そう反論しようとしたが農業にしか興味のない父親に言っても無駄だろう。進路の話は母親か担任から頼んでもらおう。犬達も餌を待っているだろうし鶏の世話も手早く片付けて、一刻も早く分解途中のバイクに触れたい。そう考えた誠は議論の矛を鞘に収める。
「まだ進路希望を出すまでに時間はあるから、よく考えとくよ」
「整備っていえば、トラクタのエンジンがかかんねんだ。出掛けるなら農協に寄って、見に来るように伝えといてくれ」
そう言って、父親が背を向ける。
「かかんねえってどんな風に? 春の土壌改良ん時は動いてたんじゃなかったっけ」
「そんなもん、素人の俺に分かる訳ないだろうが。とにかくエンジンがかかんなくなっちまったんだよ。いいからお前はそう言ってこればいいんだ。行くなら早く行け。あまり遅くならないように帰ってくるんだぞ」
振り返って答える父親の言葉は、にべもない。引き止めたのは父ちゃんじゃないか、そうは思ったが、つまらない口論に時間を費やすのも惜しい。反射的に開きかけた口を閉じ別の返事を選んだ。
「わかった、ゆっとく」
再びペダルに足を乗せた誠だったが、何故か気になって農機具小屋の前で自転車を止め、古びたトラクタのイグニッションキーを捻ってみる。燃料計の針は振れるからガス欠ではないな。さらに捻るとスターターの回る音がして目覚めようとはするが、エンジンに火は入らない。
初爆はあるな、どうせ古い燃料入れたまま放置しといてカブらせたか何かだろう。未だにガソリンエンジンのトラクタを使ってるのなんか、うちぐらいのもんだ。ただ、これなら俺でも何とかなりそうだ。泊まり番は明後日だったから、帰りに工具箱を借りてきてバラしてみよう。これを直したら、父ちゃんもT工業への進学を考えてくれるかも知れない。説得までは出来なくたって材料にはなる。ようし、絶対直してやるぞ――重い工具箱をしっかりと固定するためのロープを自転車の籠に入れ、誠は街道までの坂道を一気に駆け下った。